(3)景行天皇と美濃の八坂入媛 〜東之宮古墳から青塚古墳へ〜

景行天皇

景行天皇の美濃行幸

日本書紀によると、第12代景行天皇はその2年、播磨の稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)を皇后に立てたという。この女性が産んだ子が、オオウスとオウス(ヤマトタケル)の双生児だ。

景行天皇が次に娶ったのが、美濃に住む皇族・八坂入彦の娘で「八坂入媛」。

八坂入彦は、景行天皇の祖父・第10代崇神天皇が尾張氏の大海媛との間に儲けた皇子なので、八坂入媛は景行天皇にとってはイトコにあたる。この二人の間に産まれた子が「稚足彦尊」、すなわち第13代成務天皇だとされる。

東之宮古墳の測量図
(「東之宮古墳」2021年春見学)

景行天皇が美濃で営んだ「泳宮(くくりのみや)」は、現在の岐阜県可児市久々利に比定されているようだ。当然、未婚の娘がいる八坂入彦も、そのあたりに居住していたのだろう。

ただ、景行天皇の美濃巡幸の目的が、女漁りだけではなさそうだと分かるのが、下の図「濃尾平野の主要古墳の変遷図」(抜粋)だ。

長浜浩明さんの計算では、景行天皇4年は西暦292年頃のこと。図からは、その頃を境にして、小さい前方後墳をチマチマ造営していた濃尾平野に、一気にヤマト式の前方後墳が広がったことが確認できる。

一説によると、地方での前方後円墳の築造には、ヤマトからの「承認」が必要だったという。景行天皇の美濃巡幸のタイミングは、まさに天皇が直々に前方後円墳の造営を許す、すなわちヤマトの一員に迎え入れる———そんな儀式の存在を、思わせなくもない気がする。

美濃の主要古墳の変遷
(出典『邪馬台国時代の東海の王・東之宮古墳』赤塚次郎/2018年)

東之宮古墳と狗奴国東海説

景行天皇が滞在した「泳宮」のある可児市に隣接するのが、愛知県犬山市。

かつては犬山市から一宮市あたりを「丹羽(にわ)郡」といったそうで、景行天皇が巡幸してくる前にその一帯を支配した「丹羽の王」が眠るとされるのが、白山平山の山頂に造営された「東之宮古墳」だ。

墳形は、近江や岐阜に多いといわれる前方後墳で、墳丘長は72m。

東之宮社
(東之宮社)

奈良盆地の古墳というと、平地に土を盛って(あるいは丘陵を削って)人々にその威容を見せつけるもんだが、東之宮古墳はケッコーな急勾配の山頂に造営されていて、登るのにはかなり難儀したもんだった。

全体を葺石で覆っているので、古墳時代は濃尾平野のかなり遠くからでも、太陽にピカピカ反射する姿が見えたことだろう。

そんなキッツい山頂にありながら、東之宮古墳は一度地表を平らに削ったところに、わざわざ下界から石や土を運び上げて盛り土したものだそうだ。墳丘サイズは平凡だが、かかった労力は半端でない。

『邪馬台国時代の東海の王・東之宮古墳』赤塚次郎/2018年

副葬品にも特徴があって、棺内に一枚だけ安置された銅鏡は、濃尾平野にしか存在しない日本製の「人物禽獣文鏡」なる一品。近くの宝石箱には、美濃東部で産出した石で作った三種の「腕輪」と「合子」という、美しい工芸品が納められていたそうだ。

地元の考古学者・赤塚次郎さんによれば、それらは「弥生時代からの伝統的地域社会が育てた文化」そのもので、東之宮古墳の被葬者は、邪馬台国時代の「邇波(にわ)」を支配した土着の王であろう、とのことだ。

そしてその王は、魏志倭人伝に邪馬台国の卑弥呼と敵対したと書かれる「狗奴国」のメンバーの一人だろうと。

(前略)この現象のもとに、結果的には3世紀中ごろまでには、列島の多くの地域で西日本には前方後墳、東日本には前方後墳がとくに目立って造営されていくことがわかってきた。個々の国々がさらに大きなまとまりへと変貌しつつあったのである。

そして卑弥呼を長とする女王国と、それに反旗を翻したヒミココ(卑弥弓呼)が率いた狗奴国との抗争が247年ごろに勃発する。 このシナリオにもとづけばであるが、東之宮古墳に眠る王は狗奴国側の一員として歴史的出来事に遭遇し、活躍した人物かもしれない。どうだろうか。

(『邪馬台国時代の東海の王・東之宮古墳』赤塚次郎/2018年)

ただ、東之宮古墳からは地元・濃尾の倭鏡だけではなく、全11面中、4面の「三角縁神獣鏡」も出土している。それはヤマトが有力な豪族に配った「威信財」だといわれていて、ヤマトのメンバーである証になるんだろう。

だが赤塚さんは、東之宮古墳の築造年代を3世紀第3四半期だとお考えなわけで、遅くともAD275年までには、東之宮古墳の王もヤマトの一員になっていたことになる。

それだと邪馬台国に対抗した「狗奴国連合」は、3世紀中葉には消滅したことになって、意外と短命に終わった感があるが、そんなもので構わないんだろうか。

青塚古墳(犬山市)
(「青塚古墳」2021年春見学)

青塚古墳の被葬者は

赤塚さんが、東之宮古墳につづいて造営された「邇波」の首長墓だといわれるのが、同じく犬山市にある「青塚古墳」だ。

こちらは山頂ではなく、フツーに平地に造られていて、墳丘も前方後墳から前方後墳に変わっている(123m)。築造年代は、赤塚さんの変遷図だと4世紀初頭のようだ。

青塚古墳の地主は名神大社の「大縣神社」だそうで、神社では被葬者を『先代旧事本紀』の「天孫本紀」に出てくる「邇波縣君(にわのあがたのきみ)の先祖の大荒田(おおあらた)」だと主張しているようだ。

青塚古墳の平面図(現地の案内板)
(現地の案内板より)

ただ「大荒田」の娘(玉姫)は、尾張国造でヤマトタケルの東征に従軍したという「建稲種(たけいなだね)命」に嫁いでいて、その格からいって愛知県じゃ2位になる123mの大型古墳がふさわしいかというと、チト微妙な印象がぼくにはある。

それなら同じく『先代旧事本紀』の「国造本紀」がいう、初代の「三野後(みののしり)国造」で「物部連」の祖「臣賀夫良(おみかふら)命」の方がフィットするんじゃないだろうか。まぁその場合は、東之宮古墳の被葬者との血縁関係はなさそうだが。

4世紀には、静岡県にも80〜100m級の古墳があれこれ造営されていて、あの辺りの国造にも「物部氏」が多い。ぼくは、四道将軍(長浜さんの計算で212年頃)に従軍した物部氏が、現地に「屯田」していった結果だと思っているが、それは(↓)こちらの記事にて。

それと西暦300年頃には、まだ「尾張氏」の勢力は濃尾平野北部まで伸びておらず、それは5世紀末のこと———という件については(↓)こちらの記事を。

青塚古墳の出土品(まほらの館)
(青塚古墳「まほらの館」にて)

美濃国造「神骨」の娘たちと大碓皇子

景行天皇が美濃で妻にしようとしたのは「邇波」の八坂入媛だけはなかった。つづいて天皇は、「御野(みの)」を治める美濃国造「神骨」の娘たちの美貌を聞きつけて、長男のオオウス(大碓皇子)を派遣して、下見をさせたという。

ところがオオウスは、父に背いて娘たちと通じてしまい、女を盗られた天皇の恨みを買った———と日本書紀は記すわけだが、長浜さんの計算だと、これはチト有りえない話になる。

というのも、オオウス(とヤマトタケル)が産まれたのはAD282年頃で、父にいわれて姫たちを偵察した時は、まだほんの10歳前後だったから。おそらく精通はないし、美女二人を手玉に取る剛腕はなかったと思われる。

一方、蝦夷討伐を命じられて、びびって逐電したという景行天皇40年のオオウスは28歳前後なので、こっちには違和感がない。まじで逃げたんだろう。

「上磯古墳群」Google Earth
(「上磯古墳群」Google Earth)

ところで「御野」でも「邇波」と同様に、旧来の前方後墳からヤマト式の前方後墳へのシフトは見られたようだ。

上のGoogle Earthは、岐阜県揖斐郡大野町の「上磯古墳群」で、近い年代の三基の首長墓が密集している様子が分かる。赤塚次郎さんの編年だと、「方」の「北山古墳」(83m)が先行して、その後「方」の「南山古墳」(96m)と「円」の「亀山古墳」(98m)がつづいて築造されたようだ。

※詳しくは「上磯古墳群」- 大野町公式サイト – を。

これら三基のうち一基は、日本書紀が美濃国造だという「神骨」のお墓だと思われるが、古事記には神骨ではなく「大根王(八瓜入日子)」という名が残っているし、国造本紀には「彦坐王の子の八瓜命」が「三野前(みののさき)国造」だとかいてあって、三者三様。

ただ同時期に同規模の首長墓が三基、つづけて造営されたのも事実なので、それぞれ「神骨」「大根王」「八瓜命」のお墓だという可能性もあるのかも知れない。

前方後方墳 写真AC
(前方後方墳 写真AC)

狗奴国東海説は成り立つのか

上の方で引用した、赤塚次郎さんの「狗奴国東海説」を簡単に言えば、畿内の前方後墳+庄内式土器と、東海の前方後墳+S字甕という異なる文化に「対立」をみて、それらを魏志倭人伝の邪馬台国と狗奴国に当てはめた説———って感じだろうか。

この説では邪馬台国「大和説」が議論の「前提」になっているので、倭人伝に記された距離や方位の問題などは、「大和説」のほうに丸投げされているようだ(つまり特に言及はない)。

前方後方墳 写真AC
(前方後方墳 写真AC)

んでこの議論、邪馬台国「九州説」の論者に限らず、各方面からの批判も多い。ぼくが聞いてる範囲で、いくつか挙げてみると、以下。

①神戸の西求女塚古墳

東の文化のはずの前方後方墳は西にもあって、例えば神戸市の「西求女塚古墳」は東之宮古墳より古く、東之宮古墳よりデカい98mの前方後墳だ。

しかも、ヤマトのシンボル「三角縁神獣鏡」を7面も副葬していて、これは京都府の「椿井大塚山古墳」のものと「同笵鏡」だという。明らかに被葬者はヤマト側の人物で、そこに東西の「対立」は見られない。

「西求女塚古墳」出典:神戸まちガイド
(「西求女塚古墳」出典:神戸まちガイド

なお、3世紀後半には吉備にも「備前車塚古墳」という48mの前方後方墳が造られていて、こちらからも三角縁神獣鏡が11面出土している。墳形こそ「方」をとるが、前方部が「バチ形」に広がる「箸墓古墳」の1/6相似形で、ヤマトの影響は明らかだ。

全国の前方後方墳ベスト10
(出典『朝倉・広瀬古墳群』前橋市教育委員会/2024年)

②大きい前方後方墳は奈良盆地に多い

前方後方墳の大きさベスト3は、みな奈良盆地にある。「対立」していた勢力の文化を取り入れて、なおかつ巨大化させる理由も動機も、ヤマトにあったとは考えにくい。

メクリ1号墳
(出典『ヤマトと伊都国』伊都国歴史博物館/2023年)

③纒向遺跡のど真ん中にも前方後方墳

上の「図29−4」は、纒向遺跡のど真ん中にある前方後方墳で「メクリ1号墳」。全長28mで、前方部と後方部の比率が1:2になる「纒向型」の規格。有名な「神殿(大型建物D)」のすぐ脇に立地している。

築造年代は、纒向矢塚古墳(96m)やホケノ山古墳(80m)と同じ頃とのことで、箸墓古墳より前から纒向にあった前方後方墳のようだ。

前方後方墳の形成過程
(出典『邪馬台国とヤマト王権』藤田憲司/2016年)

④前方後方墳は畿内でも生まれている

上の「図31」は、滋賀県における前方後墳の成立過程で、同じようなものは大阪府の「八尾南遺跡」などでも見ることができるという。つまり、弥生時代の墓制である「方形周溝墓」があれば、そこから前方後方墳へは、どこでも似たようなプロセスで発展していった———ということらしい。

むしろ、ヤマトがなぜ円形ベースの古墳に向かったのか・・・の方が謎のようで、奈良盆地に前方後円墳の「前段階」はまだ見つかっていないそうだ。

「神門5号墳」2022年春見学
(「神門5号墳」2022年春見学)

⑤前方後円墳と東海系土器という組み合わせ

千葉県市原市の「神門5号墳」は、3世紀中頃に造られた関東では最古の「纒向型」前方後墳として有名だ(42.6m)。しかし、その母体である「中台遺跡」や「南中台遺跡」からは、東海系の土器も多数、出土しているのだという。千葉では、畿内の文化と東海の文化は「対立」どころか、融合して渡ってきていたようだ。

吉野ヶ里遺跡の前方後方墳
(出典『邪馬台国時代のクニの都・吉野ケ里遺跡』七田忠昭/2017年)

佐賀県の前方後方墳

福岡市に、北部九州では初となる前方後墳「那珂八幡古墳」(75m)が築造された3世紀後半、佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」では住民が消えていって、代わりに前方後墳が4基、相次いで造営されたという。これらを築いたのは、東海の人たちなんだろうか。

纒向遺跡の外来系の土器の比率
(出典『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』石野博信/2008年)

纒向遺跡の東海系土器

「狗奴国東海説」では東海地方と敵対したとされる、畿内の中心地「纒向遺跡」の外来系土器は、その東海地方のものが圧倒的に多い。一説によると、纒向には東海から古墳づくりの「期間工」が集まって、キャンプ生活をしていたそうだ。

(出典『古代史のなかの女性たち』春日井シンポジウム/1998年)

———最後に一点。赤塚さんが1995年に作成した古墳編年が上の図(抜粋)。よく見れば、東之宮古墳が4世紀初頭、青塚古墳が4世紀後半と、全体的に30〜40年、年代が新しいことが分かる。

ぼくはニワカの一般人なので、赤塚さんが2018年の著書で年代を引き上げている根拠や背景については、全くわからない。ただ4世紀初頭の築造だと、東之宮古墳の被葬者と「狗奴国」を絡めるのが難しいことは分かる。

東之宮古墳に葬られている人物が生前に活躍した時代は、どうやら3世紀中ごろという興味深い時期に想定できる。すると東之宮古墳の被葬者は、まさに邪馬台国と狗奴国が抗争する日本歴史の一つの画期を駆け抜けた人物かもしれない。

(『邪馬台国時代の東海の王・東之宮古墳』赤塚次郎/2018年)

ゲスの勘繰りであればいいんだが・・・。

景行天皇(4)につづく

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