2025-05

欠史八代

(1)神武天皇と「鴨氏」「三輪氏」の同盟 〜東奈良遺跡/中西遺跡〜

媛蹈鞴五十鈴媛と「東奈良遺跡」神武天皇の即位は、長浜浩明さんの計算によればBC70年頃のこと。その前年の9月、天皇は「事代主神」の娘「ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)」を正妃に迎えたと日本書紀に書いてある。ヒメタタライスズヒメの母親は...
神武天皇

(12)「天富命」と忌部氏の東遷 〜出雲系の安房国造〜

『古語拾遺』のアメノトミ奈良時代の前半ぐらいまで、中臣氏と並んでいた祭祀氏族が忌部氏だ。690年の持統天皇の即位式では、まず物部氏の石上麻呂が「大盾」を立て、中臣氏の藤原大嶋が「天神寿詞」を読み上げ、続いて忌部宿禰色夫知(しこぶち)が「神璽...
神武天皇

(11)初代紀伊国造「天道根命」と日前神宮・國懸神宮 〜紀伊のスサノオ〜

先代旧事本紀のアメノミチネ神武天皇に、初代の「紀伊国造」に任命されたという「天道根命」の活躍は、日本書紀には出てこない。出てくるのは、平安初期に物部氏の末裔が撰録したとされる史書『先代旧事本紀』の中でだ。先代旧事本紀「天神本紀」では、神武天...
神武天皇

(10)大伴氏の「道臣命」と神武天皇の顕斎 〜皇祖神はアマテラスかタカミムスビか〜

名将「みちのおみ(道臣命)」登場日本書紀によれば、熊野の山中で遭難した神武天皇の夢にアマテラスが現れて、先導者としてヤタガラスを派遣したと告げてきた。このヤタガラスを追って、皇軍を宇陀まで導いたのが、大伴氏の遠祖「日臣(ひのおみ)」で、神武...
神武天皇

(9)「天日別命」と伊勢津彦 〜伊勢国風土記のヤマトヒメ〜

アメノヒワケとイセツヒコ神武東征のスピンオフ?が、「伊勢国風土記」の「逸文」に載っている。アメノミナカヌシの12世孫という「天日別命(あめのひわけ)」による伊勢平定だ(出典は「万葉集注釈」)。熊野から兎田(宇陀)に軍を進めた神武天皇は、主力...
神武天皇

(8)熊野の「高倉下」と霊剣ふつのみたま 〜熊野本宮・速玉・那智大社の物部氏

神武天皇はなぜ熊野へ行ったのか日本書紀によれば、河内の日下(孔舎衛坂)でナガスネヒコ軍と戦った皇軍は、流れ矢が長兄「イツセ(五瀬命)」の脇に当たるアクシデントもあって、苦戦した。神武天皇は「日の神の子孫であるのに、日に向かって賊を討ったこと...
神武天皇

(7)河内の物部氏と「池上曽根遺跡」の神殿と王 〜饒速日山と日下〜

ニギハヤヒの東遷と饒速日山の物部氏前回の記事では、民俗学者の谷川健一さんが提唱する「物部氏の東遷」のスタート地点である、北部九州における物部氏の分布をみてみた。今回はその続きで、瀬戸内海のつきあたり、東遷のとりあえずのゴールである河内周辺の...
神武天皇

(6)神武天皇は筑紫・岡水門(岡田宮)で何をしたか 〜遠賀川流域の物部氏〜

楽浪郡と東の「倭種」BC108年、漢の武帝は朝鮮半島に派兵して、今の平壌に楽浪郡を設置した。21世紀を生きるぼくらは中華帝国が朝鮮半島を直接支配しなかったことを知っているが、当時の北部九州あたりの住民には「まさか」の軍靴の響きが聞こえてきた...
神武天皇

(5)「海幸山幸」はヤマトに奪われた隼人の神話か〜二人のヒコホホデミ〜

日向神話とは出雲のオオクニヌシから地上世界(葦原中国)の支配権を「譲られた」天孫ニニギは、降臨すると山の神(大山祇神)の娘・カシツヒメを娶って山の支配権を獲得した。カシツヒメは「火中出産」で隼人の祖(海幸彦)、皇室の祖(山幸彦)、尾張連の祖...
神武天皇

(4)神武天皇の「天つ表(しるし)」とニギハヤヒの「十種の神宝」 〜物部氏と徐福の子女〜

神武天皇とニギハヤヒは「同族」か皇室の正史『日本書紀』によれば、神武天皇が東征を決意したのは「塩土老翁(しおつちおじ)」からニギハヤヒ(饒速日)が「天磐船」に乗って「東の美地」に飛び降りたことを聞いたことが、きっかけだった。長浜浩明さんの計...
神武天皇

(3)秦の「徐福」は有明海北部に渡来した 〜徐福の墓は吉武高木遺跡か〜

『史記』の徐福と安曇族海洋学の専門家、亀山勝さんの『安曇族と徐福』(2009年)によれば、始皇帝の命令で不老不死の霊薬を探しに出かけた「徐福」は、安曇族の案内で日本の九州に渡ったのだという。安曇族は春秋時代のBC473年に「越」に滅ぼされた...
神武天皇

(2)呉の「安曇族」が弥生時代に志賀島を拠点に水田稲作や養蚕を広める

呉から渡来した安曇族「紀元前500年頃」「長江下流域」からイネを携えて日本列島に渡ってきた人たちがいた。それをBC473年に滅亡した「呉」の遺民だと考えた研究者は、過去にも結構いたようだ(斎藤忠、佐々木高明、岡正雄など)。ただ、その呉からの...