欠史八代

(9)彦坐王(ヒコイマス)の近江王国「伊勢遺跡」 ~和珥氏と息長氏〜

伊勢遺跡の謎の「祭殿」群記紀の記述を綜合すると、第9代開化天皇は日本海航路の確保を目指して、丹後を拠点とする旦波大県主「由碁理(ゆごり)」と手を結び、その娘「竹野媛」を妃に娶ったようだ。だが、ろくな道路もない時代のこと、大和から日本海に出よ...
欠史八代

(8)開化天皇と丹波の竹野媛 〜赤坂今井墳墓の旦波大県主「由碁理」〜

「欠史八代」の政略結婚日本書紀によると、「欠史八代」といわれる第2代綏靖天皇から第6代孝安天皇までの5帝は、皇妃(側室)に「磯城(しき)県主」の娘を入れている。磯城県主は、神武天皇に協力した大和土着の豪族「弟磯城(おとしき)」に始まる役職で...
欠史八代

(7)倭国大乱と妻木晩田遺跡/西谷3号墓 〜オオクニヌシの誕生〜

山陰最大の弥生ムラ「妻木晩田遺跡」いわゆる「倭国大乱」で「倭人」たちが殺し合いをしていたという2世紀後半に、その最盛期を迎えていた弥生ムラが山陰にある。鳥取県大山町の「妻木晩田(むきばんだ)」遺跡」だ。「晩田山」という小高い丘陵に広がった妻...
欠史八代

(6)倭国大乱と青谷上寺地遺跡/観音寺山遺跡 〜殺傷痕人骨と高地性集落

青谷上寺地遺跡の殺傷痕人骨636年に成立した中国の『梁書』によれば、「後漢の霊帝の光和年間(178〜183年)に倭国が乱れ、何年も攻め合った」。そこで「国人」は「鬼道」をあやつり衆を惑わす「卑弥呼」を王に立てたという。「邪馬台国畿内説」では...
欠史八代

(5)五斗長垣内遺跡/舟木遺跡とヤマトの鉄 〜邪馬台国時代の鉄鏃と銅鏃〜

淡路島の五斗長垣内遺跡弥生時代後期のAD50~200年頃に、鉄器生産に特化した集落として営まれたのが、淡路島の「五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)」。2007年から始まった発掘では、東西500x南北100mのムラに竪穴式建物23棟が見つか...
欠史八代

(4)出雲の荒神谷遺跡/加茂岩倉遺跡で青銅器祭祀が終焉 〜出雲国風土記のオオクニヌシ〜

青銅器から墳丘墓へ奈良県「唐古・鍵遺跡」や愛知県「朝日遺跡」で、集落が大きな変化を見せていた弥生時代中期末(紀元元年前後)、遠く出雲でも歴史的な大事件が起こっていた。青銅器による祭祀の終焉だ。1984年、出雲市の「荒神谷遺跡」から史上最多と...
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(3)東海最大「朝日遺跡」の尾張氏 〜逆茂木・乱杭と倭国大乱〜

尾張氏の出身地は葛城か日本書紀によると、第5代孝昭天皇は、尾張連の遠祖「瀛津世襲(おきつよそ)」の妹、「世襲足媛(よそたらしひめ)」を皇后に立てたという(磯城県主の娘も娶っている)。それは孝昭天皇29年のことというから、長浜浩明さんの計算だ...
欠史八代

(2)欠史八代と「唐古・鍵遺跡」 〜磯城県主との政略結婚〜

シキ県主との政略結婚日本書紀によると、宇陀から磯城(しき)に進んだ神武天皇の皇軍は、椎根津彦の立案で兵を二手に分けると、忍坂で敵を引き付けつつ、墨坂に回った精鋭に敵の背後を突かせた。磯城の敵軍は敗走し、首領の「兄磯城(えしき)」は斬首された...
欠史八代

(1)神武天皇と「鴨氏」「三輪氏」の同盟 〜東奈良遺跡/中西遺跡〜

媛蹈鞴五十鈴媛と「東奈良遺跡」神武天皇の即位は、長浜浩明さんの計算によればBC70年頃のこと。その前年の9月、天皇は「事代主神」の娘「ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)」を正妃に迎えたと日本書紀に書いてある。ヒメタタライスズヒメの母親は...
神武天皇

(12)「天富命」と忌部氏の東遷 〜出雲系の安房国造〜

『古語拾遺』のアメノトミ奈良時代の前半ぐらいまで、中臣氏と並んでいた祭祀氏族が忌部氏だ。690年の持統天皇の即位式では、まず物部氏の石上麻呂が「大盾」を立て、中臣氏の藤原大嶋が「天神寿詞」を読み上げ、続いて忌部宿禰色夫知(しこぶち)が「神璽...
神武天皇

(11)初代紀伊国造「天道根命」と日前神宮・國懸神宮 〜紀伊のスサノオ〜

先代旧事本紀のアメノミチネ神武天皇に、初代の「紀伊国造」に任命されたという「天道根命」の活躍は、日本書紀には出てこない。出てくるのは、平安初期に物部氏の末裔が撰録したとされる史書『先代旧事本紀』の中でだ。先代旧事本紀「天神本紀」では、神武天...
神武天皇

(10)大伴氏の「道臣命」と神武天皇の顕斎 〜皇祖神はアマテラスかタカミムスビか〜

名将「みちのおみ(道臣命)」登場日本書紀によれば、熊野の山中で遭難した神武天皇の夢にアマテラスが現れて、先導者としてヤタガラスを派遣したと告げてきた。このヤタガラスを追って、皇軍を宇陀まで導いたのが、大伴氏の遠祖「日臣(ひのおみ)」で、神武...