垂仁天皇

(4)倭姫命はなぜ伊勢に行ったか 〜日本書紀の「天照大神」と「伊勢大神」〜

倭姫命はなぜ伊勢に行ったか日本書紀によると垂仁天皇25年(長浜浩明さんの計算で253年頃)の2月、天皇は5人の重臣を前にして「天神地祇の祭祀」の強化を詔している。それを受けて翌3月、垂仁天皇はそれまで皇女「豊鍬入姫命」が大和の「笠縫邑(桧原...
垂仁天皇

(3)野見宿禰の「埴輪」と大和柳本古墳群 〜メスリ山古墳の被葬者は?〜

野見宿禰の相撲と埴輪日本書紀に「野見宿禰」が登場するのは2回。まず垂仁天皇7年(長浜浩明さんの計算で244年頃)に、当時、最強の男とされた「当麻蹶速(たぎまのくえはや)」の「相撲」の相手として出雲国から招聘され、圧倒的な強さでクエハヤのアバ...
垂仁天皇

(2)狭穂彦王はなぜ皇位を狙えたのか 〜ヒメヒコ制と母系継承の終焉〜

サホヒコ王はなぜ皇位を狙えたのか日本書紀によると、垂仁天皇4年(長浜浩明さんの計算で243年頃)、皇后「狭穂姫命」の実兄「狭穂彦王」が「謀反を起こして国を傾けようとした」という。サホヒコは皇位を狙い、夫より兄を愛していると言った妹・サホヒメ...
垂仁天皇

(1)ツヌガアラシトと伊都都比古 〜秦氏の古事記のアメノヒボコ〜

ツヌガアラシトと鉄人「蚩尤」日本書紀によると崇神天皇崩御の年(長浜浩明さんの計算で241年頃)、福井県敦賀市の「笥飯浦(けひのうら)」に「意冨加羅国」の王子、「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」を乗せた船が停泊したという。「乗一船」とあるの...
崇神天皇

(9)出雲王「出雲振根」の謀殺 〜出雲族の追放と東国への屯田〜

物部氏の武諸隅が、出雲に神宝を献上させる日本書紀によれば、崇神天皇はその60年(長浜浩明さんの計算で237年頃)、出雲に対して「神宝」を献上させる使者を送っている。使者は「矢田部氏の遠祖」だとする「武諸隅(たけもろすみ)」で、『先代旧事本紀...
崇神天皇

(8)常陸国風土記の「建借間命」「比奈良珠命」「黒坂命」とヤマトタケル

常陸国風土記の崇神天皇崇神天皇の東国政策を知りたければ、東国に聞け―――ということで『常陸国風土記』の崇神天皇について。常陸国風土記によれば、崇神天皇が「東国の荒々しい賊」を討ち平らげようとして派遣した将は二人で、一人は「新治の国造の祖」だ...
崇神天皇

(7)「豊城入彦」「彦狭島王」「御諸別王」のお墓はどこか 〜桜井茶臼山古墳の被葬者は?〜

豊城命は東国に赴任したか日本書紀によれば、崇神天皇はその48年(長浜浩明さんの計算で231年頃)、二人の皇子が睡眠中に見た「夢」で、皇太子をどちらにするかを占うことにした。兄の「豊城(とよき)命」は、御諸山(三輪山)から東に向かって武器を振...
崇神天皇

(6)崇神天皇と箸墓伝説/箸墓古墳 〜弥生のカミ殺しから前方後円墳祭祀へ〜

否定され、殺される弥生のカミ考古学者の石野博信さんによると2世紀末、つまり纒向遺跡の初期の頃、「纒向人」は徹底した「弥生のカミ殺し」を行ったのだという。その一つは「大福遺跡」で見られたような、銅鐸の「埋め殺し」で、彼らは銅鐸の内部に土砂を充...
崇神天皇

(5)四道将軍「吉備津彦」〜楯築弥生墳丘墓から纒向石塚古墳へ〜

吉備津彦は実在の人物か日本書紀によると、崇神天皇10年(長浜浩明さんの計算で212年頃)に、勅命によって「西道」の「教化」に派遣されたのが、四道将軍の「吉備津彦」だ。九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、丹波道主命...
崇神天皇

(4)四道将軍「丹波道主命」〜丹後王国の終焉と椿井大塚山古墳〜

彦坐王と丹波道主王崇神天皇10年というから、長浜浩明さんの計算だと西暦212年頃、四道将軍の一人に選ばれて「丹波」の「教化」を担当したのが「丹波道主(たにはのちぬし)命」だ。丹波道主命の父は、第9代開化天皇の第三皇子「彦坐(ひこいます)王」...
崇神天皇

(3)四道将軍「武渟川別」〜東海の物部系国造と高尾山古墳〜

武渟川別と物部氏の東征崇神天皇10年(長浜浩明さんの計算で212年頃)、四道将軍の一人に任命され、「東海」の「教化」を担当したのが大彦命の子「武渟川別(たけぬなかわわけ)」だ。日本書紀によれば武渟川別は、のちの飛鳥時代に日本海側の東北地方を...
崇神天皇

(2)四道将軍「大彦命」〜北陸から会津へヤマトの拡張〜

孝元天皇と大彦命の親子関係日本書紀によると、第10代崇神天皇はその10年(長浜浩明さんの計算で西暦212年頃)、周辺国の「教化」を目的に、4人の将軍(四道将軍)を任命したという。そのうち北陸を担当したのが「大彦命(大毘古命)」。第8代孝元天...