(14)「平塚川添遺跡」は邪馬台国の都か 〜『邪馬台国論争の新視点—遺跡が示す九州説—』片岡宏二〜

平塚川添遺跡遠景 邪馬台国

約50年間で3倍に拡大した「纒向遺跡」

考古学者の坂靖さんによれば、庄内式期(いわゆる邪馬台国時代)の「纒向遺跡」の範囲は、まだ約1平方キロ(100ha)ほどのもんだったという。

同時代の伊都国「三雲・井原遺跡」が60haというから、それよりは大きいものの、奴国「須玖遺跡群」の200haには劣る・・・そんなところか。

ところが、纒向遺跡は布留式期(3世紀後葉)に東西南北すべてに拡がり、約3平方キロ(300ha)に到達している。そして4世紀前半のあいだ、日本列島最大の巨大集落として存在していたそうだ。(『ヤマト王権の古代学』坂靖/2020年)

平塚川添遺跡
(「平塚川添遺跡公園」2020年春見学)

だが、纒向遺跡の発掘を担当した考古学者の石野博信さんによれば、纒向遺跡はAD180年頃に突然あらわれて、AD350年頃まで続いた「人工的につくられた政治都市」だという。計画的につくられたんだから、当初の100haは必要にして十分な規模だったはずだ。

なのに3世紀半ばから末にかけて、纒向遺跡の規模は3倍の300haにまで拡大した。フツーに考えれば、住民の数だって3倍近くになったことだろう。

でもそんなに大量の人間が、自然出産のサイクルだけで増えたかといえば、ちょっと疑問もある。やはりその大部分は日本列島の他の場所から、纒向遺跡に移住してきた人たちだったんじゃないだろうか。

『邪馬台国論争の新視点ー遺跡が示す九州説ー』片岡宏二/2019年

「平塚川添遺跡」は邪馬台国の都ではない

福岡県の考古学者、片岡宏二さんによると、平成22年に福岡県教育委員会が行った人気投票で、九州の古代史ファンが一位に推した邪馬台国の所在地は、福岡県の「甘木・朝倉地域」だったんだそうだ。

この結果は言うまでもなく、邪馬台国「九州説」の巨人、安本美典さんの影響によるものだ。そんな「甘木・朝倉地域」に見つかっている弥生集落が「平塚川添遺跡」だ。

平塚川添遺跡

1990年、工業団地の造成の際に発見され、約200軒の竪穴住居、約100棟の掘立柱建物が、最大7重の環濠で囲まれている弥生ムラが「平塚川添遺跡」の現在。

ただし片岡さんら「地元の発掘調査員」のあいだでは、集落規模としては20haにも満たない平塚川添遺跡を、邪馬台国の都だと考えている人はいないらしい。

というのも平塚川添遺跡は「その立地条件から見て、この遺跡群をのせる段丘下の西縁に形成された張り出し集落であり、言わば『新耕の地』と推測」される———つまりもっと巨大な遺跡のごく一部が、平塚川添遺跡だということのようだ。

その巨大遺跡を地元の専門家たちは「小田・平塚遺跡群」と仮称しているそうで、なんとその規模は東西が約1.5〜2キロ、南北が約3キロで、ざっと450haが推定されているのだという。

これは同時期の「纒向遺跡」の4倍以上だ。

小田・平塚遺跡群の弥生後期集落範囲の想定図
(出典『邪馬台国論争の新視点ー遺跡が示す九州説ー』片岡宏二/2019年)

上の図38は、その「小田・平塚遺跡群」の想定図。

真ん中の長方形は「ブリヂストン甘木工場」で、公式サイトによれば40haほどの面積。一番人気の「平塚川添」は8番のエリアで、「西縁に形成された張り出し集落」といわれる理由も「図38」なら一発で理解できる。

平塚川添遺跡

ところで片岡さんは興味深い試算をされていて、魏志倭人伝が記すクニグニの「戸数」と遺跡規模のあいだには、「ほぼ比例」の関係がみられるのだという。

ただ、伊都国の「千余戸」は遺跡規模に対して過小すぎるので、そこは倭人伝のネタ元といわれる『魏略』がのせる「戸万余」の方を採用する(※なお遺跡の面積は片岡さんの考察によるもの)

◯一支国 3000戸 16ha
◯末盧国 4000戸 15ha
◯伊都国 10000戸 47ha
◯奴国 20000戸 100ha

ここで「大胆に」遺跡面積を戸数で割ってみると、だいたい一戸あたりが占める面積は「50平方メートル」になる。この数字を投馬国と邪馬台国に適用してみれば、5万戸の投馬国はザッと250ha、7万戸の邪馬台国はザッと350haが必要ということになる。

平塚川添遺跡

だが、4世紀に日本最大にまで拡大した纒向遺跡が300haだ。北部九州に、単独の「一遺跡」で250〜350haの規模の集落跡を探すのは「不可能」だと、片岡さんも認めている。

ただ「緊密に連携した遺跡群」としてみれば、450haに及ぶ「小田・平塚遺跡群」には、5万戸でも7万戸でも収納可能という話になるわけだ。

夜須遺跡群の弥生後期集落範囲の想定図
(出典『邪馬台国論争の新視点ー遺跡が示す九州説ー』)

筑紫平野の「緊密に連携した遺跡群」は、小田・平塚遺跡群だけではない。平塚川添遺跡から10数キロ離れた朝倉市の北部には、「夜須(やす)遺跡群」と仮称される弥生後期の集落跡がある。

飛び飛びに発見された遺跡をひとまとめの「クニ」としてみた場合になるが、図37のキャプションによれば「北東ー南西方向で3.5km、幅は1.2kmと推定される」というから、単純に掛け算すれば面積は420ha。

ここもまた、投馬国、邪馬台国の戸数を十分に収容できる規模ということになりそうだ。

(写真AC)

・・・話がどんどん大きくなって眉唾に感じてる人もいるかと思うが、実際のところ、いわゆる邪馬台国時代に大きな平地を確保できた地域はそう多くはない。

例えば広島市はほとんどが「海の中」だったし、岡山市もJR岡山駅の目の前まで海が迫っていたという当時の岡山平野

濃尾平野も、4世紀前半は岐阜県大垣市まで海が来ていたようで、東海最大「朝日遺跡」が放棄された理由は「水没」だったそうだ。

あの時代、西日本で大きな人口を抱えることが可能だった平地といえば、北部九州か河内平野、奈良盆地、それとまだ未開発だった京都盆地・・・あと何処があるだろう。

(写真AC)

ところで魏志倭人伝には、不弥国ー投馬国ー邪馬台国のあいだの距離(里)は記されていない。この理由を片岡さんは「クニグニが接していて、距離を書く必要がなかった、あるいは書けなかった」からだとお考えだ。

これはぼくも同意で、例えば隣接している川崎市と横浜市では、遠い場所は30km以上離れているが、近い場所は0mだ。不弥国や投馬国には「王都」はなかったようだから、クニとクニのあいだの距離は説明しにくかったことだろう。

筑紫平野には山地や入り江など、平地を分断する地形がないので、不弥国、投馬国、邪馬台国は、平野一帯にダラダラと広がったクニグニ(ムラムラ)の集合体として存在することが可能だった、と言い換えることもできるかと思う。

というわけで、筑紫平野を地元とする片岡さんが、「環濠や大きな集落遺跡や後漢鏡などの出土品、土器が似ている似ていないなどを総合的にみた」という、邪馬台国時代の北部九州の「クニ想定図」が以下の図16だ。

弥生時代後期のクニ想定図
(出典『邪馬台国論争の新視点ー遺跡が示す九州説ー』)

筑紫平野から消えた人々

ところが、そんなかんじで大勢でワイワイと暮らしていた筑紫平野では、古墳時代の前期に人間が消えてしまう事件が起こっていたようだ。

例えば、小田・平塚遺跡群を構成する「平塚山の上遺跡」では2.45haの調査区域の中に、AD250年頃までに213軒の住居と167棟の掘立柱建物がつくられていたそうだ。それが突然、人口がゼロになったのだという。

この住居跡の密集度がそのまま東の台地一帯に続くとなると空恐ろしい集落になってしまう。

時期別の住居の数を比較すると、時代が下るにつれその数を増し、最後の古墳時代前期初頭で最大になりながら突然消えてしまう

なにもここだけの現象ではなく、蒲原宏行が佐賀平野でも分析しているように、この段階で筑紫平野の集落は突然姿を消してしまう

(『増補版 邪馬台国論争の新視点 – 遺跡が示す九州説 – 』2019年)

前回の記事でみたように、同じように3世紀半ば過ぎの佐賀県「吉野ヶ里遺跡」からも人間が消えてしまっている。繁栄を誇った40haの拠点集落は無人になり、その跡地にはヤマト式の前方後墳が4基、何かのモニュメントでもあるかのように造営されたという。

三世紀後半になると、吉野ヶ里遺跡全体をとりかこんでいた外環壕や北内郭・南内郭の内壕はほぼ埋没する。
(中略)
弥生時代前期から終末期まで繁栄した弥生の大集落は、弥生時代の終わり、古墳時代の到来とともに姿を消したのである。

それと前後するかのように、南内郭付近の丘陵部に前方後方墳四基と方形周溝墓四基が相次いで造営される。

(『邪馬台国時代のクニの都・吉野ヶ里遺跡』七田忠昭/2017年)
(『邪馬台国時代のクニの都・吉野ヶ里遺跡』七田忠昭/2017年)

3世紀後半に起こった集落の消失は、筑紫平野と佐賀平野のみならず、倭人伝の「狗奴国」候補地である熊本平野でも起こっている。古代の鉄の専門家、考古学者の村上恭通さんは2011年のシンポジウムでこう語っている。

じつは、あれほど大量の鉄器が出土すると話をした熊本県域も、それは弥生時代後期後葉までのことであって、古墳墳時代前期になると鉄器をもつ集落がほとんどみられなくなります。

鉄器を潤沢に生産し、消費していたはずの熊本から大集落や鉄器がみられないという状況になるのです。

北部九州の縁辺ともなる熊本県北部の集落ではまだわずかにそういった集落が点々とみられますが、昨日お話ししました阿蘇とか緑川流域ではそういう集落がみられなくなります。

(『邪馬台国時代のクニグニ – 南九州』2014年)
(『邪馬台国時代のクニグニ - 南九州』2014年)

・・・福岡南部、佐賀、熊本の人たちは、一体どこに行ってしまったんだろう。ぼくは彼らの行き先の候補には、AD250〜300の間にその規模が3倍になった「纒向遺跡」が第一に考えられると思う。

九州からの移動のきっかけになったのはAD265年の「魏」の滅亡で、北中部の九州人倭人たちは大陸の動乱から遠く離れたい一心で、山々に囲まれて安全地帯に思えた(あるいはそう喧伝された)列島奥地の奈良盆地に、新天地を求めたんじゃないだろうか。

移住希望者のために船を出したのは、のちに畿内ヤマトの海人系豪族として名を馳せた「安曇氏」や「宗像氏」だろうか。この両者は長浜浩明さんの計算だと)AD296年に始まる第12代景行天皇の「九州巡幸」で、道案内役を買って出ている。

『邪馬台国時代の関東』2015年

・・・ま、そこら辺の話は別の記事で考えるとして、九州人倭人が纒向に移住したというぼくの想像に欠陥があるとしたら、何と言っても人間の移動を表す「土器」の移動が、北中部九州と畿内の間にみられないことが挙げられるだろう。

残念ながら、3世紀後半の纒向遺跡に、九州産の土器が溢れかえっていたというFACTはない。

ただ似たような問題は関東などの他地域にもみられる話で、どうやら3世紀後半に登場した「土師器(はじき)」の性能が素晴らしすぎて、在地の土器が一掃されてしまったという歴史があるらしい。

古墳出現期には関東地方各地の土器様式圏の差異性は急激に収斂し、共通性が目立つようになります。そして古墳前期には汎列島的な斉一性を備えた「土師器」が定着します。

わたしは古墳時代前期の土師器の「極端な再一斉」こそ、むしろ再評価すべきであると考えています。
(「2、3世紀のサガミの集落と古墳」西川修一)

(『邪馬台国時代の関東』2015年)

つまり3世紀後半に九州の人たちが畿内に移住したとして、そこには九州の土器を遥かに凌ぐ高性能な汎用品「土師器」が存在したので、彼らもより高品質な日用品として土師器を選び、作り、使っていった———って流れになるんだろうか。

新しい遺跡を加えた筑紫平野の環濠遺跡
(『増補版 邪馬台国論争の新視点 – 遺跡が示す九州説 – 』2019年)

どんどん見つかる北部九州の環濠遺跡

話を邪馬台国時代の北部九州に戻すと、近年は九州新幹線の工事などで、弥生時代後期の環濠集落が着実に見つけられているんだそうだ。

片岡さんの『邪馬台国論争の新視点』初版2011年)はそういった新事実を織り込むために、2019年に「増補版」が出ている。それに載っている「新しい環濠集落を加えた筑紫平野の環濠遺跡」のネットワークが、上の「図48」だ。

載せられた考古学の成果をいくつか挙げると、こう。

◯安武遺跡群(久留米市)掘立柱建物220棟
◯山門遺跡群(みやま市)住居80軒以上
◯蒲船津江頭遺跡(柳川市)掘立柱建物140棟
◯水分遺跡(久留米市)住居150軒、掘立柱建物10棟
◯良積遺跡(久留米市)住居160軒、掘立柱建物30棟

———邪馬台国時代の筑紫平野に、多くの人々が暮らしていたことは疑いがない。問題は、そこに卑弥呼の宮都がみつかるかどうかだ。

だが、魏志倭人伝のいう「楼観」や「城柵」を持たない纒向遺跡よりは、それらを実際に備える吉野ヶ里遺跡の近くにこそ、その大型版ともいえる「女王の都」があった可能性は高い、とぼくは思っている。

最後に、北部九州で奮闘する片岡さんによるシメの言葉を。

纒向遺跡では一つの遺跡から次々に重要な遺物が出土して注目を集めるが、北部九州の遺跡は、特別に一つの遺跡が秀でることはない。

しかし、それぞれの遺跡から出土するものを集めれば、十分に纒向遺跡に匹敵する内容を持っていることを忘れてはならないだろう。

(『増補版 邪馬台国論争の新視点 – 遺跡が示す九州説 – 』2019年)

<追記>小田・平塚遺跡群の内訳

この記事をUPした後、片岡さんが「小田・平塚遺跡群」について引用してる部分の、引用元を持っていたことを思い出した。『月刊考古学ジャーナル』の2011年3月号(No.611)。その当時、朝倉市教育委員会にお勤めだった川端正夫氏の「小田・平塚遺跡群」という記事だ。

Amazonの古本にも在庫がないようなので、前後を合わせて転載しておく。その下の表は、上の方に貼った「小田・平塚遺跡群」の内訳。

4.平塚川添・山の上遺跡と「国邑」

これまで弥生時代後期から終末期、そして古墳時代前期に最盛期を迎える小田・平塚遺跡群とその関連遺物かと推測される埋納青銅器について述べたが、「国の都」というような意味での「国邑」そのものは調査遺構として確認できていない。

小田道遺跡(9)・小田集落遺跡(24)・小隈夏山・松山遺跡(14)周辺など、段丘南部の当遺跡群の中枢部を推測させる場所には、現在まで広範囲の発掘調査が及んでおらず、大規模工場の立地など、様々な条件から、遺跡群の全体像を描くことができない状況である。

一方、段丘の西側で工業団地の開発に伴って大規模に調査された平塚川添遺跡(8)・平塚山の上遺跡(7)は、その立地条件から見て、この遺跡群を載せる段丘下の西縁に形成された張り出し集落であり、言わば「新墾(にいばり)の地」と推測される。

両集落遺跡を「平塚集落遺跡」と括った場合、弥生中期から古墳前期にかけて、約20ヘクタールの広がりで竪穴住居517軒・掘立柱建物252棟を検出し、その集落規模は弥生終末から古墳前期には50軒ほどになったことが判明し、特に南側の平塚川添遺跡では多重の環濠、特殊な大型建物、高床倉庫群などが発見されたが、決定的に拠点集落と言える様な遺構は残念ながら確認できていない。

平塚川添遺跡では「方形に走行する溝」「方形区画」を発見しようと試み、集落中心部の空中写真で見えたように思われたが、結局現場で検出することはできなかった。

領域としての国邑の拠点集落、或いは国の都としての「国邑」が必ずしもその領域の中枢にあらねばならぬこともないかも知れないが、遺跡群のまとまりは認識できても「国々」の領域を確定していくことは、今後何らかの文字資料群の出現を待つしかないのかも知れない。

(「小田・平塚遺跡群」川端正夫)
「小田・平塚遺跡群」分布図遺跡地名表(個別遺跡群の概要)
(出典『月刊考古学ジャーナル』2011年3月号 No.611)

邪馬台国(15)につづく

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