『邪馬台国は「朱の王国」だった』蒲池明弘 〜ヤマト建国の財源はなんだったのか〜

『邪馬台国は朱の王国だった』表紙抜粋 邪馬台国

ヤマト王権は「朱の王国」だった

邪馬台国関連の読書感想文シリーズ、その13回目は『邪馬台国は「朱の王国」だった』(2018年)。

著者の蒲池さんは、元読売新聞の経済記者ということで、読みやすい上手な文章を書かれる人だ。現在は歴史や神話にかかわる出版や著述活動を行っているそうだ。

ところでぼくら邪馬台国「九州説」の支持者の場合、邪馬台国とは全く関係ない状態で、2世紀後葉から3世紀前葉の奈良盆地にいわゆる「ヤマト王権」が成長していった、と考えるわけだが、問題になるのがその成長の原動力は何だったのか、だろう。

なにしろ当時の奈良盆地といえば、鉄器もなければ大陸の文物もなく、まだ「王墓」の気配さえない後進地域。これといった交易品もないし、同じ頃の吉備や出雲には明らかに見劣りしていた。

それが3世紀に入る頃からニワカに勢力を拡大し、あれよあれよと言う間に列島でも最大の勢力に育っていくわけで、じゃあその原動力、ぶっちゃけ「財源」は何だったのか———はフツーに考えていたら解けない謎だった。

蒲池さんの本はそこに答えを出していて、戦国時代の上杉謙信や武田信玄が「金」を武器にしたように、初期のヤマト王権は「」を武器に、その財力で近隣を従えていったのだという。

『邪馬台国は「朱の王国」だった』表紙

「朱」とはなにか

「朱」は「辰砂」ともいって、一口で言うと水銀と硫黄の化合物(硫化水銀)。蒲池さんによれば「赤色の塗料であるとともに、薬品の材料であり、防腐剤、防虫剤としても利用されて」いたそうだ。

弥生時代最大の「王墓」である、吉備の「楯築(たてつき)弥生墳丘墓」では、棺の底に、厚いところで5cm、全体で32kgの朱が敷かれていたそうだ。おそらく王の肉体の維持するための「防腐剤」としての効果が期待されていたのだろう。

楯築弥生墳丘墓の棺底の朱
(出典『吉備の弥生大首長墓・楯築弥生墳丘墓』福本明/2007年)

朱は火山活動の産物だそうで、中国の沿海部や朝鮮半島のような、火山の少ない地域に対する有力な輸出品になり得たという。

日本列島で朱の産地が密集しているのは4つのエリアで、「大和」「阿波」「九州西部」「九州南部」。このうち「大和鉱床群」は東西わずか7kmほどの面積に集中しているそうで、実は日本最大の朱の鉱床だったらしい。

奈良盆地で、たったひとつの全国一位の産出品が、最強の交易品「朱」だったということだ。

朱産地の四大鉱床群
(出典『『邪馬台国は「朱の王国」だった』)

で、その「大和鉱床群」があるのは奈良県宇陀市から桜井市にかけてで、要するに「纒向(まきむく)遺跡」の裏山だ。

日本書紀によれば、皇室が三輪山麓の桜井市に進出したのは、第10代崇神天皇のとき(磯城瑞籬宮)。

長浜浩明さんの計算だと、崇神天皇の在位はAD207−241年頃になるので、タイミング的には崇神天皇は大和鉱床群の朱を求めて、父・開化天皇が都にしていた春日(奈良市)から、桜井市の「纒向遺跡」に皇居を移したかんじになる。

「辰砂」東京サイエンス
(「辰砂」東京サイエンス

古事記によれば、第9代開化天皇(在位177−207年頃)は、丹後の王「由碁理(ゆごり)」の娘「竹野媛」を政略結婚で妃に娶り、日本海側の交易ルートを確保している。

考古学的には、纒向遺跡の造営はAD180年頃からとされているので(石野博信)、開化天皇と崇神天皇の親子は力を合わせて大和鉱床群の開発にあたり、採れた朱と交換に、大陸から鉄器や武器をガンガン輸入して、のちのヤマト王権の基礎を築き上げた———なんてストーリーは、ぼくの個人的な空想。

でも蒲池さんの本と出会って「朱」を知って、ぼくの邪馬台国「九州説」に足りなかった最後のピースを手に入れたような感触がある。つーか、こんな重大なこと、なんでぼくは今まで知らなかったのか!

実は、ぼくはこれまで邪馬台国にはあまり興味がなくて、蒲池さんの本もAmazonで何度か目にしたものの、関心外としてスルーしてきた過去がある。この本がもしも邪馬台国ではなく『ヤマト王権は「朱の王国」だった』なんてタイトルだったなら、真っ先にポチっていたものを・・・と少々複雑な思いもある。

糸島市
(糸島市 写真AC)

伊都国の人が大和鉱床群を発掘した

まぁ上に書いたことはあくまで個人の空想で、蒲池さんの「朱」で自論の空白を埋められたなーと勝手に喜んでいるだけのこと。蒲池さんによれば、大和鉱床群を発見し、発掘したのは「伊都国」の人たちではないか、ということだ。

そもそも当時の「倭人」は、その見た目が異なることから、中国から輸入していた朱と「九州西部」の朱が同じ鉱物であることを知らなかった。それに気が付いたのが伊都国の人たちで、だからこそ魏志倭人伝にたった「千余戸」と書かれた小さな国が、「四千余戸」の末羅国や「二万余戸」の奴国と張り合うことができたんじゃないか。

伊都国は、九州西部鉱床群から採掘された朱を交易品にして莫大な富を積み上げた、現代でいえば香港やシンガポールのような、人口の多さに依存しない金融都市、貿易立国だったんじゃないか———というのが、蒲池さんのお考えだ。

香港 写真AC
(香港 写真AC)

しかし、朱は石油のように無尽蔵に湧き出てくるものではないので、伊都国が密かに採掘していた九州西部鉱床群は、やがて枯渇してしまった。

それで新たな鉱床を求めて伊都国人の移動が始まり、その一部ははるばる奈良盆地まで辿り着き、ついに日本最大の鉱床に巡り合う・・・。

古代において、朱の探査、採掘に関わった人たちは「丹生(にう)氏」を称し、その名前は全国に分布している。蒲池さんが注目したのは、そのうちの和歌山県「伊都郡」に鎮座する名神大社・官幣大社の「丹生都比売(にうつひめ)神社」の「丹生氏」。

1977年に宮司の丹生廣良氏が著した『丹生神社と丹生氏の研究』には、こんな一説が載っているそうだ。

伊都国王の後(引用者注:子孫のこと)は白柳秀湖氏も指摘せられたごとく、主流は畿内へ東遷して紀伊の丹生氏となり、その一部隊はそのまま九州に留まり、(中略)更には彼の大分県の「丹生郷」の地に進出して、九州における丹生氏族の第二の根拠地をなしたことであったろう。

(出典『邪馬台国は「朱の王国」だった』蒲池明弘)
丹生都比売神社「楼門」写真AC
(丹生都比売神社「楼門」写真AC)

日本中にある「丹生神社」の総本宮には、丹生氏のルーツは伊都国王だと伝わっていた!ということで、たしかに伊都国が日本列島の朱の採掘・輸出のリーダーだったという、蒲池説の裏付けになりそうな一文だ。

ただそれが真実だとすると、魏の使節団が伊都国を訪れた3世紀中頃には、まだ大和鉱床群は手つかずだったことになるわけで、もしも邪馬台国が蒲池さんがいうような「朱の王国」だったとしたら、その所在地は奈良盆地の纒向遺跡ではなかったことになるか。

纒向の外来系土器の比率
(出典『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』石野博信/2008年)

なお考古学的に見ると、卑弥呼が生きていた3世紀前半の段階では、纒向遺跡からは伊都国を含む北部九州の土器は出土していなかったようだ。

纒向遺跡から北部九州の遺物が出土するのは、3世紀末頃の「ツクシ型送風管」なる鉄器生産の鍛冶関連品かららしいので、伊都国の人たちがいつ纒向遺跡にやってきたのかは、案外難しい問題になるのかも知れない。

丹生都比売神社「本殿」写真AC
(丹生都比売神社「本殿」写真AC)

邪馬台国はどこか

ところで蒲池さんは、邪馬台国の所在地をどこだとお考えなのか。本文を読んだ感じだと、近畿でも九州でもどっちでもいい———ってかんじのようだ。

邪馬台国連合を朱の交易機構とかんがえる本稿では、奈良と九州、そして第五章でくわしく論じる伊勢、これらの朱産地が主たる領域で、そこに四国、北陸などに点在する中小の朱産地を加えたものが、邪馬台国の支配地となります。

面的な支配圏ではなく、「点」としての拠点地をむすぶ連合国家です。仮に卑弥呼の王宮が九州にあったとしても、奈良は邪馬台国連合の一角を占め、最も重要な朱産地として大きな存在感を示していたと見なすことができます。

(『邪馬台国は「朱の王国」だった』)

ただ上の引用の通り、卑弥呼の王宮の所在地はどっちでもいいとしても、邪馬台国とヤマト王権は広範囲に勢力を持つ連続した同一の政権、というのが蒲池さんのお考え、のようだった。

ところが巻末の「おわりに」になるとトーンが若干変わっていて、「九州説」を容認するような発言もでてきている。

ぼくら「九州説」支持者には「水行10日陸行一月」を移動距離ではなく、活動に費やした日数だとみる論者が結構いて、ぼくの愛読書『安曇族と住吉の神(亀山勝)や『露見せり邪馬台国(中島信文)なんかがそんな議論を展開している。

『露見せり邪馬台国』

んで蒲池さんもどうやら同じ可能性に思い当たったようで、「おわりに」には「水行10日陸行一月」は朱の鉱床がある山(陸行)や朱砂の堆積する川(水行)を調査した期間を記録したものなんじゃないか、とお書きになっている。

で、実はこれもまた「目からウロコ」というヤツで、ぼくは亀山さんや中島さんの滞在日数説を支持しながらも、それにしても「倭人」の風俗や文化、「倭国」の地理や気候などを調べるだけなら、合計60日もブラブラ調べる必要があったのかいな・・・という疑問も抱えていた。

だが、魏の使節団が調べていたのが「倭国」の朱や水銀だというのなら、ぜんぜん話は違ってくる。彼らはそれこそ血眼になって、東に西に、走り回ったんじゃないだろうか。

『安曇族と住吉の神』

それに、朱の大鉱床である熊本に陣取っている「狗奴国」、こいつは魏にとっても目障りな存在ということになり、邪馬台国に積極的に肩入れする理由も見えてくる。

また、魏使が邪馬台国以外では、伊都国だけ「陸行(=調査)」しているのも、そこが日本の朱産業のリーダーカンパニーだという蒲池説と一致しているようで、深く深く腑に落ちてくる。


さて、ぼくの感想文はここまでにするが、蒲池さんの本では邪馬台国以外にも「神武東征」やヤマトヒメの「伊勢遷宮」、ヤマトタケルに神功皇后、天智天皇を経て奈良時代にいたるまで、日本の古代を「朱」で読み解いていて、どの時代も興味深い視点で満ち満ちている。

今後はぼくの愛読書に加わっていただいて、いろいろな場面でこの本を参照することになると思う。

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