井手学太郎

欠史八代

(5)五斗長垣内遺跡/舟木遺跡とヤマトの鉄 〜邪馬台国時代の鉄鏃と銅鏃〜

淡路島の五斗長垣内遺跡弥生時代後期のAD50~200年頃に、鉄器生産に特化した集落として営まれたのが、淡路島の「五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)」。2007年から始まった発掘では、東西500x南北100mのムラに竪穴式建物23棟が見つか...
欠史八代

(4)出雲の荒神谷遺跡/加茂岩倉遺跡で青銅器祭祀が終焉 〜出雲国風土記のオオクニヌシ〜

青銅器から墳丘墓へ奈良県「唐古・鍵遺跡」や愛知県「朝日遺跡」で、集落が大きな変化を見せていた弥生時代中期末(紀元元年前後)、遠く出雲でも歴史的な大事件が起こっていた。青銅器による祭祀の終焉だ。1984年、出雲市の「荒神谷遺跡」から史上最多と...
欠史八代

(3)東海最大「朝日遺跡」の尾張氏 〜逆茂木・乱杭と倭国大乱〜

尾張氏の出身地は葛城か日本書紀によると、第5代孝昭天皇は、尾張連の遠祖「瀛津世襲(おきつよそ)」の妹、「世襲足媛(よそたらしひめ)」を皇后に立てたという(磯城県主の娘も娶っている)。それは孝昭天皇29年のことというから、長浜浩明さんの計算だ...
欠史八代

(2)欠史八代と「唐古・鍵遺跡」 〜磯城県主との政略結婚〜

シキ県主との政略結婚日本書紀によると、宇陀から磯城(しき)に進んだ神武天皇の皇軍は、椎根津彦の立案で兵を二手に分けると、忍坂で敵を引き付けつつ、墨坂に回った精鋭に敵の背後を突かせた。磯城の敵軍は敗走し、首領の「兄磯城(えしき)」は斬首された...
欠史八代

(1)神武天皇と「鴨氏」「三輪氏」の同盟 〜東奈良遺跡/中西遺跡〜

媛蹈鞴五十鈴媛と「東奈良遺跡」神武天皇の即位は、長浜浩明さんの計算によればBC70年頃のこと。その前年の9月、天皇は「事代主神」の娘「ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)」を正妃に迎えたと日本書紀に書いてある。ヒメタタライスズヒメの母親は...
神武天皇

(12)「天富命」と忌部氏の東遷 〜出雲系の安房国造〜

『古語拾遺』のアメノトミ奈良時代の前半ぐらいまで、中臣氏と並んでいた祭祀氏族が忌部氏だ。690年の持統天皇の即位式では、まず物部氏の石上麻呂が「大盾」を立て、中臣氏の藤原大嶋が「天神寿詞」を読み上げ、続いて忌部宿禰色夫知(しこぶち)が「神璽...
神武天皇

(11)初代紀伊国造「天道根命」と日前神宮・國懸神宮 〜紀伊のスサノオ〜

先代旧事本紀のアメノミチネ神武天皇に、初代の「紀伊国造」に任命されたという「天道根命」の活躍は、日本書紀には出てこない。出てくるのは、平安初期に物部氏の末裔が撰録したとされる史書『先代旧事本紀』の中でだ。先代旧事本紀「天神本紀」では、神武天...
神武天皇

(10)大伴氏の「道臣命」と神武天皇の顕斎 〜皇祖神はアマテラスかタカミムスビか〜

名将「みちのおみ(道臣命)」登場日本書紀によれば、熊野の山中で遭難した神武天皇の夢にアマテラスが現れて、先導者としてヤタガラスを派遣したと告げてきた。このヤタガラスを追って、皇軍を宇陀まで導いたのが、大伴氏の遠祖「日臣(ひのおみ)」で、神武...
神武天皇

(9)「天日別命」と伊勢津彦 〜伊勢国風土記のヤマトヒメ〜

アメノヒワケとイセツヒコ神武東征のスピンオフ?が、「伊勢国風土記」の「逸文」に載っている。アメノミナカヌシの12世孫という「天日別命(あめのひわけ)」による伊勢平定だ(出典は「万葉集注釈」)。熊野から兎田(宇陀)に軍を進めた神武天皇は、主力...
神武天皇

(8)熊野の「高倉下」と霊剣ふつのみたま 〜熊野本宮・速玉・那智大社の物部氏

神武天皇はなぜ熊野へ行ったのか日本書紀によれば、河内の日下(孔舎衛坂)でナガスネヒコ軍と戦った皇軍は、流れ矢が長兄「イツセ(五瀬命)」の脇に当たるアクシデントもあって、苦戦した。神武天皇は「日の神の子孫であるのに、日に向かって賊を討ったこと...
神武天皇

(7)河内の物部氏と「池上曽根遺跡」の神殿と王 〜饒速日山と日下〜

ニギハヤヒの東遷と饒速日山の物部氏前回の記事では、民俗学者の谷川健一さんが提唱する「物部氏の東遷」のスタート地点である、北部九州における物部氏の分布をみてみた。今回はその続きで、瀬戸内海のつきあたり、東遷のとりあえずのゴールである河内周辺の...
神武天皇

(6)神武天皇は筑紫・岡水門(岡田宮)で何をしたか 〜遠賀川流域の物部氏〜

楽浪郡と東の「倭種」BC108年、漢の武帝は朝鮮半島に派兵して、今の平壌に楽浪郡を設置した。21世紀を生きるぼくらは中華帝国が朝鮮半島を直接支配しなかったことを知っているが、当時の北部九州あたりの住民には「まさか」の軍靴の響きが聞こえてきた...