邪馬台国は徳島県神山町か
邪馬台国関連の読書感想文シリーズ、その8回目は『邪馬台国は阿波だった!』(2024年)。著者はNTTでITシステムの開発に携わられたという理系さんで、越智正昭という方。
越智さんが主張する邪馬台国の所在地は、「剣山」の麓にある徳島県名西郡の神山町。なんでも海抜400〜1500m付近までの標高差がある山間の町で、現在の人口は4000人ほど。
神山町の場所は、地元の人以外全くイメージが湧かないと思うので、まずはGoogle Earthのスクショから。

越智さんによれば、邪馬台国の所在地については、北部九州説も畿内説も「理系を専門としている人間」からみるとどちらも「論理性が感じられず、強引にこじつけている」印象があるのだという。
それで、地理や地形などの自然環境という事実から、「論理的思考」でアプローチした「理系の歴史学」の結論が、邪馬台国「阿波説」なのだという。
三国時代の中国には、「現代とほとんど変わらないレベルの高度な測量技術」があったそうで、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国までの道程における「距離」や「方位」は、”概ね”正しい———というのが、越智さんのスタート地点のようだ。

邪馬台国(神山町)までの距離
ではまず邪馬台国(神山町)までの「距離」からいくと、倭人伝には帯方郡から邪馬台国までは12000里だという記述がある(自郡至女王國、萬二千餘里)。
この12000里を、越智さんは帯方郡から神山町までの「直線距離」だという。試しにGoogleマップで測ってみると、平壌から神山町までは約950kmあった。越智さんは一里を80mで計算するので、12000里は960kmと、確かにほぼ一致する。

だが、12000里が果たして「直線距離」かどうかには、異論も出てくるところだろう。
まず倭人伝の冒頭には、帯方郡から倭の北岸である「狗邪韓国」までの7000里は「あるいは南へ、あるいは東へ(乍南乍東、到其北岸狗邪韓國)」と書いてあって、ここは「直線距離」ではなさそうだ。
残りの5000里についても、「景初二年」に始まる”歴史パート”の直前に記された「周旋可五千余里」が問題になる。
「周旋」は一般的には「一周」とか「周囲」と訳されることが多い言葉だが、歴史研究家の伊藤雅文さんによると、『三国志』全体で23回出てくるその意味は、「めぐり歩く」「転々とする」といったものだという。
(『検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く』伊藤雅文/2023年)
なので、魏の使節団は、倭地(狗邪韓国から邪馬台国)の中の5000里を、転々と巡り歩いた———というのが「周旋可五千余里」の意味になる。これは「直線距離」だとは考えにくい。

伊藤さんは一里を70mで計算しているので、5000里は約350km。越智さんは一里80mなので、5000里は400km。
いずれにしても、狗邪韓国から先は最大でもその距離しか移動できなかったので、邪馬台国は筑紫平野、熊本平野、大分平野のどこかである可能性が高い、という話。

邪馬台国(神山町)までの方位
つづいては邪馬台国(神山町)までの方位。
魏志倭人伝によると、魏使は「女王国から北は、その戸数や道理はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠くへだたり、詳しく知ることはできない」という報告をしている(自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳)。
つまり魏使が詳しく知っていたのは、神山町より「北」のクニグニで、「阿波説」なら具体的には今の香川県、岡山県あたり。だが越智さんの説(後述)では、魏使のルートに讃岐や吉備は含まれていない。

また倭人伝によれば、女王国の「北」には「伊都国」があり、そこには「一大率」という検察機関が置かれていたという。これも「阿波説」だと徳島の「北」の香川、岡山になるかと思われるが、越智さんの説では「伊都国」は北部九州にあったとされている。
また倭人伝には、女王国の東の海の向こうには「倭種」の国があり、その南には「侏儒国」、さらにその東南には「裸国・黒歯国」があると書かれている。越智さんは「倭種」を近畿地方、「侏儒国」を和歌山県熊野地方だといわれるが、それだと「裸国・黒歯国」は太平洋の上になってしまう。

それと、倭人伝は「北」以外の「辺傍の国」として、「斯馬国」以下21カ国を羅列。最後の「奴国」に続けて「これが女王国の境界の尽きるところ」だと書いている(此女王境界所盡)。
そしてその「南」にあるというのが、男王「卑弥弓呼」が治める「狗奴国」だ。邪馬台国と狗奴国は交戦状態にあったんだから、両国は近接していたと思われる。
それで「阿波説」では一般的に、狗奴国を「高知県東部」の勢力に比定するそうだが、越智さんは邪馬台国時代の高知県は西部の幡多郡や奥四万十が栄えていて、東部には大きな勢力はなかったいう。
それで「南」は女王国ではなく「倭国」の南だと解釈、狗奴国を遠く熊本平野の「熊襲(くまそ)」だと推察している。まぁ徳島の神山町と熊本県民がどうやって戦うのか見当もつかないが、それは脇に置く。
ただぼくの知る限りでは、高知県最大の弥生集落は、越智さんが否定した高知県東部(南国市)にあった「田村遺跡」のはずだ。

最盛期の田村遺跡は、居住域だけで東西400m以上、南北450m以上の20haほど。中期から後期にかけての住居跡は400軒を超える。これに並ぶ集落が宿毛市や四万十市あたりにあったとは、今のところぼくは聞いてない。
※ただし田村遺跡は、邪馬台国時代が始まる直前に廃絶しているようだ。詳しくは『南国土佐から問う弥生時代像・田村遺跡』出原恵三・著を。

ところで越智さんの「阿波説」でよく分からなかったのが、神山町が「会稽東治」の真東に位置するという見解。
なんでも2006年に中国の江蘇省「宿遷市」で見つかった「下相城」が「会稽東治」にあたり、その緯度33度56分と、徳島県神山町の緯度33度58分とが一致するから———といわれるわけだが、なんで「下相城=会稽東治」なのかが良くわからない。
ぼくは古代中国の地名には疎い一般人なのでググってみたら、そもそも「会稽」は長江より南で「揚州」に属し、下相城のある「宿遷市」は長江の北の「徐州」に属す・・・みたいなことが書いてあった。
なので倭人伝のいう「會稽東治之東」は江蘇省でも「蘇州市」あたりだとされていて、その東というと鹿児島県あたり———というのが通説になっているようだった。

邪馬台国(神山町)までのルート
越智さんの説では、「一大国(壱岐島)」を出港した魏の使節団が上陸した「末廬国」は、博多湾に面したどこか、だとされている。
魏使は、海の難所といわれる「関門海峡」を避けるために一時的に上陸し、伊都国=飯塚市、奴国=田川市、不弥国=行橋市と進んで、再び海に出た———というのが越智説でのルートになる。
現在の人口43,000人の田川市が「有二万余戸」の大国「奴国」だという違和感を除けば、十分納得の行く説明だと思う。
そして行橋市から南へ「水行二十日」して魏使が着いた「投馬国」は、四国最南部の「宿毛市」あたりだった———という点にも大きな矛盾は感じない。

ただ、倭人伝によれば、ここから魏使は「南」に向かって「水行十日陸行一月」したのに、残念ながら足摺岬の南には、パラオあたりまで大きな陸地はない。
それで越智さんがいうのが、魏使一行は宿毛市から船で10kmほど「南」に進んだのち「東」に向かい、40kmほど進んでから「北」を向き、20kmほど北上したのち四万十川の東岸に上陸した———というルート。

・・・うーむ、これで「南」に行ったという話が通るなら、それこそ日本中どこにでも到達できてしまいそうだ。それに宿毛市から四万十川の河口までは約100kmで、魏使が狗邪韓国から対馬、対馬から壱岐まで、それぞれ一日で航海した距離と変わらない。
いくら「潮待ちを繰り返しながら」とはいっても、仮に9日待機して10日目にやっと「水行」できたとしたなら、それを「水行十日」と書くものなんだろうか・・・。
疑問は残るが、それはさておき、四万十川の河口あたりに上陸した魏の使節団は、今の国道439号線を30日かけて、四国山地を横断するという大冒険で、邪馬台国(神山町)まで「陸行」したんだそうだ。

邪馬台国は「山の民」か
さて、こうして無事に邪馬台国(神山町)まで到着した魏使たち。そこは海抜400〜1500mの標高差がある山あいの場所で、山の民として暮らす「可七万余戸」の人たちは、主に鉱山資源の採掘に従事して、口を糊していたという。
でも誰が考えても、鉱山資源の交易だけで7万戸が腹いっぱいになるとは思えないわけで、越智さんは、邪馬台国(神山町)は「少なくとも近畿地方は直接的・間接的に支配していた」という。神山町の山の民は、「コメ」を求めて奈良盆地に進出したんだそうだ。
ただ、その説明だとチト考古学のFACTには合わないかと思われるのが、3世紀の奈良盆地で最大の拠点集落だった「纒向(まきむく)遺跡」から、四国の土器が出土しないこと(下の図13)。
フツーに考えれば、神山町と奈良盆地の間には、ヒトとモノの行き来がなかったことになる。

また越智さんは、邪馬台国(神山町)が内陸部の奈良盆地に進出したのは、当時の大阪平野が「あちこちに湖沼が点在する、ほとんど人が住めるような状態ではない一面の広大な湿地帯だった」からだと書かれているが、邪馬台国時代の大阪平野(河内平野)には、南北3.5km、東西1km、約350haに及ぶ巨大な「中田遺跡群」があったという説がある。
河内で作られた土器を「庄内河内式」というそうだが、高知県や福岡県からも出土するのだという。河内は大和とは独立した動きで、西日本各地とつながっていたようだ。

それと、越智さんの本はあまり考古学への言及がないので関連性がよく分からなかったんだが、徳島県には吉野川流域に、巨大銅鐸の出土で知られる「矢野遺跡」という弥生集落があった。
徳島県内では最大と言われる集落規模は、全盛期には約1平方キロ(100ha)。弥生後期に限っても、63軒の住居跡が見つかっている。

ところがこの阿波の大集落は、古墳時代の始まり(AD250年頃)には消滅してしまったのだという。理由はよく分かっていないらしいが、自然災害の影響を受けた形跡はないことから、社会情勢の変化を受けてのことだろうと考えられているようだ。
するとひとつ面白い話があって、考古学者の石野博信さんによれば、邪馬台国時代の阿波、讃岐、播磨では、共通して首長墓に「積石塚」と「石囲い木槨」を採用していたのだという。
阿波では吉野川流域、鳴門市の「萩原二号墓」「萩原一号墓」、讃岐では「綾歌石塚山二号墳」、播磨では「綾部山39号墳」などだ。

そして阿波の「矢野遺跡」が消滅したあと、今度は奈良盆地「纒向遺跡」の中に「ホケノ山古墳」という積石木槨墓が造営される。こうした展開から石野さんは、ホケノ山古墳の被葬者を「ヤマトと連携して半島のクニグニとの交易を担当した」「阿波か讃岐の人物」だとお考えのようだ。
だもんでぼくは、そんな3世紀の阿波の歴史を聞く限りでは、神山町に女王卑弥呼の都があったとは今イチ思えないだが、まぁ感じ方は人それぞれなんだろう。
なお3世紀半ばに集落が消失、縮小したのは阿波「矢野遺跡」だけではなく、北部九州の「平塚川添/平塚山の上遺跡」や「吉野ヶ里遺跡」、出雲平野などでも見られた現象だという。
その一方で、3世紀半ばから末にかけて、集落の規模が100haから300haに3倍化したのが「纒向遺跡」(坂靖)。それだけの人口が流入したからこそ、「箸墓古墳」を始めとした巨大土木工事が可能になったような気もするが、各地からの「纒向一極化」を証明できる物証はないようだ。

