末廬国は北九州市
邪馬台国関連の読書感想文シリーズ、その6回目は『邪馬台国は別府温泉だった 火山灰に封印された卑弥呼の王宮』(2020年)。著者は、ヤクルト本社の中央研究所で生命科学、生物工学の研究に従事された、農学博士の酒井正士さんだ。
ご本人いわく「典型的な理科系の人間」だそうで、本職の自然科学分野では最も大切にされる「生データ」———邪馬台国の所在地なら行程記述の方向や距離、日数などが、従来の学説では都合よく解釈されたり、改変されていることに疑問を感じ、生データにもとづく「合理的な解釈」を提示すべく、筆をとられたんだそうだ。

まず酒井さんの「一里」は77mと、これは一般的な解釈の範疇。ただ、海上における1000余里は「航行距離」ではなく「直線距離」だというのは、少数派か。
その根拠は、当時の手漕ぎの船では目的地まで直線的に進むのは難しく、正確な「航行距離」は得られないから。
一方、当時の中国人は「スタジア測量」や「三角測量」の技術を持っていたので、海上の1000余里は陸上からの実際の測量に基づくものだ、というのが酒井さんのお考えだ。
ところでよく知られたことだが、魏志倭人伝の壱岐島「一大国」から「末廬国」までの間については、1000余里という「直線距離」は書いてあるのに、なぜか「方位」については言及がない。
なので原文の生データを重視する酒井さんとしては、「末廬国」は「一大国」から1000余里の場所から探すしかない。それが下の「図10」。

というわけで、酒井さんが考える「末廬国」は、北九州市八幡東区枝光のあたり。
なお酒井さんは、末廬国=まつうら、伊都国=いとしま・・・のような新井白石以来の語呂合わせ的な地名比定を認めていない。それは「江戸時代から続くミスリード」で、それよりも方位や距離といった生データが重要だというお立場だ。
さて、まさかの北九州市に飛ばされてしまった「末廬国」だが、酒井さんはその裏付けとして、小倉南区で発見された「城野遺跡」の存在をアピールする。
なるほど確かに城野遺跡からは、九州最大規模の方形周溝墓が見つかったり、玉作りを行った集落が見つかっているようだ。ただ、その方形周溝墓には「王」ではく「小児」が葬られていたというし、集落で見つかった住居は40棟ほどだという。
PDF – すごいぞ!城野遺跡 –
ちなみに前回の記事でみた、熊本県山鹿市の「方保田東原遺跡」では35ha中の5%の調査で、400軒の住居跡が見つかっている。

伊都国は福岡県の築上町
つづく「伊都国」は、北九州市の枝光から「東南陸行500里(40km)」に位置する、築上町というところ。城井川(きいがわ)の河口にある海辺の町だ。
倭人伝における「伊都国」は、邪馬台国にとっては最重要の表玄関で、そこには諸国を検察する(とりしまる)「一大率」が置かれていたし、帯方郡からの使者が泊まる施設もあれば、外国からの荷物をあらためる港もあったという。
それで通説では、大陸側の博多湾に面し、中国の銭貨や金属製品、朝鮮半島の土器などが出土した福岡市西区の「今宿五郎江遺跡」あたりが「伊都国」の港であろうと考えられてきたようだが、酒井さんは倭人伝の生データを正確に辿れば、瀬戸内海に面した築上町に着かざるを得ない、というわけだ。

なお酒井さんによれば、邪馬台国の「邪」や卑弥呼の「卑」が蔑む意味の文字なのに、「伊」や「都」は尊ぶ意味の文字であることから、伊都国は「中国系の国家」だと考えられるんだそうだ。
魏は築上町に置いた一大率で倭人の国々に睨みを効かせ、倭国全体の情報を収集していた可能性があるとのことだ。

奴国は豊前市吉木(市役所)
でも、伊都国には大陸や朝鮮からの積荷を陸揚げする港があったんだから、魏の使節団も船で直接、伊都国、邪馬台国を目指せばいいような気もするが、大切な詔書・金印・紫綬を万が一にも水没させるわけにはいかず、やむを得ず安全な陸路を使ったと、酒井さんはいう。
そして築上町から「東南100里(8km)」を進んで到着した「奴国」は、福岡県豊前市吉木。今は市役所があるあたりだ。
だが「奴国」といえば、倭人伝に人口2万戸と書かれた大国だ。それで通説では、当時のわが国最大の青銅器工房群を擁し、70以上の遺跡が200haもの範囲に広がっていたという、福岡平野の「須玖岡本遺跡群」あたりが想定されてきた。

一方、酒井さんが自分で書かれているように、豊前市全体の面積は、倭人伝に3000戸と記された「一大国(壱岐島)」と大差がない。とても2万戸を収容できる広さとはいえないだろう。
なので酒井さんは、「奴国」の2万戸の大半は「求菩提山北側の中山間地も含む広い面積の後背地」、要するに裏の山の中に住んでいたという。それに倭人伝の戸数については、現地の案内者からの伝聞によるものなので、「自国を大きく見せるため、かなりの水増しもあった」可能性も考えられるのだという。

ところで「奴国」といえば、気になるのが博多湾の志賀島で発見された「倭委奴国王」の金印だ。この金印の出土こそが、「奴国」が博多湾の近くにあったことの物証とされているわけだ。
この件について酒井さんは、金印が「石のあいだ」から見つかったことから、保管されていたというより「他国から侵略されて落ち延びる途中で適当な場所に隠した」と考えるのが「自然」だという。
畿内ヤマトか何かに攻められて、豊前市から志賀島まで逃げていった「奴国」の残党が、そこに埋めたものではないか、という説だ。

不弥国は中津城
「奴国」を出発した魏の使節団一行は、東に100里(7km)進んで「不弥国」に到着。今はそこに中津城があるあたりだ。
ここまでの行程としては上の「図22」の通りで、酒井さんは「距離・方向ともに魏志倭人伝の記述とピッタリ一致」「位置関係が実際の地図とこれほど見事に一致した例を、私は他に見たことがありません」と自画自賛だ。
もちろん、ぼくの感想としては、考古学の成果を一切無視して、定規と分度器で線を引いただけなんだから、「ピッタリ一致」は当たり前では?というものだ。
邪馬台国の所在地は、魏志倭人伝と考古学をいかにして整合させるかが論者の腕の見せ所なわけで、方位と距離だけで「解明した!」と主張されても、あまり共感は得られなかったんじゃないだろうか。

邪馬台国は別府温泉
酒井さんは、高木彬光の『邪馬台国の秘密』(1973年)が古代史への入口だったそうで、邪馬台国までの「水行十日陸行一月」は高木説にしたがって、不弥国からではなく、帯方郡からの総旅行距離だとされている。
すると当然、「投馬国」は帯方郡から「水行二十日」進むので、邪馬台国よりも遠い南になる。なので魏使一行は「不弥国」の次に、邪馬台国を目指したことになる。
帯方郡から邪馬台国までの総距離は12000里なので、ここから帯方郡から「不弥国」までの10700里を引くと、「不弥国」から邪馬台国までの距離は1300里———というのが通常の計算だが、酒井さんは海上の3か所の「千余里」を1200里で計算する。
すると「不弥国」から邪馬台国までは、1300里ではなく700里に縮めることができて、そこに丁度あるのが「別府扇状地」という平地。今の別府温泉街だ。

なお、倭人伝には女王国の戸数は7万戸とあって、ここでもかなりの平地を必要とするが、別府扇状地の面積は3000戸の「一大国(壱岐島)」の4分の一しかない。
それで今回も酒井さんは、実は中津市から佐伯市までの大分県全体こそが、邪馬台国の勢力圏だという。大分県の弥生集落をすべて合わせたのが、7万戸というわけだ。
『信長の野望』なら、1580年頃の大友宗麟の版図をイメージすればいいんだろうか。

投馬国は宮崎県全体
ところで、邪馬台国までの行程とは何の関係もない「投馬国」への「水行二十日」は、なんで邪馬台国より前に言及されたんだろうか。
その理由を酒井さんは、「不弥国」から先のルートが、投馬国行きと邪馬台国行きの二つに分かれていたから、「投馬国」までの行程が邪馬台国の前に「挿入」されたのだという。これを「不弥国分岐説」というそうだ。
ではなぜ、この両国だけが「移動距離」ではなく「旅行日数」で記されたのかというと「金印と紫綬を卑弥呼に届けるという重大ミッション遂行のため、邪馬台国に赴いたものの詳細な行程記録を残すゆとりはなく」が理由だという。つまり、忙しかったからだと。

・・・いや、でも「投馬国」へは「水行」オンリーと書いてあるのに、なぜ不弥国からの陸路の話が出てくるんだろうか。それに邪馬台国は無理でも、「投馬国」には重大ミッションはないんだから、十分な調査ができたんじゃないだろうか。というか、そもそも邪馬台国より遠い投馬国に、魏使は何の用事があったんだろう・・・。
などなど、いろいろ「?」マークが浮かんできてしまうが、酒井さんの説明はこうだ。
魏志倭人伝の編纂者・陳寿としては、邪馬台国に匹敵する大国「投馬国」に関する情報をどこかに盛り込みたかったはずで、不輛国で道が分かれた先に投馬国があることを知り、邪馬台国の直前に投馬国に関する説明を挿入したのではないかと考えています。
(中略)
先ほども述べたように、私が投馬国と考える日向灘沿岸は中津市(不彌国)の南に位置します。そして、日向灘には古くから栄えた美々津港があり、帯方郡から陸路を使わずに船で直接訪れることもできたはずです。
(出典『邪馬台国は別府温泉だった』)
んー、魏の誰が何の用事があって、はるばる宮崎あたりまで出かけるのかが分からないし、そんなところまで船で行ける技術があるのなら、別府温泉にも船で行けたんじゃないかなぁ・・・という疑心は晴れない。

まぁ全体としての感想としては、何もないところを「クニ」だと言って線で結び、考古学と倭人伝の整合性は一切無視されている、そんな印象か。
魏志倭人伝には、邪馬台国の「南」には「狗奴国」があるとされるが、酒井説だとそこにあるのは「投馬国」だ。だったら魏に支援を頼むほどに苦戦した「狗奴国」は、一体どこにあったというんだろう。
また、魏の「冊封国」は辺境地域の総代理店、窓口として選ばれるのに、関門海峡などがあって通行しにくい瀬戸内海側が候補にあがるとはチト考えにくい気がする。
それに、途中に難所があるとはいえ、別府温泉までは船で行けるんだから、魏の使節団が苦労して上陸したのは、邪馬台国が内陸部にあったからにはならないか。
上の「図52」は九州の考古学者、片岡宏二さんが作成した「クニ想定図」(※集落ではない)。伊都国の「一大率」が瀬戸内海側にあった場合、博多湾や筑紫平野のクニグニにニラミを利かす、なんてかなり難しいような気もするな。
