邪馬台国

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(13)「吉野ヶ里遺跡」は邪馬台国の都か 〜3世紀後半に消えた吉野ヶ里〜

吉野ヶ里遺跡は邪馬台国の都かはじめにお断りしておくと、ぼくも「吉野ヶ里遺跡」が邪馬台国の都だとは思っていない。ただ、奈良の「纒向(まきむく)遺跡」に比べれば、吉野ヶ里遺跡の方が魏志倭人伝が描く「倭国」の風景に近いんじゃないかと思っている。先...
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(12)纒向遺跡の5つの謎 〜『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』石野博信〜

以前に”こちら”の記事で、橿原考古学研究所に勤務され、1971年から「纒向遺跡」の発掘に携わられた関川尚功さんの著書『考古学から見た邪馬台国大和説』(2020年)を紹介した。今回は、関川さんとタッグを組んで纒向遺跡の調査にあたり、1976年...
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(11)倭人の墓には「槨」がない(有棺無槨) 〜『三國志』と『史記』の「槨」〜

魏志倭人伝によれば、彼らが「倭人」と呼ぶ人たちは埋葬において、「棺」はつくるが「槨」はつくらないのだという(原文「其死、有棺無槨、封土作冢」)。「槨」は一般的には棺を守る外箱だと考えられていて、どうやら「倭人」は棺を直接土の中に埋めて、その...
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(10)安曇族と奴国「比恵・那珂遺跡群」と「須玖遺跡群」〜北部九州とヤマト〜

奴国は呉の「太伯」の後裔5世紀に成立した『後漢書』によると、AD57年に「倭奴国」が後漢に朝貢し、光武帝から金印(漢委奴国王)を授けられたという。265〜270年代に成立し、魏志倭人伝(三國志)のネタ元になったとされる『魏略』逸文によると、...
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(9)纒向遺跡より大きい河内の「中田遺跡群」 〜『ヤマト王権の古代学』坂靖〜

庄内式期で畿内最大の「中田遺跡群」以前の記事で、橿原考古学研究所に勤務され、実際に「纒向遺跡」の発掘を担当された関川尚功さんの『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえない邪馬台国』(2020年)を紹介した。表題どおりで、長年にわたり纒...
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(8)魏志倭人伝の「倭国」と「倭種」 〜伊都国と出雲/吉備/大和〜

女王国と「倭種」魏志倭人伝によると、「女王国(邪馬台国)」の東には海があって、千余里のところに「倭種(倭の種族)」のクニがあるという。倭人伝の方位が西に20度ほど傾いている点を脳内で修正しつつ、それでは西日本で東に海がある地域はといえば、「...
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(7)伊都国の三大王墓と三つの謎 〜三種の神器・ヒメヒコ制・倭国王帥升・女王墓〜

「倭国」連合の盟主とされる邪馬台国にとって、もっとも重要な構成員が「伊都国」だろう。そこは帯方郡の使者が宿泊する場所であり、邪馬台国が派遣する統率者「一大率」が常駐して、諸国を取り締まる場所でもある。魏志倭人伝によれば、伊都国は代々「王」が...
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(6)纒向遺跡は邪馬台国ではない 〜『考古学から見た邪馬台国大和説』関川尚功〜

纒向遺跡は卑弥呼の都か邪馬台国の所在地については、九州説の場合は「魏志倭人伝」の中だけで完結させることができるが、大和説(畿内説)の場合は、原文の方位を2回、「南」から「東」に改変(書き換え)する手続きが必要になる。それでそこを突っ込まれる...
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(5)邪馬台国は筑後市/八女市/みやま市か 〜『露見せり「邪馬台国」』中島信文〜

「行」とは何か前回の記事では、海洋学の専門家である龜山勝さんが、魏志倭人伝の「水行」をどう読んだかを紹介した。中国古典の比較検討を交えての結論は、それは海ではなく「川を行く」というものだった。今回紹介するのは龜山さんとほぼ同じ結論で、倭人伝...
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(4)魏志倭人伝の「水行」は海ではなく川を行くこと 〜「水行」は移動日数ではない〜

朝鮮半島の「水行」への疑問邪馬台国はどこにあったのか。この鍵を握るのが、魏志倭人伝の「水行」という表現の解釈であることは間違いない。例えば手元の『倭国伝』(講談社学術文庫)では「船で行く」と訳されているが、ただし、それは「海を行く」ことでは...
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(3)魏略、魏志、後漢書、隋書の「倭」 〜平野邦雄『邪馬台国の原像』〜

『魏略』と『魏志』の倭前回の記事では、長年に渡って邪馬台国=大和説の立場から多くの論文を発表してきた歴史学者・門脇禎二さんが、人生の最晩年になって、病床の中で九州説に転じた件について紹介してみた。門脇さんを九州説に転向させたきっかけは色々と...
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(2)邪馬台国「大和説」から「九州説」への転向 〜門脇禎二『邪馬台国と地域王国』〜

邪馬台国=大和説への不安邪馬台国=大和説の論者の一人に、著名な歴史学者で2007年に亡くなった門脇禎二さんがいる。昭和20年代から京都大学で学んだ門脇さんは、「三角縁神獣鏡」の研究から邪馬台国=大和説を主張した考古学者、小林行雄の演習などを...