初代天皇は応神天皇
邪馬台国関連の読書感想文シリーズ、その9回目は井沢元彦原作・脚本の『コミック版 逆説の日本史 古代黎明編』(2022年)。1993年のオリジナルは歴史好きには説明不要の本だと思うが、あれから30年経って、井沢さんの古代史観はどう変わったのか。
ぼくなりにざっと要約してみれば、まず邪馬台国の所在地は「宇佐」だとお考えのようだ。本編で地名の特定はないんだが、大分県の九重連山が遠くに見え、山の向こうは別府温泉だというセリフがある。

「卑弥呼」というのは個人名ではなく、太陽祭祀を掌る巫女の役職(日の御子)で、「壹与(とよ)」はその後継者候補(複数いる)の役職名だという。
しかしこの「女系」(ママ)による王権の継承は次第に力を失い、卑弥呼/壹与を補佐していた「男弟」の系統に凌駕されてしまう。
そして「神功皇后」と「応神天皇」のとき、邪馬台国は宇佐から畿内に攻め込んで、在地の王朝を滅ぼしてしまう。応神天皇の頃から河内に400mを超える巨大古墳が造営されたのが、その「物的証拠」なんだそうだ。

こうして現在の皇室につながる「王朝交替」が完了し、その初代天皇が応神天皇。
応神天皇ら「天つ神」のルーツは渡来系だという。また、邪馬台(やまどぅ)が大和(やまと)になったので、そもそも所在地論争には意味がない。
壹与、神功皇后、応神天皇を祀る「宇佐神宮」こそが皇室の宗廟であることは、「道鏡事件」という皇統の危機に際し、和気清麻呂が伊勢ではなく、宇佐に出向いたことが証明している。
———といった感じで、一言で言えば「邪馬台国東遷説」と「河内王朝説」をミックスしたような議論。細かいとこまでは覚えてないが、おおむね1993年のオリジナルと変わってないような印象か。

卑弥呼はアマテラスか
井沢説のコアの一つが、卑弥呼=アマテラスだろう。アマテラスが卑弥呼をモデルにした神だから、邪馬台国とヤマトが連続した政権になる。
でもどうして卑弥呼=アマテラスかといえば、それは邪馬台国もヤマトも、どちらも「太陽信仰(太陽神信仰)」の国だから。太陽を祀る巫女である卑弥呼が、神として祀られる側に回ったのがアマテラス———だと井沢さんは言われるわけだが、アマテラスはともかく、邪馬台国が「太陽信仰」の国だというのはどこから出てきた話なんだろう。

魏志倭人伝によれば、卑弥呼は「鬼道につかえ、よく衆を惑わす(事鬼道、能惑衆)」とある。
井沢さんは卑弥呼は「鬼神」に仕えたシャーマンだというが、『三国志』「烏丸鮮卑東夷伝」で「鬼神」に仕えたと書かれたのは高句麗や韓の人たちで、卑弥呼がつかえた「鬼道」は一般的には中国の民間宗教「道教」のことだといわれている。
『三国志』には、他に鬼道をつかったとされる人物に「五斗米道」を開いた「張魯(ちょうろ)」がいる。その教法はこんなかんじだ。
張魯は、病人を静かな室に入れて過ちを反省して悔い改めさせたのち、その氏名と罪に服す意味とを三通直筆でかかせ、一通は山上において天の神に、 一通は地に埋めて地の神に、残りの一通は水中に沈めて水の神に、それぞれ献げさせたあとで符水をのませ、祈祷して病気を治した。
(『道教の神々』窪徳忠/1986年)
おそらく、人に会わなかった(少有見者)という卑弥呼も、上級国民に限定して張魯のような「鬼道」を密室で施したんじゃないかと思われるが、それがどうして井沢説では「太陽信仰」の祭祀者になるんだろうか。

日食を利用して「太陽教」の教祖に
井沢さんによれば「倭国大乱」真っ只中のAD158年7月、宇佐を含む北部九州に「皆既日食」が起こったのだという。このとき、隠れた太陽を復活させたと信じられたのが、「日の御子」を自称する「卑弥呼」だった。
人々は卑弥呼の唱える「太陽教」の信者となり、教祖・卑弥呼を「共立」して女王の位につけた。その地位は代々、複数の候補者「壹与」の中から一人を選んで継承された。ぼくらが知ってる倭人伝の卑弥呼は、2代目か3代目の卑弥呼らしい。
むろん全部、井沢さんの想像によるものだが、国立天文台の論文によれば、確かにAD158年7月の日食は、北部九州では「皆既」ではないものの、世界が暗くなったことは確かだったようだ。
※国立天文台のPDF「『天の磐戸』日食候補について」

しかし、これだけでは邪馬台国が「太陽教」の国だった根拠にはならない。
それで井沢さんが追加してきたのが、倭人伝がいうAD247年の卑弥呼の死(卑彌呼以死)は、AD247年3月に起こった日食を卑弥呼が阻止できなかったから、信仰心を失った民衆に殺されたのだ———という説で、それが本当なら「太陽教」の存在もあり得る話になりそうだ。
だが、国立天文台の論文によれば、残念ながらAD247年の日食は、北部九州では「皆既日食」にはならなかったそうだ。
図3からわかるように、247年日食は日本では皆既にならない。食分は北九州で0.7ないし大きくても0.8、近畿では0.3ないし0.4だから、あたりはまったく暗くならない。
出典「『天の磐戸』日食候補について」
(中略)
このことから、247年日食は近畿では皆既にならなかったと言える。赤線の下端も、黒縦棒群が示す減少傾向から外れているので、247年日食が北九州で皆既であった可能性は低いと言わざるを得ない。
北部九州に限定して、もっと細かく計算した論文ではこう。
結果は図8に示した。図に見られるように、北九州市周辺は皆既になるが、福岡市や佐賀市は皆既帯からはずれ、いずれの場合も食分 0.99ないし 0.98となる。
出典「247年3月24日の日食について」
日食の間中、あたりは暗くならないことを指摘しておく。
北九州市に限れば「皆既日食」になるそうだが、井沢さんが卑弥呼の宮殿があったという宇佐は、完全に暗くはならなかったようだ。
だがそれでは卑弥呼が「太陽教」の王たる資格を失って、民衆から「王殺し」されたことにはならないので、邪馬台国に太陽信仰があったことを裏付ける証拠にはならないだろう。

ヤマト(皇室)に太陽信仰はあったのか
井沢さんによれば「太陽信仰」は日本独自の宗教で、皇室の祖神アマテラスが「太陽の女神」だというのも、邪馬台国から一貫した流れの中にあるという。
だが古墳時代のヤマト(皇室)に太陽信仰があったかというと微妙な話のようで、日本書紀にそれらしきことが書いてあるのは、第30代敏達天皇がその6年(544年頃)に設置したという「日祀部(ひのまつりべ)」の件ぐらい。
いかんせん、その日祀部が何のために置かれた部曲(かきべ)なのか、その実態は何なのかは全くの不明で、しかも元々ヤマトに太陽信仰があったのなら「今さら」感の強い話でもある。

なので、実際に伊勢神宮の「禰宜」を務められ、神社本庁総長、皇学館大学理事長を歴任された神道のプロ、櫻井勝之進さんも、アマテラスは「太陽神」ではないと断言されている。
この「天照らす」も讃嘆の形容詞であり「指上る」はヒにかかる枕詞であって、太陽とは関係がない。
皇祖神たるヒルメの命が高天原に居られて、その神の御言をうけた皇孫たる「日のみこ」が飛鳥浄御原の宮殿にましましたことを詠んだもので、皇祖を日神とたたえるからには皇祖の威霊をそのままに受け継いでおられる天皇は「日の御子」となるのであって、何れにしても太陽という天体そのものを指示するところは全くない。
(『伊勢神宮の祖型と展開』櫻井勝之進/1991年)
ちなみに、「日の御子」は古代に天皇を称えた言葉だが、歴史学者の平林章仁さんによれば、それは日本書紀には全く登場せず、古事記ではヤマトタケル、仁徳天皇、雄略天皇のみ、万葉集でも天武天皇とその子・孫の一部にしか使われない「きわめて特別な表現」だという。
全ての天皇が「日の御子」ではなかったということは、その祖神アマテラスが「太陽神」とは言い切れないことの証明になるか。
(『天皇はいつから天皇になったか?』平林章仁/2015年)

アマテラスは皇祖神か
また、そもそもアマテラスが最初から「皇祖神」だったかどうかには、疑問もあるようだ。
神功皇后の夫で、応神天皇の父である第14代仲哀天皇は、朝貢を怠った「熊襲」を討つべく親征を行ったが、「神」は熊襲でなく新羅を討てと「神降ろし」を通じて命じてきた。仲哀天皇がこの神託に不服を示すと、「神」の祟りによって天皇は急死したと古事記はいう。
実はこのとき、仲哀天皇を祟り殺した神こそは、他ならぬ「天照大神」だと日本書紀は書いている。だが、いくら自分に従わないからといって、可愛い子孫を祟り殺すような「皇祖神」なんて、いるもんだろうか。
日本書紀によれば、この「天照大神」は第10代崇神天皇の御世までは皇居に祀られていたが、当時蔓延していた疫病の原因かと疑われ、宮中を出されたことがある。しかも疫病が終息したのちも「天照大神」はそのまま外で祀られて、皇居に戻されることはなかった。
そしてその後、第11代垂仁天皇のとき、ついには大和からも外に出され、各地を転々としたのち伊勢に鎮座した経緯がある。

仲哀天皇を祟り殺したあと、この「天照大神」は現在の兵庫県西宮市の「広田国(廣田神社)」に鎮座した。代わって伊勢で祀られることになったのが「伊勢大神」なる神だ。
しかし「伊勢大神」も皇祖神とは今イチ思えない神で、天皇が派遣した「斎宮」が相次いで皇族に強姦される不祥事が連発。天智天皇はこの神の「神郡」を20郷から16郷に減らしたことがあるし、皇極天皇4年(645年)に都に猿のような物の怪が現れた時には、人々に「伊勢大神の御使い」だと噂されたりもしている。
さらに「伊勢大神」は692年に持統天皇に「税金免除の嘆願」をしたりしていて、当時、この神を皇祖神だとみなした人は皆無に近かったんじゃないだろうか。
おそらく、持統天皇の孫の文武天皇(在位697ー707年)の頃に、持統天皇をモデルにして創作された皇祖神がアマテラスだろう、とぼくは思っている。詳しくは、関連記事を。
【関連記事】持統天皇と道教〜吉野の盟約とアマテラスの誕生〜

ところで井沢さんは、神話のアマテラスの「天岩戸伝説」を、卑弥呼の死んだAD247年の日食と関連付けて、アマテラス=卑弥呼の等式を導いているが、記紀が編纂されるほんの100年ほど前にも、日食は起きている。
日本書紀によれば、わが国初の「女帝」で、蘇我馬子・聖徳太子とのトロイカ体制で36年間も皇位に君臨した第33代推古天皇が亡くなる直前、「日食があり、日がすっかり見えなくなった(日有蝕盡之)」という。
大女帝が崩御したのはその5日後で、それは飛鳥の人々に強烈なインパクトを残したことだろう。女帝の死と日食は、このとき結びついて「神話」に育っていったんじゃないか、とぼくは思っている。
ちなみに推古天皇は、日本書紀が唯一、容姿の美しさに言及した女帝なんだとか。
———以上、ぼくが卑弥呼とアマテラスは全くの無関係だと思う根拠を、いくつか挙げてみた。

宇佐神宮と邪馬台国東遷説
井沢さんは「宇佐神宮」こそが皇室の宗廟で、だからこそ皇統が危機にひんした際、和気清麻呂は伊勢神宮ではなく、宇佐神宮に信託を受けに行った———と書かれるわけだが、これはチト話の順序が違っている気がする。
道鏡を皇位につかせよ、と宇佐神宮が言ってきたから、和気清麻呂が宇佐まで確認に行ったわけで、なぜ伊勢神宮がこの話題に絡んでくるのか、正直、意味がよくわからない。
769年(神護慶雲三)初夏のころに大宰府の主神中臣習宜阿曾麻呂を通じて宇佐八幡宮より、「道鏡をして皇位に即かしめば、天下太平ならむ」という神託がもたらされた。
称徳天皇は、和気清麻呂を玉座の下に召して、「昨夜の夢に八幡神の使者が来て、八幡大神の託宣を聞くために法均尼を送るようにと語った。そこで清麻呂お前が代わりに行って大神のお告げを聞いてきなさい」と命じた(『続日本紀』)。
(『八幡神とはなにか』飯沼賢司/2004年)

・・・・・・んんー、ダラダラと逐一反応していくのも面倒くさくなってきたのでササッとまとめれば、井沢さんは宇佐の応神天皇率いる邪馬台国が畿内に攻め込んで、現地の王権(神武〜仲哀)を滅ぼしたとお考えなので、宇佐神宮に祀られている神功皇后と応神天皇の母子が、現在の皇室の祖だとされている。
つまりは昭和の頃の「王朝交替説」の支持者で、その根拠として挙げているのが「応神天皇の時代から、巨大古墳が造営されるようになったこと」。
でもぼくがそこに今イチ共感できないのは、5世紀に巨大化したと井沢さんがいう前方後円墳は、応神天皇が滅ぼしたという前王朝の影響をしっかり引き継いでいる点から。

まず、最も古い桜井市/天理市「山辺・磯城古墳群」の「行燈山古墳」と「渋谷向山古墳」には「周濠」が見られるが、これは次世代の奈良市「佐紀古墳群」でも採用されている。
この「佐紀」で生まれたのが「造り出し」と「陪冢」で、これは河内の「古市古墳群」でも「百舌鳥古墳群」でも受け継がれている。
さらに、河内に最も早く築造された巨大古墳が「津堂城山古墳」で、ここには「周濠」を囲む「周堤」が出現しているが、それは同時期に奈良盆地の「馬見古墳群」に築造された「築山古墳」「巣山古墳」にも採用されている。
といった案配で、ぼくには「新王朝」と「前王朝」の古墳たちは、タテにもヨコにもつながっている、という印象がある。そこに断絶はない。
なので、古墳の巨大化だけで、宇佐から攻めてきた応神天皇を祖とする新王朝が河内に成立した———ことを説明するのは難しいように、ぼくには思える。
だいいち宇佐には、100mを超える前方後円墳は存在しないのに、400mを超える築造技術はどこの誰から伝授されたものなんだろう。

長くなったので、「宇佐神宮の祭神」についてはこちらを
【関連記事】宇佐神宮は卑弥呼のお墓か
昭和の「王朝交替説」についてはこちらを
【関連記事】西暦355年頃、応神天皇の誕生 〜「河内政権論(河内王朝論)」への反論〜
「皇室のルーツ」についてはこちらを
【関連記事】皇室(天皇家)のルーツは朝鮮半島ではない
出雲の銅鐸は近畿製

最後におまけで一点。
『コミック版 逆説の日本史』では、出雲人たちが作っている銅鐸を、侵略者のヤマトが次々と廃棄しているシーンが描かれている。銅鐸は出雲人の宗教、祭祀の神器だから、出雲を征服したヤマトに抹殺されたのだと、井沢さんはいう。
でもそれは時系列がヘンテコで、出雲の銅鐸が出雲人の手で(加茂岩倉遺跡などに)埋納されたのは、AD100年ごろの話。一方、ヤマトはその後も銅鐸の祭祀を続けていて、やっと銅鐸を廃棄したのがAD200年頃と、『コミック版』とは順番が逆だ。
仮に3世紀にヤマトが出雲を征服したとしても、その時すでに出雲には銅鐸はなかったというわけだ。
それに、39口もの銅鐸が出土した「加茂岩倉遺跡」の場合、その大半は近畿中央部(唐古・鍵遺跡など)で作られて、出雲に搬入された銅鐸だったという話だ。出雲はヤマトにとってはお得意様で、出雲の銅鐸を敵視する理由なんて、どこにもなかったということだ。
ヤマトによる出雲の征服については(↓)下の記事を。


