神武東征は「河内潟」の時代
このブログに何度もでてくる「長浜浩明さんの計算」とは、2012年に刊行された『古代日本「謎」の時代を解き明かす』という本の中で、著者の長浜浩明さんが計算した古代天皇の実年代のこと。
それによれば、初代神武天皇の即位は紀元前70年頃とされるが、その根拠となるのが日本書紀の記述と一致する、弥生時代の大阪平野の地図だ。
日本書紀は、大和を目指して大阪湾に侵入していったときの神武天皇の船団の様子を、こんなふうに描いている。
戊午の年の春二月の丁酉の朔、丁未(11日)に、皇軍はついに東に向かい、舳艫相接して進んだ。ちょうど皇軍の船団が難波碕に着かれるころ、急潮の非常に速いのに出会った。
(『日本書紀』中公文庫)
そこでそこを名づけて浪速国といい、また浪花ともいう。
いま難波というのは、それが訛ったものである。
縄文時代の大阪平野は「河内湾」といわれる海の底だったが、次第に陸地化が進み、紀元前1050〜紀元前50年頃の期間には「河内潟」の状態に変質していたことが、ボーリング調査(と炭素14年代法)から分かっているそうだ。
長年、大手の建築設計事務所に勤められた長浜さんは、年代ごとの大阪平野の地形図を眺めたとき、その「河内潟」の時代であれば、引用した神武東征の模様が実際の出来事として起こり得る、と気がついた。
それが下の「図‐5 河内潟の時代」。

「図−5」の時代、河内潟に流れ込む河川水は、上町台地から伸びた砂州によって狭められた開口部を通って大阪湾へと流れ出ていたが、これが一転、満潮になると海水が開口部を通って潟内部に逆流し、4〜5キロ先の大阪城近辺にまで流入したのだという。
日本書紀が描くのは、まさにこの「逆流」に乗った神武天皇の水軍の様子で、それが起こり得るのは「河内潟」の存在したBC1050〜BC50の期間というわけだ。

一年に2回歳を取る「春秋年」
もちろん、古代の地形図から分かったことは、神武東征は2世紀や3世紀のことじゃなくて紀元前だ!ということだけで、古代天皇の実年代は(最近すっかり有名になった)「春秋年」で計算する。
中国の正史『三国志』に引用された『魏略』の逸文「裴松之の注」にはこう書かれている。
「其俗 不知正歳四時 但記春耕秋収 為年紀」
(『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明/2012年)
「倭人は歳の数え方を知らない。ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている」
つまり弥生時代の「倭人」は春と秋の年2回、歳を取ったというんだから、バッサリ半分にしてやればいい。日本書紀が127歳で崩御したと書く神武天皇は、実際は63.5歳で亡くなったというわけだ。
「春秋年」で書かれているのは第21代雄略天皇あたりまでなので、そこから春秋年で遡っていくと、神武天皇の崩御年はBC70年頃で、おおー「河内潟」の時代だ。
第10代崇神天皇は241年崩御で、邪馬台国の卑弥呼(247か8年没)と同じころ。第15代応神天皇は410年崩御で、高句麗の広開土王(好太王)と同じころ。
なお、長浜さんによれば、古い天皇ほど在位年数が長いのは、初期の皇室には「末子相続」の原則があったからだという。兄弟のうち、最も若い皇子が次期天皇になったので、当然、一代が占める期間が長くなる(皇子の数にもよるが)。
ただこの原則は、仁徳天皇(428年崩御)のあとに兄弟相続が始まると崩れていって、その後の天皇の在位年数は急激に短くなっていく。

古事記の「崩年干支」と長浜さんの計算
古代天皇の実年代を表すものに、古事記に載る天皇の「崩年干支」があるが、実は長浜さんの計算に近い数字が出ている。
1977年刊行の『住吉大社』(学生社)によると、歴史学者の田中卓氏が『住吉大社神代記』のなかに垂仁天皇の崩年干支「辛未」(311年)を発見したことで、一代前の崇神天皇の崩年干支「戊寅」を、定説だった318年から258年に繰り上げることが可能になり、全体の整合性がとれるようになったという。

比較してみれば、崇神天皇の崩御は古事記258年、長浜さん241年。
垂仁天皇は古事記311年、長浜さん290年。
成務天皇は古事記355年、長浜さん350年。
応神天皇は古事記394年、長浜さん410年。
仁徳天皇は古事記427年、長浜さん428年。

三国史記と長浜さんの計算
せっかくなので、朝鮮半島の史書と長浜さんの計算を照合してみる。日本書紀には神功皇后の時代に、3人の百済王の崩年が記されているが、こんなかんじ。
①肖古王(神功皇后55年薨去)
②貴須王(神功皇后64年薨去)
③枕流王(神功皇后65年薨去)
これを長浜さんの計算で西暦に換算すれば、こう。
①肖古王(382年頃に没)
②貴須王(387年頃に没)
③枕流王(387年頃に没)
それを、1145年に成立した現存する朝鮮最古の史書『三国史記』の「百済本紀」がどう記しているかといえば、こう。
①近肖古王(375年没)
②近仇首王=貴須王(384年没)
③枕流王(385年没)
こちらも誤差はあるものの、日本書紀と三国史記が「おおむね」「だいたい」同じ出どころの資料を用いたことは間違いなさそうだ。

春秋年の空白部分
それにしてもなぜ「誤差」が出てくるのかの理由としては、どこを春秋年で2倍にしたか・・・の位置が問題になるというのが、個人的な考え。
たとえば神功皇后でいえば、日本書紀で全69年とされる在位のうち、その13年から46年の間には事績に「空白」が空いている。在位期間のまんなか辺に、ぽっかりと空白を入れたんだから、本来はまんなか辺にあったはずの事績は空白の前後に分断されていると見るのが自然だろう。
同じように、崇神天皇は全68年中、その17年から48年が空白。
垂仁天皇は全99年中、その39〜88年が空白。
景行天皇は全60年中、その28〜40年が空白。
この水増しは、おそらく恣意的な単純作業の結果だろうから、各天皇の事績の年代については「おおむね」「だいたい」で考えるのが限界、という気がする。