邪馬台国は熊本(周旋と道里)〜『卑弥呼は熊本にいた!』伊藤雅文

『検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く 卑弥呼は熊本にいた!』(表紙の抜粋) 邪馬台国

「周旋」は円ではなく一本の線

邪馬台国関連の読書感想文シリーズ、その5回目は歴史研究家・伊藤雅文さんの『検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く 卑弥呼は熊本にいた!』(2023年)だ。

このブログの邪馬台国カテゴリーの(17)までは、『ぼくらの日本書紀』というサイトを作る際に読んだ本をネタにしているので、2020年以前に出た本がほとんどだった。

それで読書感想文シリーズでは、それより新しい本を物色して読んでいるんだが、伊藤雅文さんのこの本は大当たりだった。ぼくの花粉で潤んだ両目から、見事にウロコが落ちたのだった。

『検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く 卑弥呼は熊本にいた!』(2023年)伊藤雅文

まず左目のウロコからいくと、倭人伝に出てくる「周旋」は「閉じた円ではなく、曲がりくねった一本の線」だという指摘。

倭人伝には、東の海の「倭種」を紹介した後に、「周旋可五千余里」という文が出てくる。

岩波文庫だと「一周5千余ばかりである」と訳してあり、講談社学術文庫でも「周囲五千里ほどである」と訳してあって、ぼくも今まで何の疑いもなく「魏志韓伝」の「方可四千里(面積はおよそ4000里四方である)」と同じ表現だと思い込んできた。

『倭国伝』講談社学術文庫

だが伊藤さんによれば「周旋」という言葉は『三國志』に23回出てくるが、ほとんどが「めぐり歩く」「転々とする」という意味で使われているのだという。

つまり魏の使節団が、「倭」の中を邪馬台国まで移動した距離が5000里だったと言ってるわけで、これに帯方郡から狗邪韓国までの7000里を足した12000里が、魏使のトータルでの移動距離だったということだ。

倭人伝には「狗奴国」までのクニグニを紹介した後に、「自郡至女王国、万二千余里」という一文があって、トータル12000里は「九州説」の大きな根拠とされてきた。しかし「大和説」をとる学者からは、12000里は中華思想では”世界の果て”を意味する「記号的数値」だとして、軽視されてきたという過去がある。

だが実は12000里は2回繰り返して言及されていたわけで、それなら「実際的数字?」と考えてもいいんじゃないだろうか。

「周旋可五千余里」の範囲
(出典『検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く 卑弥呼は熊本にいた!』)

伊藤さんによれば、「周旋可五千余里」を狗邪韓国から邪馬台国までの行程だとする説は、別に新しいものではないらしい。だがなぜか「一周5000里」の誤訳の方が定着しちゃってるのは、一体どういうわけなのか。

もしもその理由が、「周旋」を正しく理解してしまうと「邪馬台国畿内説は文献解釈上、成立しない」という事実が明らかになってしまうからだとしたら、ここには歴史学界の大きな「闇」があるような気がしてくる・・・(大げさw)。

くまモン
(写真AC)

日数は「道里」ではない

右目のウロコは、「日数」は「道里」ではない、という指摘。

AD270年頃に『禹貢(うこう)地域図』という地図を作成した「裴秀」は、「道里」というのは距離は距離でも直線距離ではなく、道のりの距離=「道のりの里数」である———と定義しているという(『晋書』裴秀伝)

ところが倭人伝では、「不弥国」から先に「道のりの里数」ではなく「水行二十日」のように「日数」を使っているのにも関わらず、その直後の文で「女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが(岩波文庫)と「まったく筋の通らない不可思議な文章」を載せている。

自分で「里数」を知っているといいながら、なぜ「水行二十日」なんて「日数」の方を載せたのか。これは変だ。

岩波文庫『魏志倭人伝』

変だといえば、429年に『三國志』に陳寿の原文と同じほどの膨大な「注釈」をつけた「裴松之(はいしょうし)」が、上の明らかに違和感のある箇所をそのままにしたのも、変だ。

それで伊藤さんが立てた仮説が、陳寿のオリジナル『三国志』原文には、不弥国から邪馬台国までの具体的な「里数」が記載されていた———というもの。もちろん、その里数の合計は、総移動距離12000里から、帯方郡から不弥国までの10700里を引いた、1300里。

429年に裴松之が注釈をつけた時点での『三国志』には、「水行二十日」とは書いてなかったから問題にならなかった、というわけだ。

くまモン
(写真AC)

要するに『三国志』は後世に書き換えられたということになるが、その原因をつくったのは432〜437年頃に成立した正史『後漢書』だと、伊藤さんはいわれる。

この『後漢書』は200年も昔のことを編纂しているせいか、引用や要約にテキトーな箇所が見受けられ、しかも辺境になればなるほどテキトーさが増すそうだ。

倭人伝では、邪馬台国の「南」と書いてある「狗奴国」を、邪馬台国の「東」だと書くのも、「倭の五王」の時代の東西方向への倭の地理観を、反映してしまったものだという説もある。

『後漢書』における邪馬台国にとっての最大の問題点は、倭人伝が「会稽東治の東」と書いた箇所を、「会稽東冶の東」にしてしまったこと。「」と「」のちがい。これによって『後漢書』では、江蘇省の東から福建省の東まで、600kmも南に邪馬台国があることになってしまった。

「会稽東治」と「会稽東冶」
(出典『検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く 卑弥呼は熊本にいた!』)

こうして沖縄あたりに移された「邪馬台国」だったが、困ったことに『後漢書』では「楽浪郡(倭人伝では帯方郡)」から邪馬台国までが12000里であることはそのまんまだったので、計算が全然合わなくなってしまったのだった。

それであらためて両者を見比べてみれば、『後漢書』には邪馬台国までの行程への言及が、全くない。これはラッキー!として行われたのが、行程の最後の方の「距離」を「日数」に書き換えてしまう作業だった。

こうして表現を「曖昧」なものにして、すでに正史として定着してしまった『後漢書』と、150年前の『三国志』のつじつまを大雑把に合わせたものが、今ぼくらが目にしている魏志倭人伝———というのが伊藤さんのお考えだ。

『後漢書』の後の時代に写本を担当した役人の苦労がしのばれる、筋の通った「仮説」だとぼくは思う。

当時の有明海と筑後川河口
(出典『検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く 卑弥呼は熊本にいた!』)

んじゃ、陳寿のオリジナル『三国志』には一体どう書いてあったかというと、投馬国への水行20日=600里、邪馬台国への水行10日=300里、陸行一月=400里で、合計1300里。

オリジナル『三国志』にはそう書いてあったから、「女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが」とは全く矛盾しておらず、うるさい裴松之も何の反応も示さなかった、というわけだ。

なお魏志倭人伝は、AD240年に来日(来倭)した帯方郡の役人「梯儁(ていしゅん)」らが提出した復命報告書を中心にして編纂されたそうだが、梯儁らがどうやって邪馬台国の位置を観測したのかも、伊藤さんの本には書かれている。

そんなハイレベルな梯儁たちが、子どもでも分かる「東」を「南」と間違えるとは思えないので、あらためて「大和説」の”方位間違え説”には、無理筋を感じざるを得ないところだ。

陸行四百里と邪馬台国の拠点集落ネットワーク
(出典『検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く 卑弥呼は熊本にいた!』)

んで、そこまで里数が分かってしまえば後は簡単なようで、伊藤さんによれば、投馬国は不弥国から南に川を進んで「水行600里」で、筑紫平野の南部一帯あたり(吉野ヶ里遺跡を含む)。

そこからまた「水行300里」で、みやま市に上陸。さらに「陸行400里」で到着した卑弥呼の都とは、熊本県の「山鹿市」。その南に広がる「熊本平野」の一帯が、7万戸の大国・邪馬台国というわけだ。

『狗奴国浪漫』表紙

狗奴国は「幻想」の強国か

というかんじで、伊藤さんの説には飛躍やこじつけもなく、誰でも納得できる魏使(梯儁さん)の行程がスッキリと展開されている。

だがそうなると当然気になるのは、邪馬台国の「南」にあったという「狗奴国」の存在だ。伊藤さんは、狗奴国が邪馬台国に匹敵する強国だというのは「幻想」で、実は「狗奴国=熊本説」には大した根拠がないのだという(むろんその根拠も挙げられている)。

しかしぼくの知る限りでは、邪馬台国時代の筑紫平野と熊本平野の間には、文化的に大きな断絶があるという、考古学のFACTがあるようだ。いくつか列挙してみると、こう。

墓制の違い

邪馬台国時代の福岡/佐賀と、熊本との文化の違いとしては「箱式石棺」という墓制がある。この墓制は「倭国大乱」のあとに北部九州で広く採用されたものだというが、熊本平野にはほとんど存在しなかった。

「倭国」の盟主とされる邪馬台国が、北部九州と異なる墓制、というのはチト考えにくい気がする(でも経歴をみると伊藤さんは「邪馬台国の会」の会員らしいので、こんな図は当然知っているはず)

弥生時代後期の箱式石棺の分布
(出典『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』安本美典/2019年)

んで、この「箱式石棺」が熊本平野に広まったのは、卑弥呼が死んだ後の古墳時代前期のことのようだ。

九州本島で、古墳時代前期において、箱式石棺の出土数の追い「市と町」ベスト10
(出典『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』安本美典/2019年)

鉄加工のレベルが違う

古代の鉄に詳しい考古学者の村上恭通さんによると、邪馬台国時代の北部九州では鉄器の生産技術が向上し、厚い鉄板からも鉄斧が作られたのに対し、熊本では薄い鉄板からの加工に留まっていたという。これは「倭国」の盟主としては情けない状況だ。

(『邪馬台国時代のクニグニ・南九州』2014年)

また、当時は日本最大の鉄器保有量を誇った熊本だったが、卑弥呼が死んだ後の古墳時代前期になると、なぜか集落から鉄器が消えてしまったのだという。熊本に邪馬台国があって、卑弥呼の後をイヨ(トヨ)が継いだとしたら、そういう状況にはならない気がする。

重弧文長頚壺
(出典『狗奴国浪漫〜熊本・阿蘇の弥生文化』伊都国歴史博物館/2014年

土器の違い

熊本・阿蘇地方では、弥生後期から「免田式土器」と呼ばれる独自の土器を使うようになったという。だが熊本の邪馬台国が、北部九州にその土器をガンガン広めた事実はないようだ。

糸島型祭祀器の袋状口縁壺に対抗するように突然出現することや、中国の青銅器から生まれた可能性があることから、中・南九州の政治的要素を多分に含んで流通した土器と考えられている。

(出典『狗奴国浪漫〜熊本・阿蘇の弥生文化』伊都国歴史博物館/2014年)

鏡の扱い

弥生後期になると、熊本でもようやく鏡の出土が始まるが、集落からのものが半数以上を占め、「破鏡」として単独で出土することが多く、墓への副葬が少ない。『狗奴国浪漫』によれば「北部九州とは、その取り扱いが大きく異なるところである」とのこと。

狗奴国は『魏略』にも載っている

魏志倭人伝は、その成立より20〜30年前に完成した『魏略』を骨子にしたと言われるが、その簡潔な表現の中にも、しっかり狗奴国の名前は記されている(奴国、不弥国、投馬国は登場しない)。

女王之南、又有狗奴国、以男子為王、其官曰拘右智卑狗、不属女王也。自帯方至女国万二千余里、(以下略)

(『魏志倭人伝 他三篇』岩波文庫)

ま、『魏略』の件はともかく、考古学からは筑紫平野と熊本平野を一体化した文化圏だと捉えることは難しいようだ。

「箱式石棺」が卑弥呼の死後になってから広まった点からは、イヨ(トヨ)+男王の体制になってから、北部九州の邪馬台国が狗奴国を制圧したストーリーが浮かんでくる。もしも熊本に邪馬台国があったのなら、弥生後期の段階から熊本でも「箱式石棺」が葬儀で使われたんじゃないだろうか。

『ヤマタイカ』星野之宣

伊都国に「王」はいたか

実をいえば、ぼくは星野之宣氏のSF漫画『ヤマタイカ』(1986−1991)の影響を受けた人間なので、卑弥呼が熊本の「火の女王」だと正直うれしかったりする。漫画に出てくる「チブサン古墳」を見に、はるばる山鹿市に行ったこともある。

ただ、筑後国一宮「高良大社」から見た雄大な筑紫平野を思い出すと、邪馬台国の舞台はこっちだろうなぁ〜と思わずにはいられなかったりもする。

ま、それはそうと、伊藤さんの本には他にも面白いことがいろいろ書いてあって、例えば邪馬台国時代の伊都国には「王」はいなかった説には、完全に同意する。

伊都国には代々(対馬国、一大国などの国々をまとめる)王がいたが、(倭国の乱を経て、過去にいた王の勢力下の国々は)いまは皆、女王国に統属されている。

すなわち、伊都国に王がいた時代に、その王の傘下にまとまっていた国々は、いまはすべて女王国の構成国になっている、と読むのが正しい解釈だと考えます。

(出典『検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く 卑弥呼は熊本にいた!』)

伊藤さんは感心してしまうほど多角的に分析して、上の結論を導いているが、ぼくの根拠は『魏略』。そこでは伊都国までのクニグニが紹介された後、それらの国の王は「皆」女王に属すと書いてある。伊都国だけに王がいたとは『魏略』には書いてないわけだ。

従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国 到拘邪韓国七千里 始度一海千余里 至対馬国 其大官日卑狗 副曰卑奴 無良田 南北市燿 南度海 至一支国 置官 与対同 地方三百里 又度海千余里 至末慮国 人善捕魚 能浮没水取之 東南五百里 到伊都国 戸万余 置日爾支 副日洩渓飢 柄渠触 其国王皆属女王也

(『魏志倭人伝 他三篇』岩波文庫)
(筑後国一宮「高良大社」からみた筑紫平野)

卑弥呼のお墓は25m

邪馬台国「大和説」の根拠としてよく挙げられるのが、奈良県桜井市の「箸墓古墳」(全長280m)。

魏の時代は「一歩=6尺」「1尺=24cm」なので、倭人伝のいう卑弥呼の墓「径百余歩」は直径144m。前方後円墳の「箸墓古墳」の「後円部」にだけに注目すれば直径150mなので、「径百余歩」とほぼ一致する、というわけだが・・・。

しかし伊藤さんは、陳寿は「韓伝」と「倭人伝」では一里を70m(伊藤説)で計算してるんだから、一歩は144cmではなく23.3cmなんじゃね?といわれる。すると「径百余歩」は23m強になるので、卑弥呼の墓は25m程度の円墳、または墳丘墓だろうと。

———絶賛発売中の本なので、紹介はこのあたりまでとする。


邪馬台国「九州説」は世間的には劣勢のようで、だからこそ論者は必死になって理論武装に励む。「大和説」は「箸墓」と「纒向」の印籠を出して終わり(?)だが、「九州説」は皆が知恵を絞って次のステージを目指している。

おかげでぼくが何気なく読み飛ばしたり、気になりつつも放置していた問題を、誰かが明るみに出して視野を拡げてくれる。そして次の本を読むのが楽しみになる。

ありがたいことです。

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