女王国は「奴国」
邪馬台国関連の読書感想文シリーズ、その14回目は『決定版 邪馬台国の全解決』(2018年)。著者の孫栄健さんは、1946年生まれの詩人、作家、歴史研究家だそうだ。
『邪馬台国の全解決』のオリジナル版は1982年刊行で、当時はあの安本美典さんが主催する『季刊・邪馬台国』で特集が組まれ、歴史学の大家、井上光貞氏や榎一雄氏の講評を受けたんだそうだ(すげー)。
いまなお販売されている『邪馬台国の全解決』は、そういった超一流の視線にも耐え抜いた名著、ということなんだろう。

孫さんの結論から言うと、「邪馬台国」とは倭人伝の冒頭にいう倭人の30国の総称で、卑弥呼の「女王国」は福岡市の「奴国」を指しているのだという。孫さんがその結論に至った思考過程は、以下に。
中国史書は「前史」を継ぐ
まず孫さんによれば、中国の史書を読む際には必要な方法論がいくつかあって、その一つが「前史を継ぐ」というもの。
280年頃に成立した魏志倭人伝(『三国志』)の場合は、432年頃成立の『後漢書』や648年頃成立の『晋書』の「前史」にあたり、そこで後世の歴史家が倭人伝をどう解釈したかを知ることは、倭人伝の正しい解釈への鍵になるそうだ。

それで『晋書』で孫さんが注目したのが、魏の時代には倭から30国の通好があり、その戸数は7万戸だという記述。
「至魏時、有三十国通好、戸有七万」(晋書)
この記述は倭人伝とは異なっていて、倭人伝には「邪馬台国」だけで7万戸で、他に末廬国4000戸、奴国2万戸、投馬国5万戸などの記載があって、合計すると15万戸を越える。
しかし中国王朝の歴史編纂官といえば宮廷のエリートで、宮中に代々引き継がれてきた豊富な資料に自由にアクセスできたという。そんな彼らがケアレスミスを起こすことは考えにくく、彼らがわざわざ「前史」を書き換えたなら、相当な理由があるはずだ!と孫さんはいう。

それで孫さんが、魏志倭人伝(三国志)と『晋書』を整合させるべく、あれこれ考え至った結論が、邪馬台国とは30国の総称で、30国の合計が7万戸だというもの。倭人の30国=7万戸=邪馬台国、という図式だ。
実際のところ「邪馬台国」は倭人伝に一回しか登場しない国名で、しかもその説明は「女王の都するところ(女王之所都)」としか書かれていない。邪馬台国が単独のクニかどうかは、倭人伝からは分からないと孫さんはいわれるわけだ。
なお孫さんの説だと、5万戸の「投馬国」は倭人の30国には含まれていない(後述)。

つづいて『後漢書』を検討すると、倭人伝にはない記述として、光武帝の時代に朝貢してきた「倭の奴国」は倭国の「極南界」だという不思議な地理観にぶち当たる。
だが通説では「奴国」の場所は福岡市博多区〜春日市あたりが有力で、通説はその南に「投馬国」と「邪馬台国」があるというんだから、奴国は倭国の一番南ではないはず。
この違和感を抱えたまま倭人伝に戻ってみると、そこには女王国の「北」の国については戸数や道理が分かる(自女王國以北、其戶數道里可得略載)とか、女王国から「北」の地は伊都国に置いた一大率が取り締まっている(自女王國以北、特置一大率、檢察諸國)とか、女王国の「北」に限定された話題が二回出てくることが気になってくる。
孫さんの調べでは、古代中国で「◯◯以北」と書いた場合は、その「◯◯」を含むという。となると、上記の「自女王国以北」には女王国自体も含まれることになり、自然、女王国がそれらの一番「南」にあることが分かる。
つまりは、倭国の極南界の「奴国」=倭人30国の最南部の「女王国」・・・というのが『後漢書』と魏志倭人伝を整合させてみた結果となる。
魏が「女王国」の卑弥呼に易々と「親魏倭王」の金印を与えたのも、光武帝時代に一度「奴国」には下賜しているという前例=実績があったからではないか、と孫さんは推察されている。

帯方郡から奴国までは12000里
孫さんが、女王国=奴国とする根拠には「距離」の問題もある。
倭人伝によれば、帯方郡から女王国までの総距離は12000里(自郡至女王國、萬二千餘里)。このうち、里数が記されている「不弥国」までを合算すると10700里。しかし「奴国」=「女王国」なんだから、奴国から不弥国の余分な100里は除いて、10600里。
でもこれじゃ、12000里には1400里足りない。
しかし倭人伝をよく読むと、上記以外にも「距離」は記載されていて、それが「対馬国」の一辺400里(方可四百餘里)と「一支国(壱岐)」の一辺300里(方可三百里)。
魏の使節の船団は、両島の沿岸部を進むので、それぞれ二辺ずつを足すと800里+600里=1400里。帯方郡から奴国までの10600里を足せば、トータル12000里というわけだ。

倭人伝の距離は10倍化されている
魏志倭人伝を書いた「陳寿」が仕えた「晋」の皇帝・司馬炎の祖父は、軍閥・公孫淵を滅ぼして「魏」の東方政策を軌道に乗せた大将軍「司馬懿仲達」。
陳寿の立場としては当然、司馬懿の功績を称えるために東夷の「韓伝」と「倭人伝」については数字を盛って、話を大きくしている———と孫さんは言われる。
具体的には「韓伝」と「倭人伝」だけ距離が10倍化されていて、実際には1200里(約520km)しか離れていない帯方郡から女王国までの距離が、12000里だとされている。そんな遠方まで平定した司馬懿の偉大さも、10倍ということだ。
※魏の一里は約435m

ところで孫さんによれば、「女王国=奴国=邪馬台国の極南界」になるので、その南はない。なので、倭人伝で邪馬台国が唯一言及される「南至邪馬台国、女王之所都。水行十日、陸行一月」の日数は、帯方郡から奴国までの移動日数を表すことになる。
それで孫さんの調べによれば、8世紀の『唐六典』には水行は陸行の3倍、と書かれていて、一方、『魏志』の「明帝紀」には司馬懿は一日40里の陸行を標準とした、と書いてある。陸行は一日40里、水行は一日120里ということだ。
んで里数と日数を掛け算してみれば、どちらもぴったし1200里で、10倍化すれば12000里になる。
なので、女王国への「水行十日、陸行一月」とは、水行なら10日、または陸行なら一ヶ月、という概算を表していて、水行10日のあと、つづいて陸行30日という意味ではない、と孫さんはいわれる。

というわけで、12000里=水行10日=陸行一月でたどり着けるのは「奴国」まで。その奴国が邪馬台国の一番南にあるんだから、筑紫平野や熊本平野は当然ムリだし、ましてや奈良盆地が邪馬台国なんて、あり得ない———というのが孫さんの説になる。

この本へのぼくの感想
さて、ぼく個人としては、邪馬台国は(孫さんに否定された)筑紫平野のどこかにあると思うわけだが、孫さんの計算は見事に帳尻があっているので、歴史学者や考古学者が一堂に会して孫説をコンセンサスに認定するなら、それに従う準備はある。
ただ今のところ、そうはなっていないので、ぼくなりに気になった点をいくつか挙げてみる。
①5万戸の投馬国は鹿児島
孫さんは「邪馬台国」を倭人30国の総称と考えて、その全人口を7万戸、奴国をその最南部とする。なので帯方郡から「水行20日」=約1040km離れていて、人口5万戸の「投馬国」は、九州南部にある諸国の総称とする。
んでその中心地は、投馬=ツマと読めるので「サツマ」=鹿児島だろうと。

・・・ただ個人的には、そういう解釈は倭人伝をバラバラに分解しすぎでは?という印象もある。
東南至奴國 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戶
東行至不彌國 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家
南至投馬國 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戶
南至邪馬壹國 官有伊支馬、次曰彌馬升… 可七萬餘戶
倭人伝は、距離or日数を除くと上のように、「方角」「国名」「官」「副官」「戸数」と一定のリズム、規則性で順番にクニを紹介している。だが孫さんの説では、ここから「投馬国」だけを抜き出して、なぜかはるか彼方の鹿児島に持っていくというわけで、この淀みない流れの文章を、そういう形で分断していいものか、ぼくにはチト疑問がある。
というか、上のように規則的なパターンが繰り返されるから、通説は奴国から邪馬台国までを順番に連続して魏使が訪問していったクニグニだと考えたんじゃないだろうか。

②『後漢書』は信用していいのか
孫さんは『後漢書』を編纂した「范曄(はんよう)」を天才だ天才だと持て囃すけど、その『後漢書』は倭人伝が「南」だと書いた「狗奴国」を「東」だと書いている。
そして孫さんご自身も、倭人伝だけではその見解は得られないことを認め、魏志(三国志)以外の資料からの引用の可能性に触れたうえで、「餅は餅屋」だから、我ら現代人は范曄に従うしかないのだ———と思考停止を強要?している。

この点以外でも、『後漢書』は倭人伝が「北」だという「狗邪韓国」を「邪馬台国の西北の境界」だと書き換えていて、いずれも倭人伝よりも視線が東に傾いている印象がある。
歴史学者の平野邦雄さんによれば、范曄が宮廷で『後漢書』を編纂していた5世紀前半といえば、「倭の五王」の使者が宋の都を訪れていた時期にあたり、宮廷史家の范曄も、倭の都が畿内(大阪・奈良)にあった5世紀当時の常識に引っ張られて、倭人伝とは異なる地理観を記したのではないか———という話だ。
(『邪馬台国の原像』2002年)
正直なところ、ぼくも5世紀の『後漢書』や7世紀の『晋書』を絶対視して、3世紀の倭人伝(三国志)を解釈するのは、100%の賛成はしにくい感がある。

③孫さんによる書き換えが必要
孫さんは、女王国までの「水行10日陸行一月」を「または」と読むので、当然その行程は「全水行」か「全陸行」になる。
なので孫さんの説では、魏の使節団は「末廬国」には上陸しないで「水行」を続け、直接「伊都国」に向かったと書き換えられている。倭人伝には末廬国の情景がリアルに描かれているが、これらは全て、なかったことにされている。
んで、末廬国には上陸していないんだから、伊都国への「陸行500里」ももちろん無視。ルートは下の「六つの筆法図」で表されるように、一大国(壱岐)から不弥国に渡って伊都国に上陸するという、他の誰も思いつかなかった奇想天外なものになる。

また孫さんは、通説がいうように不弥国から先の1300里を南に進んだ場合、残りのわずか56kmを魏使は「水行10日陸行30日」で移動したことになり、いくらなんでも時間が掛かり過ぎだ!と笑い飛ばすわけだが、「水行」や「陸行」は脇目も振らずに直行する———という意味ではない、という説もある。
実際に、『三国志』全65巻でも「水行」と「陸行」は魏志倭人伝にしか出てこない特別な用語で、海を進むなら「渡海」「海行」「船行」もあるのに、わざわざ「水行」を使うのは(孫さんの言う)「春秋の筆法」ではないかと考えて、水は水でも「河川」を使う移動ではないかと主張する論者もいる(「川行」「河行」という用語は三国志にない)。
倭人伝には「倭人」についての詳しい情報が載っているが、魏の使節団が、「倭」は軍事的に利用可能なのか、魏に益する産物はないのか、とさんざん調べ上げていった「調査期間」が、水行と陸行の合計60日だったんじゃないか———という説もある(詳しくはこちらを↓)。

で、ぼくの感想文はこんなところになるが、孫さんの本には他にも、邪馬台国(女王国)と司馬懿の関係とか、伊都国王=卑弥呼の男弟=一大率=難升米とか、興味深いことがたくさん書かれている。また別の機会に取り上げたいところだ。
最後にもう一度いうと、ぼくは孫さんの邪馬台国=奴国説に反感や反発があるわけじゃない。当時の奴国には、奈良の「纒向遺跡」に匹敵する巨大集落があったし(比恵那珂遺跡)、日本最大の青銅器コンビナートがあったし(須玖遺跡群)、日本最大の鉄器工場もあったし(博多遺跡)、大陸との窓口となる港湾もあった(西新町遺跡)。
あとは卑弥呼の宮殿さえ見つかれば、そこが邪馬台国の中心地だと言われても、何も不思議なことはない。
何より素晴らしいのは、「大和説」を封じることができること(笑)。例えば「大和説」の考古学者、石川日出志さんも、「奴国」が邪馬台国なら認めるしかない・・・というような話をされている。
この二つの国が北部九州の最有力地です。
(『日本発掘!』文化庁編)
「筑後川流域ではないですよ」というと会場からお叱りを受けるかもしれませんけれども、やはり奴国、伊都国側が近年の調査資料からみても北部九州では断トツの位置にあるんです。
そして伊都国に「世々王あるも皆女王国に統属す」というのですから、女王国は隣の奴国でなければ、北部九州以外と考えざるをえません。
つまり「奴国」であれば、邪馬台国は北部九州でもOKということだ。

