(7)伊都国の三大王墓と三つの謎 〜三種の神器・ヒメヒコ制・倭国王帥升・女王墓〜

平原王墓 邪馬台国

「倭国」連合の盟主とされる邪馬台国にとって、もっとも重要な構成員が「伊都国」だろう。そこは帯方郡の使者が宿泊する場所であり、邪馬台国が派遣する統率者「一大率」が常駐して、諸国を取り締まる場所でもある。

魏志倭人伝によれば、伊都国は代々「王」が治めていたというが、幸いなことに伊都国ではそれらの「王墓」と思われる遺跡が見つかっている。

『最古の王墓・吉武高木遺跡』表紙

吉武高木遺跡「三号木棺墓」の三種の神器

伊都国界隈でもっとも古い「王墓」が、福岡県西区、早良平野に営まれた弥生集落「吉武高木遺跡」から検出された「三号木棺墓」だ。

そもそも「吉武遺跡群」を伊都国に含めて考えてもいいのかは議論もあるものの、のちの伊都国の中心集落「三雲・井原遺跡」とは直線距離で6.5kmしか離れていない立地から、少なくとも伊都国の王権の形成に、何らかの関与があった集落だろう———と考える研究者もいる。

3号木棺墓主体部の遺物出土状況
(出典『最古の王墓・吉武高木遺跡』常松幹雄/2006年)

吉武遺跡群からは1100基を超える「甕棺墓」が出土していて、弥生時代中期の「有力集団の墓地」だとされている。そのうち中心的存在なのが、中期初頭の「最古の王墓」といわれる「三号木棺墓」。

3.7×2.9mの墓坑に、2.6×0.9mの木棺を納めたお墓からは、中国鏡、銅剣、銅矛、銅戈、勾玉、管玉、つまりは「鏡」「勾玉」「剣」が同時に出土して、日本史上はじめて「三種の神器」が登場したのが、こちらの木棺墓ということになるそうだ。

BC200年頃の埋葬ということで、文献から被葬者の候補を考えるとしたら、BC210年頃に日本列島に渡ってきた可能性がある、秦の方士「徐福」が挙げられるとぼくは思う。

ヒメヒコ制と「三雲南小路遺跡」

つづいて弥生中期後半に、伊都国の中心集落「三雲・井原遺跡」(糸島市)の内部に造営された王墓が「三雲南小路遺跡」。

こちらが「王墓」だというのは、二基の甕棺だけが集団墓からは独立して、一辺30mの周溝の中に埋葬された「特定個人墓」の嚆矢だから。

『倭人伝に記された伊都国の実像・三雲・井原遺跡』表紙

いずれも豪華な副葬品を誇る「厚葬墓」で、一号甕棺からは前漢鏡31面(35面とも)をはじめ、銅矛などの武器類、二号甕棺からも前漢鏡22面以上とガラス勾玉などの装飾品が多数出土。

同じ中期後半の厚葬墓には「奴国王墓」とされる「須玖岡本遺跡D地点」(春日市)があるが、両者は「墳丘と区画をもつ墳墓の構造」などが共通していて、地元の研究者のあいだでは、伊都国と奴国の王統には、「(たとえば親戚関係など)密接な関係」があったと考えられているようだ。
(『倭人伝に記された伊都国の実像・三雲・井原遺跡』河合修・平尾和久/2024年)

なお、三雲南小路遺跡が造営された弥生中期後半に起こった出来事といえば、BC108年に漢の武帝が朝鮮半島に進出して「楽浪郡」を設置したことが挙げられる。

長浜浩明さんの計算によれば、神武天皇の即位はBC70年ということで、ぼくは神武東征の背景には楽浪郡の設置にはじまる東アジア地域の動揺があるような気がしているが、それはまた別の話題。

三雲南小路遺跡の二基の甕棺は、片方が武器を副葬し、もう片方が武器なしで宝石類に偏っていることから、男女のペアだと考えられていて、当時、楽浪郡などで行われていた「夫婦合葬」の影響を受けた可能性があるという。

地元の研究者も、倭人伝に記された女王・卑弥呼とその「男弟」による二元的な政治体制の「出現の予兆」を指摘していて、要は北部九州の弥生社会で広く見られた「ヒメヒコ制」———の現れってことのようだ。

伊都国博物館
(伊都国博物館)

倭国王「帥升」と「井原鑓溝遺跡」

つづく弥生後期前半の伊都国王墓が「井原鑓溝(いわらやりみぞ)遺跡」。

ただ残念ながら、こちらは江戸時代の出土記録しか残っておらず、どこにあったのかさえ明らかでない「幻の王墓」なのだという。

記録によれば、出土品は「方格規矩鏡(漢鏡)」が19面以上、大型の「巴形銅器」が3点。他にも刀剣類も出たというが、模写などの記録はなし。

伊都国博物館の甕棺

後期前半というと、「倭奴国」の使者が光武帝に金印をもらった(AD57)とか、「倭国王帥升」が漢に朝貢した(AD107)とかが『後漢書』に書いてある時代のこと。

歴史学者の仁藤敦史氏によれば、二世紀頃に「倭国」の主導権は奴国から伊都国に移ったと考えられていて、「帥升」は伊都国の人間だろうとのこと。それならタイミング的にいって「井原鑓溝遺跡」の被葬者は「帥升」である可能性もありそうだ。

平原王墓
(平原王墓)

女王の伊都国王墓「平原遺跡」

それから100年以上時間が飛んで、弥生終末期(AD220~250頃)の伊都国に造営された「最後の王墓」が、13.9×9.5mの周溝墓「平原(ひらばる)王墓」だ。

その特徴としては、まず立地が「三雲南小路」や「三雲南小路遺跡」のある伊都国の中心地から離れていること。中心域からは北西に1.4km離れた丘陵の尾根上に位置していて、写真で見るとポツンと隅っこに寄っている印象がある。

三つの王墓の位置関係
(出典『倭人伝に記された伊都国の実像・三雲・井原遺跡』)

それと、どうやら「女性」のお墓であること。

副葬品には40面もの大量の銅鏡のほか、ガラス製ピアスなどの装飾品が多数で、武器は大刀の一点のみ。

銅鏡のなかには直径46.5cmという超大型の「内行花文鏡」5面が含まれていて、発掘担当の原田大六はこれぞ三種の神器「八咫鏡」だという説を唱えて、被葬者は「大日孁貴」すなわち天照大神(のモデル?)だと主張したんだそうだ。

銅鏡の大きさの比較
(出典『伊都国博物館 常設展示図録』2019年)

「平原王墓」は単独で築かれた墳墓ではなく、集団墓群のなかの一つとして造営された点も「三雲南小路」とは異なるという。

「平原遺跡」は弥生後期から古墳前期にかけて、全部で5基が営々とつくられた墓域で、実はその頃、伊都国の中心域にも並行して、王墓までいかない「厚葬墓」がつくられていたんだそうだ。

なので地元の研究者のあいだでは、平原王墓は「それまでの伊都国王墓の王統とは異なった、別の首長系譜の墓であった可能性が考えられる」ということだ。

平原王墓

・・・てぇことは、「倭国王帥升」の墓かも知れない「井原鑓溝」のあと、伊都国王の墓は平原王墓まで100年空いたんじゃなくて、100年のどこかで王統が途絶えてしまった可能性もある、というわけか。

そこへAD220~250年頃、「八咫鏡」を連想させる超大型の鏡5面など、あわせて40面もの銅鏡を副葬するほどの権勢を持っていた「女王」が、伊都国の王統とは別の系譜にある「王墓」に埋葬されたと・・・。

なんとも興味深いお墓だが、これ以上はただの空想になるので、今回はここまで。

『農耕社会の成立』

魏志倭人伝の「伊都國」の不思議

話は変わるが、考古学者の石川日出志さんは、魏志倭人伝の「伊都国」の記述には三つの不思議な点があると書かれている。(『農耕社会の成立』2010年)

ふしぎ①伊都国のディテールがないこと

倭人伝では対馬国、一大国、末廬国については「それぞれの地域の地形や生態環境をよく表す記載」があるのに、伊都国にはそれがないのは何故か。

この自問に対しての石川さんの自答は「伊都国以下は邪馬台国(女王国)のもとに一括して記述されているから」というもの。

倭人伝には「黥面文身」にはじまって倭人の習俗や服装、食べ物、産物、規範などが事細かに記録されているが、それらは伊都国から邪馬台国までの全てのクニグニに共通しているので、風景なども含めて一括して書かれたのだろう———って感じだろうか。

・・・でもこれ、もしも邪馬台国が奈良盆地にあったとしたら、博多の人と奈良の人が同じ言葉をしゃべり、同じものを食べてることになるわけだが、有りえる話なんだろうか。

実際、倭人伝には「其死、有棺無槨」とあって、倭人はお墓に「槨(外箱)」は使わないというが、それは九州から広島までの話であって、島根・岡山・香川・滋賀そして奈良では「槨」を使うお墓が見つかっている。

・・・まぁ博多と久留米ぐらいの距離なら、ラーメンの味もぼくら関東人には違いがわからないぐらいの差でしかないような気もするが。

岩波文庫『魏志倭人伝』

ふしぎ②伊都国の「戸数」が少な過ぎること

邪馬台国が7万戸、投馬国が5万戸、奴国が2万戸という人口に比べ、伊都国の「千余戸」はあまりに少ない。これは「誤写」ではないのか。

実際のところ、お隣り「奴国」の国邑「比恵・那珂遺跡」の面積は100haほどで、そこの人口が「二万余戸」。

これに対して伊都国の「三雲・井原遺跡」は、集落域と墓域と合わせた同じ条件で60haなので、いくらなんでも「千余戸」は少なすぎる。人口密度が同じだとしたら、最低でも「一万余戸」は欲しいところだ。

すると伊都国の人口について、ぼくらの希望通り?「万余戸」と書いてる文献が存在していて、それが倭人伝(三国志)より早く成立して、倭人伝のネタ元になったと言われる『魏略』だ。

従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国 到拘邪韓国七千里 始度一海千余里 至対馬国 其大官日卑狗 副曰卑奴 無良田 南北市燿 南度海 至一支国 置官 与対同 地方三百里 又度海千余里 至末慮国 人善捕魚 能浮没水取之 東南五百里 到伊都国 戸万余 置日爾支 副日洩渓飢 柄渠触 其国王皆属女王也

(『魏志倭人伝 他三篇』岩波文庫)

『魏略』を尊重するなら、どうやら元々の伊都国の人口は「戸万余」だったが、陳寿はAD280年頃、それを「千余戸」と書いたことになる。

んじゃこれを陳寿、あるいは後世の「誤写」とみるかどうかだが、ぼくはそれを言ったらキリがないし、確かめる方法もないんだから、あまりそういう風には考えないことにしている。

これは想像だが、AD280年頃の陳寿の前には、伊都国の人口を「戸万余」と書いた『魏略』と、実際に何回か往復した魏使たちが提出した報告書が並んでいて、陳寿はそのうちで最も情報が新しいものを採用した。そしたらそれが「千余戸」だった・・・なんて可能性はないだろうか。

つまり歴史のどこかで、かつては万余戸だった伊都国の人口は、10分の一に減っていた・・・なんて考えてみたが、この件はまたいずれ。

『倭国伝』講談社学術文庫

ふしぎ③王がいるのに女王国に統属していること

そして石川さんは、不思議というより「重要」なこととして、考古学的に「世有王」という状態が追認できるのに、伊都国の王が「皆統属女王国」というのは何故か、という点を3つ目に挙げられている。

これはつまり、代々の王がいるのに彼らは皆、女王国に支配されているという伊都国の状況からみると、九州には伊都国と奴国より大きい国がない以上、奴国が邪馬台国ではない場合、邪馬台国が九州には存在しない根拠になるのではないか———ということで、明言はしていないものの、石川さんは邪馬台国「畿内説」のお立場であるようだ。

でも本当に、伊都国の「代々の王」は女王国に支配されていたんだろうか。たしか卑弥呼が女王に共立されたのは「倭国大乱」の後、つまり2世紀の終わり頃だったような気がするが。

例えば、講談社学術文庫『倭国伝』の「世有王皆統属女王国」の訳はこうなっている。

代々、王が治めている。以上の国はどれも、女王の国に統治されている。

(『倭国伝』講談社学術文庫)

『倭国伝』では、女王国に統治されている国は伊都国だけでなく、対馬国〜末廬国もそうだと言っていて、これは「王」と「皆」のあいだを読点にするか、句点にするか、その解釈の違いによるものだ。

んでぼくが『倭国伝』を支持する理由は、魏志倭人伝が『魏略』をベースにしているという「定説」にある。もう一度『魏略』を引用すればこう。

従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国 到拘邪韓国七千里 始度一海千余里 至対馬国 其大官日卑狗 副曰卑奴 無良田 南北市燿 南度海 至一支国 置官 与対同 地方三百里 又度海千余里 至末慮国 人善捕魚 能浮没水取之 東南五百里 到伊都国 戸万余 置日爾支 副日洩渓飢 柄渠触 其国王皆属女王也

シンプルな『魏略』の記述は、◯◯国を順にあげていったうえで「其国王皆属女王也」でシメている。ここには伊都国にだけ代々の王がいたとは書いてないんだから、「その国王」は対馬国から伊都国までの王のことを指している。

『倭国伝』を編纂された先生方は、この『魏略』の記述を暗記するほど熟知していたから、「魏志倭人伝」の訳をそれに沿ったものにしたんだろう、とぼくは思う。

んでそうなると、石川さんの不思議は不思議ではなくなって、元々は対馬国から伊都国までに「王」がいたが、その上位に女王国の卑弥呼が位置していた段階が「倭国」にはあった———というだけの話になって、石川さんの主張は、九州には伊都国と奴国より大きい集落遺跡がないから、九州に邪馬台国はない、という点だけが残ることになる。

『日本発掘!ここまでわかった日本の歴史』文化庁

考古学者である石川さんが、文献から九州説を否定している記事が他の本にあったので、そちらも引用してみる。

特に早稲田大学の渡邉義浩先生はたいへん重要なことを指摘されています。

「大率」という職名は魏の側にとってみれば「刺史」に相当すると『魏志倭人伝』にあります。この「刺史」という語を用いていることから、邪馬台国は九州以外だと断じえるというのです。

なぜかといえば、「刺史」は魏では地方に置かれる職で、首都圏で検察機能をもつのは「司隷校尉」という職であるから、九州には女王国・邪馬台国があるわけがないと、ご著書『魏志倭人伝の謎を解く』(中公新書、2012年)に明言されています。

(『日本発掘!ここまでわかった日本の歴史』文化庁/2015年)

陳寿が「一大率」を中国の「刺史」のようなものだといい、その「刺史」が中国では「地方官」なので、邪馬台国は九州ではなく、もっと遠い場所にある(そこに「中央」がある)———という説明だが、これは正直あまりピンと来ない。

当時の中国人は、日本人を「東夷(東の野蛮人)」の世界に入れ、「倭(みにくい/いやしい)」と侮蔑しているわけで、そんな下等動物の代官を、世界の中心(中華)の要職である「司隷校尉」と同じように扱うなんて、チト有りえない話なんじゃないかと、ぼくには思える。

陳寿はただ、一大率と刺史の役割が似ていたから、中国人なら誰でも分かる喩えとして「のようなもの」と書いてみただけのような気がする。

それに中華帝国は一里420mで四方2万里に対し、「倭国」は一里70〜85mで四方五千里と、国土の大きさに異次元の差があるわけで、そんな猫のひたいのような「倭国」に中央と地方があるなんて、陳寿が聞いたら大爆笑しそうな気がしないでもない。

渡邉先生の本は、正月休みにでも読んでみることにします。

邪馬台国(8)につづく

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