卑弥呼の時代の鏡の分布
魏志倭人伝によれば、AD238年に魏に朝貢の使者を送った卑弥呼は、奴隷10人他の見返りに、魏帝から莫大な財宝を下賜されている。そこに含まれていたのが「銅鏡百枚」で、邪馬台国の所在地なら銅鏡がワラワラと出土しないはずがない。

考古学者の藤田憲司さんによると、卑弥呼が共立される前(弥生後期後半)の段階では、銅鏡を墳墓に副葬する文化は北部九州が中心で、畿内では一例も見られないんだそうだ。
具体的には福岡県が47例49面と圧倒的で、佐賀で4例4面、長崎で3例6面などが、墳墓からの銅鏡出土の例。九州でも大分や熊本では墳墓以外の集落や祭祀遺構からの出土しかなく、畿内も同様だったってことのようだ。

その後の時代、藤田さんが「庄内式並行期」と呼ぶ3世紀前半、いわゆる邪馬台国時代の鏡の出土状況が、上の「図26」。
相変わらず福岡県は、墳墓13、集落7の20例58面と圧倒的に多い。ただ、40面もの銅鏡が一か所から出土した「平原王墓」を除けば、他の墳墓は一面ずつの副葬になる。佐賀県は墳墓4、集落9の12例20面だ。
では畿内はというと、大阪(河内)が墳墓2、集落3の5例5面。京都の山城地域が2例2面。注目の奈良は「ホケノ山古墳」からの1例3面だけで、もしもホケノ山古墳が3C後半の築造だった場合は、0例0面ということになるそうだ。

こういった状況をザックリまとめるなら、銅鏡を始めとして銅剣や鉄剣などの金属類が個人に帰属していて、墳墓に副葬されたのは北部九州の文化。
それに対し畿内では、金属器が個人墓に埋葬されたのは「中宮ドンパ遺跡」の鉄剣等の一例のみで、藤田さんは「両地域の金属器に対する接し方は、国を隔てた異文化というべき違い」だといわれる。
畿内を代表する青銅器「銅鐸」が集団で共有されたように、邪馬台国時代の畿内の銅鏡(ただしカケラ)も「生活のなかの護符(お守り)」として、集団で共有されるものだったそうだ。
2〜3世紀の畿内地域で鏡が「威信財」となる歴史的背景を見出すことはとてもおぼつかない。ホケノ山古墳に始まる畿内地域の鏡副葬の文化の源は、西北部九州地域の鏡の価値観に求めざるを得ない。
(『邪馬台国とヤマト王権』藤田憲司/2016年)

結局、畿内ではAD250年代に築かれたとされるホケノ山古墳(80m)から、鉄刀11点や鉄鏃・銅鏃といった金属製武器類の副葬が始まるわけだが、肝心の銅鏡の副葬はというと「画文帯神獣鏡」2面と「内行花文鏡」のカケラだけで、これが「銅鏡百枚」の卑弥呼の墓だとは考えにくい。
といって、藤田さんの推定では「箸墓古墳」(280m)の竣工は270年代半ばで、昭和の頃は「卑弥呼の鏡」といわれた「三角縁神獣鏡」の副葬が始まるのは280年代以降・・・。

九州から畿内に渡った鏡の文化
ところで、箸墓古墳に始まる「定型化」された前方後円墳は、西日本各地の墳墓の要素を集めて完成したというのが定説だが、そのうち鏡の副葬については北部九州の文化を取り入れた———というのも定説のようだ。
そうなると、ホケノ山古墳がつくられた250年代から、箸墓古墳が竣工した270年代の間に、九州から畿内に鏡の副葬文化を伝え、その現物を持ち込んだ人々の移動があった可能性が出てくる。
いずれにしても、女王国の首長のうち、鏡鋳造の技術を持ち、海を渡る術に長け、朝鮮半島の事情にも通じているといった条件を備えている集団、あるいはその首長層が瀬戸内東方に連携の道を探った可能性を考えたい。
(『邪馬台国とヤマト王権』)
それで思い出すのが、卑弥呼没後の3C後半に、集落から人が消えていったという「吉野ヶ里」や「平塚川添」。彼らはどこに行ってしまったのか。
それに「鏡鋳造の技術」といえば、邪馬台国時代にわが国最大の青銅器工房群があった奴国の「須玖岡本」。彼らはのちにヤマトを代表する海人系豪族「安曇族」に姿を変えていて、当然「海を渡る術に長け」てもいる。
一方、畿内ヤマトの王都「纒向遺跡」はAD250〜300年にかけて、その規模を3倍にしたといわれている。その原動力は何だったのか。
北部九州の人たちが鏡と鉄器を携えて、九州から畿内に続々と移住してきたと考えると、かなりの「謎」が解消されて、話の辻褄が合ってくる印象が、ぼくにはある。

鉛同位体比チャートのなかの鏡
昭和の頃に、卑弥呼の「銅鏡百枚」の候補と言われたのが「三角縁神獣鏡」だ。今でこそ600枚近くが出土しているこの鏡、昭和の頃はまだ100枚程度しか出てなくて、話の説得力が違っていた。
そしてそれらが畿内を中心に出土したことから、邪馬台国大和説(畿内説)の最大の根拠とされていたんだそうだ。
ところが不思議なことに、この三角縁神獣鏡は肝心の中国大陸では一枚も見つかっておらず、日本でばっかり増えていくことから、じゃー国産なんじゃねーの?という説(森浩一)も出てきた。
ぼくはニワカの一般人なので、学界の情勢などは全く知らないが、日本で600枚、中国で0枚なら、今でも三角縁神獣鏡を卑弥呼の「銅鏡百枚」だと考えている人は、そんなに多くはないんじゃないだろうか。

考古学では、銅鏡の形やサイズ、文様などの外見からアレコレ考えてきたそうだが、これは犯罪捜査でいえば容姿を目安に犯人を探しているような印象もある。
だが実際には警察は、DNAや指紋といった絶対的な動かぬ証拠から犯人を追うわけで、んじゃ銅鏡にもそんな客観的なデータがあるのかといえば、実はある。
銅鏡の成分である「鉛」には、質量の異なる4種類の「同位体」があって、その混合比率が「鉛同位体比」という数値。この同位体比は地域や鉱山によって異なるので、そこから銅鏡の原料の産地が推定できるんだそうだ。

この鉛同位体比の測定は1980年前後から始まっていて、すでに専門家による大量のデータが存在している。ただ、一般的にはX軸Y軸のグラフで表すところを、4軸のレーダーチャートで表したのが、藤本昇さんの『卑弥呼の鏡』(2016年)。
もう10年も前の本なので、世間からは何らかの評価が下されているのかも知れないが、ぼく個人は今でも有効な議論だと思うので、あらためて紹介したいと思う。
まずはジャブとして、弥生時代の遺跡から出土した鏡のチャートが下の「図表5A」で、ほぼ同じ形にチャートが重なることから、同じ原材料からつくられたことが分かる。
なぜか「銅鐸」も同じチャートを描いていて、素材を中国から輸入したか、あるいは青銅器を再利用したか、などが考えられるようだ。

つづいて、23枚の多種類の鏡が出土した「大和天神山古墳」(103m/4C後半)から、鋳造期の分かるものを比較したのが、下の「図表5B」。
二枚の「方格規矩鏡」は、上の「図表5A」の漢鏡と同じチャートを描くが、同じ時期(漢鏡五期)につくられたと考えられている「内行花文鏡」は異なるチャートを描いている。鋳造期が同じではないようだ。

といったかんじで四軸チャートに目が慣れてきたところで、「三角縁神獣鏡」の登場。
これらが卑弥呼の「銅鏡百枚」であれば、すべてが同じチャートになるはずだが、実際には下の「図表7」のように、似たような平行四辺形を描きはするものの、かなりズレている。
また、三角縁神獣鏡には、中国製の「舶載」と国産の「仿製」があると考えられているが、どちらも似たような平行四辺形を描くことには変わりがない。
折角なので、とホンモノの「魏鏡」である「斜縁神獣鏡」と、ホンモノの「呉鏡」である「赤烏鏡」もプロットしてみたところ、どうやら同時期の中国鏡は縦に長いチャートを描くようで、三角縁神獣鏡とは明らかな違いがある。
これらから導き出される結論は、「三角縁神獣鏡は中国鏡ではない」(=すべて国産)ということになるのだろう。

んで、このあと藤本さんは、鉛同位体比の4軸チャートを元に、出土した遺跡の年代順に鏡の「編年表」を作成し、三角縁神獣鏡が「倭製鏡」の流れの中にあることを説明していくんだが、長く細かい話になるので、ここでは割愛させていただく。
ってことで間をすっ飛ばして、じゃあ三角縁神獣鏡はどこの鉛を使って作られたのかというと、実は鉛同位体比の研究が始められた初期の頃から、専門家の間では岐阜県の「神岡鉱山」の鉛が候補に挙げられていたのだという。
それを三角縁神獣鏡と並べて4軸チャートにプロットしたのが、下の「図表18」。
現代の神岡鉱山の「円山抗」という工区の鉛は三角縁神獣鏡とほぼ一致するし、「栃洞抗」工区もけっこう重なっている。


三角縁神獣鏡の紀年銘鏡は「銅鏡百枚」か
三角縁神獣鏡が卑弥呼の「銅鏡百枚」だとされた根拠の一つには、卑弥呼が魏に使者を送った「景初三年」と、使者が帰国した「正始元年」の銘を刻んだ「紀年銘鏡」が出土している点がある。
ただ、それら4枚の「紀年銘鏡」は、なぜか畿内から遠く離れた鄙びた田舎に、卑弥呼の死から200年以上経った4C中〜5C前半につくられた、ごく小さな古墳からしか出土していないのだという。

しかも4枚のうち「正始元年」の3枚は、なぜか肝心の年号の部分に欠けているところがあって「まともに残るものが一枚もない」らしい。
「正始元年」の四字があってこそ、この鏡は卑弥呼の鏡として値打ちがあり、最高に評価されうる。ところがこの鏡、三枚が三枚とも肝心要の「正始元年」がまともに残るものが一枚もない。これは全く異常と言わざるを得ない。
蟹沢鏡 □始元年 ※□は欠字を示す
(『卑弥呼の鏡 同位体比チャートが明かす真実』2016年)
森尾鏡 □□□□
竹島鏡 正始□□
藤本さんによれば、日本で出土した「紀年銘鏡」は全部で13枚で、そのうち肝心の年号が欠けているのは4枚。その4枚のうちの3枚が、「正始元年」を刻んだ三角縁神獣鏡・・・ということで、この集中は全く不思議と言わざるを得ない。
んで、こういう時に役に立つのが4軸レーダーチャートなわけで、魏帝が卑弥呼に下賜した「銅鏡百枚」のうちの4枚だと言われている三角縁神獣鏡と、「和泉黄金塚古墳(和泉市/4C末/94m)」から出土して同じく「景初三年」の年号を刻んでいる「画文帯神獣鏡」をプロットしたのが、下の「図表23」。
まー見事にバラけていて、藤本さんは「同型鏡であろうとなかろうと、同時に同じ場所で作ったものがこんなにばらけるはずはない」と言われる。

念のため、ひとつの古墳から出土した鏡が「同時に同じ場所」で作られた場合のチャートが、下の「図表25」。兵庫県朝来市に4C後半に築造された、36mの円墳「城ノ山古墳」のものだ。

もしも「正始元年」の三角縁神獣鏡が、魏でまとめて作られたものなら、これくらいの重なりは見せて欲しいところだ。と言っても、三角縁神獣鏡はそもそもチャートの形自体、漢鏡とも魏鏡とも異なってるわけだが・・・。
というわけで「正始元年鏡」の分析からは、それらが卑弥呼の「銅鏡百枚」でないことは明らかで、邪馬台国大和説の根拠には成りえない———ということのようだ。

さて、このあと藤本さんは同じ手法で「紀年銘鏡」の銘文そのものの怪しさを追求。
さらには「伝世鏡説」「特鋳鏡説」「楽浪鏡説」「長方形鈕口説」「漢鏡説」といった従来の「卑弥呼の鏡」説に、つぎつぎと検証を加えていく・・・のだが、今Amazonをみたらこの本はまだ新品が¥1400で絶賛発売中なので、詳細は控えることにする。
藤本さんが考える「銅鏡百枚」の正体などは、本を手にとって確認してください。

三次元計測と三角縁神獣鏡
藤本さんの本で知ったことだが、銅鏡の科学的な研究としては、橿原考古学研究所で行っている「三次元形状計測」というものがあるらしい。
担当者の水野敏典さんによれば、高精度な三次元計測器を使って「同一文様鏡の量産過程で起きる微細な変形・収縮を視覚化、数値化」することで、これまで感覚的だった現象を、客観的な情報として提示可能にしたということだ。
(『古代史研究の最前線・邪馬台国』洋泉社編集部/2015年)
なんでも古墳時代の銅鏡1000面を計測し、そのうち三角縁神獣鏡は270面を調べたという・・・が、さすがにその研究過程を要約するのは容易でないので、藤本さんの議論につながる部分だけを引用することにする。
第四に、現時点で三角縁神獣鏡は、他の中国鏡だけでなく倭鏡とも異なり、技術的に孤立するようにみえ、その一方で舶載三角縁神獣鏡と仿製三角縁神獣鏡の間に、量産技術においての決定的な違いが見出せていない。
つまり、両者の区別は曖昧で、三角縁神獣鏡の製作地はすべて中国製か、あるいは日本製となる可能性をも示しており、三角縁神獣鏡とは何かを問い直す大きな鍵となると考える。
(『古代史研究の最前線・邪馬台国』)
※論文(PDF)はこちら「三次元計測を応用した銅鏡の研究 水野敏典」からダウンロードを。

三角縁神獣鏡の実際の運用
最後に、三角縁神獣鏡の実際の副葬状況について、鏡を専門にされる考古学者・辻田淳一郎さんの『鏡の古代史』(2019年)から。
まず33面もの三角縁神獣鏡が出土した「黒塚古墳」(天理市/130m/3C後半)では、三角縁神獣鏡は木棺の外側に、石槨の壁体に沿って並べられていたそうだ。
一方、木棺の内部で被葬者の頭部近くに置かれていたのは、正真正銘の中国製「画文帯神獣鏡」の一面だけで、フツーに考えれば画文帯神獣鏡こそが被葬者にとって大切な鏡だったと言えそうだ。

なお、32面の三角縁神獣鏡を含む36面以上の鏡が出土した「椿井大塚山古墳」(木津川市/3C後半/175m)では、発見直後に遺物が持ち出されてしまったため、鏡全体の正確な位置関係が不明になっていたが、辻田さんは黒塚古墳と「ほぼ同様の出土状況であったことが想定できる」と書かれている。
大量の三角縁神獣鏡は、「石槨の壁体に沿って」「立て並べられていた」ってことだろう。

滋賀県の「雪野山古墳」(4C初/70m)も未盗掘で発見され、5面の鏡が出土している。被葬者の頭部近くに置かれたのは「内行花文鏡」系の倭製鏡が一面で、三面の三角縁神獣鏡は、その外側と足元に立てかけられていたそうだ。

また、福岡県の「一貴山銚子塚古墳」(糸島市/4C後半/103m)では、棺外の両側面に三角縁神獣鏡が4面ずつ計8枚が置かれ、頭位方向には中国製の大型「内行花文鏡」と「方格規矩鏡」が一面ずつ置かれていたという。
———といった感じで、こうした出土状況から、三角縁神獣鏡には「竪穴式石槨であれば木棺の外に置く」あるいは「木棺の中に置く場合は足の方に置く」といった、葬送儀礼上の「約束事(規範)」の存在があった可能性が考えられると、辻さんは書かれている。
被葬者本人に属する大切な鏡は頭の近くに置き、三角縁神獣鏡は「辟邪(魔除け)」の役割を果たす葬式用の道具として、被葬者の周囲を固める———ってとこだろうか。
それならヤマトの手で600枚近くが大量生産され、各地にバラまかれた理由も納得がいく。
邪馬台国(17)につづく
