(11)倭人の墓には「槨」がない(有棺無槨) 〜『三國志』と『史記』の「槨」〜

光正寺古墳 邪馬台国

魏志倭人伝によれば、彼らが「倭人」と呼ぶ人たちは埋葬において、「棺」はつくるが「槨」はつくらないのだという(原文「其死、有棺無槨、封土作冢」)。

「槨」は一般的には棺を守る外箱だと考えられていて、どうやら「倭人」は棺を直接土の中に埋めて、その上に土を盛って墓としていたらしい。

「槨」のない北部九州の首長墓

平原王墓
(「平原王墓」2022年春見学)

そんな魏志倭人伝どおりの「槨」のない首長墓が作られたのが、北部九州だ。

①平原王墓

まずは、福岡県糸島市にあった「伊都国」の王墓で「平原(ひらばる)王墓」。築造年代は弥生終末期とのことで、まさに魏志倭人伝の時代の「倭人」の王墓だ。

平原王墓からは銅鏡が40面も出土していて、うち5枚は国内最大の直径46.5cm(八咫)の大型鏡。副葬品の傾向から、女性(女王)のお墓だと見られているようだ。

ただ、王墓とはいっても墳丘自体は13mx10mと小振りの方墳で、そこに4.6mx3.6mの土壙を掘って、その中央に長さ3mx幅1mの「割竹形木棺」が納められていたそうだ。

こういう埋葬方法を「木棺直葬」というらしい(坂靖)。

祇園山古墳「案内板」
(祇園山古墳「案内板」2022年春見学)

②祇園山古墳

福岡県久留米市の「祇園山古墳」にも「槨」がない。筑後国一の宮「高良大社」から山を降ったところに造営された方墳で、墳丘は23.7mx22.9mで、高さは5m(以上)。

こちらの埋葬施設は、「倭国大乱」のあと北部九州で広く採用された「箱式石棺」。祇園山古墳では墳頂部に長さ2mx幅0.9mの石棺を直接土に埋めて「大きな板石を立てて倒れないように裏から石で押さえ、粘土で固定」していたのだという。

築造年代は、以前は3世紀半ばとされて卑弥呼の墓の候補に挙げられていたが、最近の研究で4世紀代まで下げられたそうだ。

※祇園山古墳について、詳しくは「九州歴史資料館」のサイトへ

那珂八幡古墳の墳丘復元図
(出典『出典『二万余戸の実像・奴国』伊都国歴史博物館/2021年)

③那珂八幡古墳

北部九州で最も古く、3世紀後半に築造された前方後円墳が、福岡市博多区の「那珂八幡古墳」(86m)で、こちらも「槨」のないお墓だとされる。

残念ながら第一主体は神社の社殿の下にあって未調査なものの、第二主体から直葬された割竹形木棺が出土していて、石槨のないことが判明しているそうだ。

なお、同時代の近畿では、円と方の割合が2:1だったのに対し、那珂八幡古墳は円3:方2(または円8:方5)と独自の比率になっていて、「奴国」の王墓が単純に畿内の文化に準じただけではない点は、今も博多っ子たちの誇りになっている(?)のだとか。

光正寺古墳の埋葬施設復元図
(出典「宇美町観光情報」)

④光正寺古墳

福岡県宇美町の前方後円墳「光正寺古墳」(54m)には、ウミとフミの語呂合わせから(?)倭人伝の「不弥国」の王墓だという説もあるようだ。

上の図はちょっとボヤケていて見にくいが、第1〜第5の主体が仲良く埋葬されている様子。中心の第一主体は6mx4mの墓壙に「箱式石棺」を置き、周囲を川原石で囲んでいる。

宇美町の公式サイトによれば、築造年代は那珂八幡古墳につづく3世紀後半で、墳丘の規格も那珂八幡古墳と同じだという。

県別 弥生時代後期箱式石棺の出土数
(出典『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』安本美典/2019年)

「槨」のある本州の首長墓

上の「図17」は、邪馬台国「九州説」の巨人・安本美典さんが作成されたもので、弥生時代の「箱式石棺」の出土状況を表すグラフ。魏志倭人伝が「棺はあるが槨はない」と書いた「倭人」の葬送文化が、北部九州から山口県、広島県にかけて広がっていたことが理解できる。

ところが、箱式石棺の東限である岡山県や島根県からは、「槨」のある首長墓が見つかっていたりする。

楯築墳丘墓の木棺木槨構造復元図
(出典『吉備の弥生大首長墓・楯築弥生墳丘墓』福本明/2007年)

①楯築墳丘墓(吉備)

まずは「倭国大乱」の終わり頃(AD180年頃)に築造されたという、吉備の王墓「楯築(たてつき)墳丘墓」(倉敷市)。全長80mは弥生王墓としては日本最大。

岡山の考古学者・福本明さんによれば、楯築墳丘墓では9mx6mx深さ2.1mの墓壙のなかに、3.5mx1.5mの「木槨」が組まれ、そのなかに2mx0.7mの木棺が納められていたそうだ(数字は分かりやすく簡略化)

上の「図32」がその「木槨木棺構造」の想定図。

西谷3号墓の主槨の復元模式図
(出典『出雲王と四隅突出型墳丘墓・西谷墳墓群』渡邉貞幸/2018年)

②西谷3号墓(出雲)

楯築と同じ頃か、やや遅い2世紀後葉の築造とされる、出雲の王墓「西谷3号墓」にも「槨」がある。墳丘の本体は40mx30mx高さ4.5mで、突出部を含めると52mx42mと、こちらも堂々たる弥生の王墓だ。

考古学者の渡辺貞幸さんによると、出雲王が眠る第4主体は6.3mx4.5mx深さ1.4mの土壙のなかに、2.6mx1.2mの木槨を組んで、2.3mx0.8mの木棺を納めていたそうだ。槨と棺は、5cmないし8cmの板材で作られていたという。

萩原1号墓、2号墓の木槨構造復元図
(出典『弥生興亡 女王・卑弥呼の登場』石野博信/2010年)

③萩原1号墓(阿波)

3世紀前半の徳島県鳴門市に造営された「萩原2号墓」「萩原1号墓」は長い突出部をもつ円丘墓で、日本史上もっとも古い「前方後円形」のお墓だという説がある。

埋葬施設は、円丘の中央に「長方形の石積みの低い壁と木組みの壁(積石木槨)に囲まれた中に、箱形木棺が安置されていた」と推定されていて、積石の高さは80cmあったそうだ。

※こちらも詳しくは鳴門市の公式サイトまで

神郷亀塚古墳復元図
(出典:滋賀県教育委員会のPDF「学習シートNo.075神郷亀塚古墳」)

④神郷亀塚古墳(近江)

滋賀県東近江市に、3世紀前半に築造された前方後方墳「神郷亀塚古墳」(36m)からは、2基の「木槨墓」が出土している。

ホケノ山古墳の石囲木槨復元図
(出典『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』石野博信/2008年)

⑤ホケノ山古墳(大和)

奈良県桜井市の「ホケノ山古墳」(80m)では、徳島県の「萩原1号墓」と類似した「石積槨木棺墓」が採用されている。土壙の大きさは10mx6mx1.5m、石積槨が7mx2.7mx1.1m、そのなかに5mの割竹形木棺が置かれていたという。

———ということで、吉備、出雲、阿波、近江そして大和でつくられた、「槨」のある首長墓をザッと紹介してみた。

魏志倭人伝には「倭人」は「槨」はつくらないと書いてあるんだから、常識的に考えれば、吉備、出雲、阿波、近江、大和(=倭種の地)には魏の使者は踏み入れておらず、彼らのいう「倭国」や「倭人」は「有棺無槨」の北部九州を指す———ということになりそうだが・・・。

教室の風景
(写真AC)

古代中国の「槨」は学校の教室より大きい

ところが専門家の間では(ぼくはニワカの一般人なので全く知らなかったが)、ぼくら現代の日本人が考える「槨」と古代中国の「槨」はまったくの別物で、古代中国の「槨」は学校の教室より大きいものだ、という議論があったようだ。

「邪馬台国の会」の「第314回講演会(2012年)」のページから転載させていただくと、以下。


石野博信氏『大和・纏向遺跡』(学生社、2005年刊)に、つぎのような座談会記録が載っている。出席者は石野氏のほか、寺沢薫、橋本輝彦、萩原儀征の三氏である。やや長い引用になるが、紹介してみたい。

寺沢 卑弥呼の墓は『棺ありて槨なし』で考えるでしょう。

石野 そうそう。だから、ホケノ山古墳の石囲い木槨が新聞に載ったときに問い合わせがあった。『魏志倭人伝』では邪馬台国の葬法は『「棺ありて槨なし」だから、邪馬台国は大和じゃないということがわかったのですか』という質問でした。

寺沢 あの『棺ありて槨なし』の「槨なし」というのは、中国人的な目で見た槨がないということですね。だから、卑弥呼が大和にいたという前提で物を言えば、逆にホケノ山のものは「槨」じゃないのでしょうね(笑)。

石野 中国の槨は学校の教室かそれ以上の大きな部屋だからね。

寺沢 ぼくは日本のこの時期の木槨というのは土留めだと思っているから。
橋本 『槨』という用語をわれわれが使ったから、一般の人が誤解しちゃったのかもしれないですね。

石野 竪穴式石槨なんて言うのも恥ずかしいよ。むしろ今の日本語だったら石室、木室でいいだろうと思う。

寺沢 でも中国でいう室は、あとで追葬可能な機能をもった構造の大きさですから、どちらかといえばやっぱりあれは槨なんでしょうね。
萩原 二重木棺みたいなものですね。
橋本 中国人が見るとちゃんちゃらおかしかった、ということなのでしょうけれどもね。

もちろん、その件については「邪馬台国の会」でもしっかり反論されているわけだが、そこまで転載すると怒られそうなので、ここから下はぼくの個人的な感想を。

『正史 三國志』全8巻セット

陳寿『三國志』の「槨」

「倭人」は「有棺無槨」だと書いたのは陳寿なんだから、まずは陳寿本人に中国の「槨」について聞くのが順序というものだろう。

それで『三國志』全60巻を検索してみると、中国の「槨」でヒットしたのは2件で、ひとつは魏の文帝(曹丕)が自分の寿陵を「薄葬」にするように命じているところ。

そもそも葬というのは蔵(かくす)であり、人に見られないのを欲する。骨には痛み痒みといった知覚はなく、塚穴は精神を住まわすすみかではないのだ。

礼で墓における祭祀を行なわないのは、生者と死者が犯しあわないことを願うからだ。棺槨(内棺と外棺)は骨を朽ちさせ、衣会(衣服としとね)は肉を朽ちさせるだけのもので充分と考える。

したがってわたしは空虚にして生活の場でない地を造営して、代が変わった後にはその場所をわからなくさせたいと考える。

(三國志卷二/魏書二/文帝紀第二)

もうひとつが、悪名高い董卓の墓に雨水が流れ込んで「棺槨」が浮き上がってしまうシーン。

李催らは兵を放って、長安の人々を老若を問わずひっとらえ、彼らを全部殺戮し、死体があたりに散乱した。董卓を殺した者を処刑し、王允の屍を市場にさらした。

董卓を郿に埋葬すると、暴風雨が董卓の墓を震動させ、水が墓の内部に流れこんで、その柩を浮きあがらせた(※原文「水流入藏、漂其棺槨」)。

(三國志卷六/魏書六/董二袁劉傳第六)

なお、現代語訳の引用はすべて「ちくま学芸文庫」より。

『史記』全8巻セット

司馬遷『史記』の「槨」

『三國志』の2例だけだと説得力に乏しい気がするので、陳寿も読んだであろう『史記』全130巻からも、司馬遷が言及した中国の「槨」について列挙してみる。

まずは誰でも知ってる偉人「孔子」の言葉のなかの「槨」。

顏無繇(がんむよう)は、字を路といった。路は顔回の父である。この父子は、かつて、それぞれ時をちがえて、孔子に師事した。顔回が早く死ぬと、顔路は貧しかったので、孔子の車を申し請け、銭にかえて葬ろうとした。

孔子は言った。
「賢、不賢の相違はあるが、それぞれ、子を思う親心に変りはない。わが子鯉(り)の死んだとき、棺はあったが槨(棺の外箱)はなかった。私は車を売って、徒歩してまでを用意しようとはしなかった。私は大夫の末席に列なる身分として、徒歩では不都合だったからである。」

(仲尼弟子列傳第七)

つづいて前漢の第7代皇帝・武帝に仕えた「張湯」という人物が死んだときの「槨」。

湯が死んだとき、その遺産は五百金にすぎなかった。それはみな俸禄や賜物であり、他に財産とてなかった。

兄弟や子供たちが湯を鄭重に葬ろうとすると、湯の母が、「湯は天子の大臣となりながら、けがらわしい悪評をこうむって死んだ。どうして鄭重に葬れよう」と言い、遺骸を牛車に載せ、棺だけで槨(棺の外箱)がなかった

天子はこれを聞いて、「この母でなければ、この子を生むことはできなかったろう」と言った。そこで一切の事情を取り調べ、長史二人を誅殺すると、丞相の青翟(せいてき)は自殺した。田信は釈放された。主上は湯を惜しんで、その子安世を引き立てた。

(酷吏列傳第六十二)

それから、楚の荘王が愛馬を「大夫」の礼遇で葬ろうとしたとき、それを諌めた「優孟」が語った「槨」。

「どういうふうにするのか。」

「何とぞ彫刻した玉を飾って棺とし、いろどりある梓の木で槨をつくり、楩(楠の一種)・楓・予章などの名木を外側に重ねて棺の飾りとし、兵隊を徴用して墓穴を掘り、老人児童を使って土を背負わせ、斉・趙の二国の使者が葬儀の前方に参列し、韓・魏二国の使者が後方に護衛し、太牢(牛・豚・羊の最上料理)を供えて祭り、所領として一万戸の邑をつけたらよろしいとぞんじます。諸侯がこのことを聞けば、誰でもみな大王が人を賤しみ馬を貴ぶことを知りましょう。」

「わしの考えちがいは、なんとこれほどであったか。どうしたらよいだろう。」

「どうか分相応に、畜生として葬りたいものです。かまどを槨とし、銅の釜を棺とし、細かく刻んで薑や棗で和え、木蘭を下に敷き、五穀を供えて祭り、燃える火の光を着せて、これを人の胸や腸に葬りたいものでございます。」

(滑稽列傳第六十六)

お次は古代中国人らしいスケールの大きな「たとえ話」で、前漢5代皇帝・文帝に仕えた「張釈之」の発言のなかの「槨」。

主上は群臣を顧み、「ああ、北山の美石(長安の北の山から出る美石)で石槨をつくり、紵・絮を細かくして間に詰め、上から漆で固めるなら、中のものはとても取り出すことはできまい」と言うと、左右の者はみな、「ごもっとも」と言った。

すると、釈之が進み出て言った。「その中に人の欲しがるものがあれば、たとい南山(終南山。陝西)をとし、これを鉄で包み固めても、やはり隙はありましょう。その中に人の欲しがるものがなければ、石槨がなくてもまた何を盗まれる心配がありましょう。」
帝はなるほどと言い、のち釈之を拝して廷尉に任じた。

(張釋之馮唐列傳第四十二)

最後は、始皇帝のお墓の「槨」について、二本。ただ一本目は現代語訳の先生方にもよく分からない文だったようだ。

当時、宮刑や徒刑の囚人が七十万人あったが、これらを分けて阿房宮や麗山の宮を作らせたのであった。北山の石を切り出し(※原文「發北山石槨」)、蜀・剤の材を運ぶなど、いろいろの資材がみな集まった。作られた宮殿は関中に合計三百、関外(函谷関外)には四百あった。

始皇が初め位に即いた時、陵をつくるため酈山の麓に穴を掘り、天下をあわせるに及び、天下の徒罪の者七十余万人を労役し、三泉を掘らせたが、銅をもって下をふさぎ、槨(棺を入れる外棺)を入れた。冢(はか)の中に宮觀や百官の座席をつくり、珍稀の物を宮中からうつして充満し、工匠に機弩矢を作らせ、地面を掘って近づく者があれば、ひとりでに発射するようにした。

(秦始皇本紀第六)

地下式王墓の「槨」と「墓室」

『古墳の古代史——東アジアのなかの日本』森下章司/2016年

以上、『三國志』と『史記』で「槨」を検索して、ヒットした文章をダラダラと引用してみた。率直な感想としては、ぼくには古代中国人の「槨」が「教室かそれ以上の大きな部屋」とは思えなくて、困ってしまったのだった。

それで本棚を漁ってみたところ、買ったものの未読だった『古墳の古代史——東アジアのなかの日本』(森下章司/2016年)という本が、何故か目にとまった。開いてみて正解、森下さんによれば、古代中国の王墓は「地下式」で始まったんだそうだ。

東アジアにおいていちはやく王墓を発達させたのは古代中国だ。今のところもっとも古い王墓は、殷代後期、河南省安陽市殷墟遺跡でみつかっている。

地下式であることが特徴で、地中深くにむけて大型の穴を掘り、中央にを組んでつくられた槨を設け、その中の棺に亡骸を納める

四方向に墓道が伸びる。青銅器など多数の品物が副葬され、また王とともに人を犠牲として葬った「殉葬」が多いことも特色だ。

(『古墳の古代史——東アジアのなかの日本』森下章司/2016年)
中山王墓の墳丘と建築
(出典『古墳の古代史——東アジアのなかの日本』)

具体的なイメージは上の「図3−2」で、こちらは紀元前4世紀末の「中山国(ちゅうざんこく)」の陵墓。「埋葬施設は地下に穴を掘って木槨を設けたもの」とのことで、図には地下を掘った大きな穴について「墓室」と書いてある。

なるほど、この「墓室」が「教室かそれ以上の大きな部屋」だというのなら、ぼくも素直に納得できる。

(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

それとこちらはwikiからの転載なので、信憑性を疑う人もいるかも知れないが、1970年代に発掘された「馬王堆漢墓」なる前漢の上級国民の「棺槨」の模式図。

見ての通り、棺を井桁状に組み合わせた木板で覆っていて、ぼくには弥生後期の出雲や吉備の「木槨」と同じ目的の設備のように見える。

果たして「教室かそれ以上の大きな部屋」とは「槨」なのか、それとも「墓室」なのか。

平原王墓に「槨」はあるのか

2・3世紀木槨墓(類似)の分布
(出典『弥生興亡 女王・卑弥呼の登場』石野博信/2010年)

ここからは余談。

中国の「槨」は、教室以上の大きさだと言われる石野博信さんの本をめくっていたら、「2・3世紀木槨墓(類似)の分布」という図が載っていて、そこでは伊都国の「平原王墓」は木槨墓の一つとされていた。

これはびっくり!それが正しいなら倭人伝の「有棺無槨」は北部九州の「倭人」に多い墓制である———という「九州説」の根拠のひとつが消えてしまうことになる。

だがいかんせん、石野さんの本には「図83」だけが貼ってあって解説がない。それでやむなくネットでググってみたところ、考古学者・設楽博巳氏が2009年に著した『独立棟持柱建物と祖霊祭祀』という論文がヒットした。

ただ、設楽氏の論文を読み進めてみると、75ページでは「平原遺跡の木棺を埋葬主体とする2段掘りの土坑も,棺外に鏡を大量に納めている点は木槨墓に通じるところがある」と「槨」そのものがあるとは書いてないのに、76ページでは「平原遺跡1号墓の木槨墓に類する埋葬主体部や副葬品が」と「類する」にまで発展し、83ページではついに「平原遺跡1号墓や西谷3号墓などの木槨墓,あるいはそれに類する施設と副葬品をもった首長墓」と「槨」があったことになっている。

これは正直、じわじわと言いくるめられているような印象があって、スッキリしない。

それでもう一度、石野さんの本に戻ってみれば、キャプションには「2・3世紀木槨墓(類似)の分布」と書いてあって、図83には「類似」が含まれていることが分かる。

・・・なるほど、その「類似」が平原王墓を指しているというわけか。

でもぼくら初学者が図83だけ見てしまうと、九州にも「槨」のある弥生王墓があった———と刷り込まれてしまう可能性もありそうで、結局のところ、やっぱり何だかスッキリとしないのだった。

ちなみに石野さんも設楽氏も、邪馬台国「大和説」の先生方だ。

邪馬台国(12)につづく

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