以前に”こちら”の記事で、橿原考古学研究所に勤務され、1971年から「纒向遺跡」の発掘に携わられた関川尚功さんの著書『考古学から見た邪馬台国大和説』(2020年)を紹介した。
今回は、関川さんとタッグを組んで纒向遺跡の調査にあたり、1976年に共著『纒向』を世に出した、石野博信さんの本『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』(2008年)を紹介したい。
ただ、関川さんが”纒向=邪馬台国”を完全否定しているのに対し、石野さんはタイトル通りに邪馬台国「大和説」の論者だ。

石野さんの面白いところは、たしかに「大和説」を支持していながら、どことなく「大和説」への懐疑も匂わせる点だ。纒向遺跡のスペック等は、こちらやコチラに書いたので、今回は「大和説」の石野さんが纒向遺跡に感じているっぽい「謎」のようなものを、5点取り上げてみる。
①なぜ狗奴国(東海)の土器が多いのか

石野さんによれば、邪馬台国「大和説」の立場をとると、邪馬台国と戦争をしていたと倭人伝が書く「狗奴国」は、尾張・伊勢の東海地方にあったと考えるのが有力なんだそうだ(九州説だと熊本平野)。
ところが上の「図13」から分かるように、纒向遺跡から出土した「外来系土器」の半分が、敵対していたはずの東海地方から搬入されたものだという。これは説明が難しそうだ。
もしヤマトが邪馬台国であったとすると、倭国と戦争をした狗奴国の有力候補はオワリ、イセの東海西部地域だといわれている。その地域の土器が大量に3世紀の前半から後半にかけて入ってきているということをどう考えたらいいのか、という新たな課題がおこってくる。
もし邪馬台国が北部九州であれば、邪馬台国とはまったく無関係に、ヤマトとオワリ、イセとの間に強い交流があったことを考えることになる。
(『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』石野博信/2008年)

②なぜ纒向遺跡とカワチ、セッツは連動していないのか
石野さんによると「ヤマト系」の土器には、弥生以来の「厚甕」と、庄内式といわれる「薄甕」の二種類があるという。
このうち「厚甕」は、神奈川県の「中里遺跡」から摂津製の土器が集中的に出土していて、その摂津では「基本的に庄内式土器をもたない」ことから、畿内から東国に進出したのはセッツの人々である可能性が高いのだという。
一方「薄甕」は、北部九州で圧倒的に「庄内カワチ型」が出土しているらしい。
となると東にはセッツが、西にはカワチがと自由に進出していたことになって、3世紀の纒向に、周辺国から共立されて強権を与えられていた「女王国」が本当にあったのか、そもそも30カ国からなる「倭国連合」が畿内にあったのか、「新たな課題が浮かび上がってくる」とのことだ。
ヤマトには大型古墳が集中しているということを根拠に、庄内式段階の3世紀の政権中枢地であるという前提で考えれば、東国へはセッツの人びと、西国へはカワチの人びとを派遣したと言えなくもない。しかし、ヤマトでは、いまだ3世紀段階の宮殿はみつかっていないというのが現状である。
(『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』)
(※石野さんによれば、纒向遺跡の「主要建物D」は275年前後のもので、卑弥呼の宮殿ではないそうだ)

③なぜ纒向遺跡で「銅鐸」が破壊されたのか
纒向遺跡(辻地区)では、2世紀末から3世紀前半にかけて「弥生のカミまつりのシンボルである銅鐸が、ぞくぞくと破壊されるという異常事態が発生」していたという。
この理由について古くは、天変地異による農作物の不作などを解決できない「弥生のカミ(銅鐸)」が民心を失い、「新しいカミ(鏡)」が迎えられた———と説明されてきたそうだが、上の「図26」のように、卑弥呼の時代の纒向遺跡では、集落出土の鏡はない(ホケノ山古墳に副葬された3面のみ)。
それで石野さんが考える「新しいカミ」が、卑弥呼が仕えたという「鬼道」だ。
弥生のカミを象徴する鋼鐸や銅矛に祈っても飢餓は解消しない。では悪いのは王だということで、弥生時代のカミは否定され、新しいカミに乗り換える……ということが起こったのではないか。それが卑弥呼の鬼道であろうと、私は解釈しています。
(『弥生興亡 女王・卑弥呼の登場』石野博信/2010年)

ただ、果たして卑弥呼の「鬼道」が不作や飢饉を解決する「新しいカミ」かというと、個人的には疑問もある。
というのも、倭人伝も載る『三國志』には、「鬼道」の使い手として「張魯(ちょうろ)」という新興宗教の教祖(?)が出てくるんだが、この張魯が「五斗米道」で行った教法は、あんまり「カミまつり」っぽくないのだ。
張魯は、病人を静かな室に入れて過ちを反省して悔い改めさせたのち、その氏名と罪に服す意味とを三通直筆でかかせ、一通は山上において天の神に、 一通は地に埋めて地の神に、残りの一通は水中に沈めて水の神に、それぞれ献げさせたあとで符水をのませ、祈祷して病気を治した。
(『道教の神々』窪徳忠/1986年)

陳寿は「鬼道」を使った人として、卑弥呼と張魯を挙げてるんだから、その中身には通じるものがあったんだろう。倭人伝には卑弥呼に「直接会った人は極めて少ない」と書いてあるわけで、卑弥呼も張魯のように近隣の上級国民と個別に会い、「鬼道」を施したんじゃないだろうか。

そんな「鬼道」が、銅鐸のカミまつりに代わって民心を支えたかというと、ぼくにはチト方向性が違うような気がしてならない。
それで思い出したのが、かつて畿内に先立って青銅器祭祀を捨てた「吉備」や「出雲」の実例だ。そこでは巨大な「王墓」の墳丘上で行われる祭祀が、青銅器のマツリに取って代わった歴史がある。
纒向も遅れ馳せながら、吉備や出雲と同じ道を辿ったんじゃないだろうか。

④なぜ3世紀後葉に一斉に巨大古墳がつくられたのか
3世紀の纒向遺跡では、6基の古墳からなる「纒向古墳群」が造営されている。まずは石野さんによる、それらの築造年代を。
◯纒向石塚古墳(93m)AD210年
◯ホケノ山古墳(80m)3世紀なかば
◯東田大塚古墳(120m)3世紀後半〜末
◯纒向勝山古墳(120m)3世紀後半〜末
◯纒向矢塚古墳(96m)3世紀後半〜末
◯箸墓古墳(280m)AD280〜290年

邪馬台国「大和説」の根拠の一つに、ヤマト王権のシンボル「前方後円墳」が誕生したのが奈良盆地だから———というものがある。邪馬台国は中国皇帝から「倭王」と認められた日本の中心だから、地理的にも日本の中心地である畿内にあったはずだ———ってかんじだろうか。
まだ前方後円墳の規格が決まってなくて、円と方の比率や形なのがアバウトだった段階を「纒向型前方後円墳」というそうだが、石野さんによれば、それが日本各地に出現したのは2世紀末だという。
AD210年に纒向に築造されたという「石塚古墳」などが、そのトップバッターだ。

・・・が、実は「纒向型」を提唱した寺沢薫氏のお考えでは、「石塚」の築造は3世紀末だという。石野さんとは80年ほどズレることになるが、それで問題になるのが、寺沢説をとれば「纒向型」の発祥地が奈良盆地ではなくなってしまうこと。
上の「図29」でいえば、徳島の「萩原1号墓」や兵庫の「山戸4号」のほうが、奈良盆地より古い段階でつくられた「纒向型」ってことになってしまうわけで、それじゃ、纒向の邪馬台国を中心にした「倭国連合」が採用した墳形だという絵が崩れてしまう。
なので「大和説」からすれば、「石塚」は卑弥呼の時代の纒向に存在していてくれなくては困るわけだ。

あ、注意点がひとつ。
上の「図29」は卑弥呼の時代の分布ではなく、西暦300年ごろの状況を表していて、卑弥呼の時代に存在していたのは「石塚」と「萩原1号(徳島)」「宮山(岡山)」「山戸4号(兵庫)」「椛島山(佐賀)」それとギリギリ「神門4号(千葉)」あたりか。かなり飛び飛びで、そこから何らかの「連合」を思い浮かべるのは困難かと思われる。
「図29」のように各地に広く分布したのは、卑弥呼が死んで50年ほど経ってからの話のようだ。

———と、前置きはこんなものとして纒向遺跡の「謎」に戻ると、石野さんによれば、AD275年ごろから「東田大塚」「勝山」「矢塚」そして「箸墓」と100mを超える前方後円墳が一斉に築造されたことは、王族クラスの人々が「きわめて短期間、10年ぐらいのうちにいっせいに死亡した」ことになって、「きわめて異常な現象」を考えざるを得なくなるという。
それで石野さんが提案する考え方は「新王権による旧王権への祭祀」というもの。「東田大塚」「勝山」」「矢塚」「箸墓」の被葬者は、死んですぐに埋葬されたわけではないということのようだ。
わたしは纏向4類新の段階、つまり3世紀第4四半期の段階に、いっせいに祖先祭祀がおこなわれたと考えている。それをおこなった主宰者は、それまでつづいた3世紀段階の全長90メートルクラスの円丘墓から脱皮し、巨大な全長280メートルの箸中山古墳を築造した一族であろう。
それは、先行する王権に対する祭祀であり、新王権による旧王権への祭祀と考えてはどうだろうか。
(『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』)
具体的には280mの「箸墓古墳」が「壱与(台与)」のお墓で、イヨ(トヨ)の邪馬台国を継承してAD300年頃にヤマトを建国した「崇神天皇」が、旧政権の要人をまとめて祀ったのが「纒向古墳群」ということになるらしい。
その段階が纏向5類の段階であり、崇神天皇が即位したであろう纏向4類末、同5類初のときに、先行する王権に対する祭祀がいっせいにおこなわれたのではないだろうか。
それは、邪馬台国がヤマトにあったとすれば、倭国の都を治めていた二人の女王のあと、ハツクニシラススメラミコトといわれた男王が起ち、新たな政権を担当する王による、先行する王権への祭祀と考えることができるであろう。
(『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』)
もちろん、石野さんの説明は石野さんの学説の中では整合性がとれていて、拝聴するしかない。疑問点といえば、肝心の卑弥呼のお墓への言及がないことだ。
AD210年という「石塚」では古すぎるし(これ誰の墓?)、ホケノ山古墳は石野さんによれば、徳島の「萩原1号墓」と埋葬施設が似ているので「阿波か讃岐の人物がふさわしい」と、これまた当てはまらない。

んじゃ石野さんのお考えはというと、卑弥呼のお墓は「墳丘では中山大塚古墳、埋葬施設ではホケノ山古墳、副葬品では福岡県糸島市の平原方形墓」が考えられるという。つまり、纒向にすべてを満たすような候補はない。
※「中山大塚古墳」は箸墓古墳のあとの3C末につくられた全長130mの前方後円墳で、後円部の大きさが程よいそうだ。
「平原方形墓」は40面もの銅鏡が出土した「伊都国」の女王墓で、銅鏡のうち5面は日本最大の直径46.5cm(八咫)。ただし墳丘自体は14mx10mと小型の方形周溝墓。弥生終末期の築造。
「ホケノ山古墳」の埋葬施設については、阿波の人か卑弥呼か、どっちなんじゃいと良く分からず。
ちなみに魏志倭人伝の記述から、石野さんがイメージする卑弥呼のお墓が下の「図6」で、「直径120〜130mの溝に囲まれた真ん中に径40〜50mの円丘墓、或いは方丘墓」とのこと。そもそも前方後円墳から探すのは間違いだろうという話だ。

⑤なぜ倭人伝に「巨大古墳を築く勢力」が載らないのか
最後は邪馬台国「九州説」への疑問。
(略)したがって、伊都国、奴国から見た東国、ヤマト・カワチの情勢が、当然、倭国の実態を知ることを目的としてやって来た魏の使節団の情報網のなかに入らなかったはずはなかったのである。
倭国の都・邪馬台国が北部九州にあったという前提で考えると、それとは無関係な、もっとも巨大な墳墓をつくる地域政権がヤマト・カワチに存在した、ということになる。
それが『魏志』倭人伝にまったく記されなかったというようなことが、ありうるだろうか。
(『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』)
ぼくは「九州説」を支持しているので反論めいたことをしてみると、まず「九州説」では、魏使が「倭国の実態を知ることを目的」にしていたとは考えない。
魏使の目的は「冊封国の選定」つまり従順な子分を探すことなので、北部九州にそれが見つかれば他の地域はどうでもいい。100mのお墓を作ろうが、東夷は東夷(野蛮人は野蛮人)でしかない。
それに、魏使が往来していた時代、奈良盆地の「巨大な墳墓」はまだ96mの「石塚」しか存在していない。吉備には80mの「楯築墳丘墓」が存在していたが、これもまた魏志倭人伝には載っていない。

それと石野さんは、博多湾沿岸の「西新町遺跡」にヤマト・カワチ系の土器がたくさん出土している点から、北部九州と畿内のつながりを強調されるが、現地にある「福岡市博物館」や「九州歴史資料館」のサイトによれば、西新町遺跡に畿内の土器が増えたのは4世紀に入ってから(AD300年頃)だと書いてある。
石野さんご自身も「ツクシの鍛冶技術が3世紀末にヤマトに入っている」とか、北部九州から畿内の土器は出土するが「ヤマト・カワチからのツクシ系土器(※の出土)は少量である」とお書きになっているとおり、卑弥呼の時代の畿内と北部九州には大した繋がりはなくて、それは石野さんが「新王朝」といわれるAD300年前後に成立した「男王」の政権からのこと———になるんじゃないだろうか。
ちなみに石野さんは、朝鮮との関係もこうお書きになっている。
ヤマト(大和)の土器は、博多湾岸の西新町遺跡(福岡県早良区)や伊都国の三雲遺跡(糸島市)には登場するが、半島には渡っていない。
ヤマトに邪馬台国があれば、半島経由で魏の都と通交したのであり、その痕跡がないのは邪馬台国はヤマトではなく、ツクシなどにあったか、ヤマト派遣の一大率がツクシの人物を派遣したかのいずれかであろう。
(出典『邪馬台国時代のクニグニ』2015年)
というかんじで、卑弥呼の時代の纒向に中国人は訪れてないし、纒向から伊都国/奴国に人々が往来していたこともない。だから纒向(や吉備)のことは、魏志倭人伝に書かれていない———というのが、この謎?についての個人的な感想になる。

今日は大和説です(心情的大和説)
石野さんと一緒に纒向遺跡の発掘を担当された関川尚功さんは、邪馬台国の所在地を考える上で最も重要なことは「中国大陸との交流関係の有無」で、それが希薄な纒向遺跡は邪馬台国の候補地とはいえない———と書かれている。
しかし世間では、それとはまったく別の論点で、邪馬台国の所在地が語られているようだ。
江戸時代以来、300数十年にわたる論争が続いてきたが、最近の発掘調査で、大和説を裏付ける有力な″証拠”が近畿や瀬戸内東部で次々に現れている。邪馬台国が存在した時期(三世紀前半~半ば)の前方後円墳だ。
その中心は、この時期最大のホケノ山古墳(奈良県桜井市、全長80メートル)一帯。この時代、大和とこれらの地域の間に強い結びつきがあったことが明らかになりつつあり、論争は新たな局面を迎えている。
(『弥生興亡 女王・卑弥呼の登場』石野博信/2010年)
(読売新聞・関口和哉)
だが、引用で関口和哉記者がいう”証拠”は、近畿や瀬戸内海東部に相互の繋がりをもったクニグニがあったことを表しているだけで、その一つが魏志倭人伝の邪馬台国である”証拠”にはなっていない。
邪馬台国との繋がりは、倭人伝にでてくる魏や伊都国や奴国との間の方が重要なのに、卑弥呼の時代の纒向遺跡からは、中国、朝鮮、北部九州の遺物がほとんど出てきていない。
なので、纒向遺跡に魏志倭人伝の世界を再現することは難しい・・・と思うんだが、関口和哉記者の記事はこう結ばれる。
だが、この時期の九州には広域的な宗教や政治の中心だったことを示す遺跡は見つかっていない。
大和古墳群の調査にかかわってきた河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は言い切る。
(『弥生興亡 女王・卑弥呼の登場』)
「発掘調査の結果はすべて、 一つの結論を示している。考古学からは、邪馬台国は大和にあるとすでに決まっている。」
(読売新聞・関口和哉)「読売新聞」2006年8月22日記事より
いやぁ、ここまで高圧的な「決めつけ」は初めてお目にかかるが、安心していいのは、我らが石野さんはもっとおおらかに「大和説」を主張していることだ。
石野 全長80メートルクラスの古墳でこれだけの物を持っていますから、おおやまと古墳群の100や120メートルクラスの古墳は豊かな副葬品を持っているのでしょう。
(『弥生興亡 女王・卑弥呼の登場』)
だから邪馬台国が九州にあったとしても、それとは無関係に大和には同時期に列島最大の墓を作る一族がいたというのは事実です。
高橋 だけど、邪馬台国は畿内―大和である、とお考えなのでしょう。
石野 そうですね、心情としては大和説ですが、いつも講演では”今日は大和説です”と言っています。(笑)
高橋 邪馬台国論争というのは、結局どこから攻めてみても、結論は出ないと言うことですね。
だから石野さんの本には、2〜3世紀半ばまでの「鉄器」の出土数が、北部九州4002点に対して、近畿がわずか308点、大和からだと50点にも満たない・・・みたいな「大和説」にはヒジョーに不利になるようなFACTも、いたって平然と書かれていたりする。
邪馬台国(13)につづく




