(15)卑弥弓呼の「狗奴国」は熊本か、東海か

熊本空港 邪馬台国

魏志倭人伝の「狗奴国」

魏志倭人伝で「狗奴国」が言及されているのは2か所。

まず「女王国」から「北」については戸数や距離が把握できているが、それ以外(南、東、西)の詳細は不明だ———と断ったうえで、女王国に属する21カ国の国名だけが列挙された後の箇所。

(前略)これで女王の支配する領域が終わるのである。

そのには狗奴国がある。男を王としている。その官には、狗古智卑狗がおり、女王には従属していない。

(『倭国伝』講談社学術文庫)

それと、倭人伝の一番最後、倭の女王・卑弥呼が狗奴国との戦況を帯方郡に報告した前後の箇所。

正始8年(247年)、帯方郡の太守、王頎が着任した。

倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と以前から仲が悪かったので、倭の載斯・烏越らを帯方郡に遣わし、お互いに攻めあっている様子をのべさせた。

帯方郡では、国境守備の属官の張政らを遣わし、彼に託して詔書と黄色い垂れ旗を持ってゆかせて、難升米に与え、おふれを書いて卑弥呼を諭した。

使者の張政らが到着した時は、卑弥呼はもう死んでいて、大規模に、直径百余歩の塚を作っていた。殉葬した男女の奴隷は、百余人であった。

かわって男王を立てたが、国中それに従わず、殺しあいをして、当時千余人が死んだ。そこでまた、卑弥呼の一族の娘で台与という13歳の少女を立てて王とすると、国がようやく治まった。

そこで張政らはおふれを出して台与を諭し、台与は倭の大夫、率善中郎将掖邪狗ら20人を遣わして、張政らを送って行かせた。(以下略)

(『倭国伝』講談社学術文庫)
「熊本城」2019年春見学
(「熊本城」2019年春見学)

邪馬台国大和説(畿内説)の最大の弱点は、倭人伝が女王国の「北」にあるという伊都国、すなわち今の糸島市/福岡市から邪馬台国までの方角「南」を、「東」にねじ曲げないと成立しないという点だと思う。

そこにさらに追い打ちをかけるのが「狗奴国」の位置で、倭人伝でそれが邪馬台国の「南」にあることを確認しているのは、それまでの名もなき「魏使」ではなく、帯方郡の武官である「張政」だという点だ。

実際に邪馬台国を訪問して「台与」を諭している軍人が、その職業から考えて「南」を「東」に間違えるとはチト考えにくい。

常識的に考えれば、陳寿はこのときの張政の報告書にも目を通しているだろうから、伊都国ー邪馬台国ー狗奴国が、南北のライン上に並んでいることをイメージしながら執筆していた———と考えたほうが、話はシンプルかつストレートなような印象がある。

『狗奴国浪漫』2014年に伊都国歴史博物館が刊行した図録

邪馬台国時代の熊本

今の糸島市/福岡市の「南」にあり、少なくとも投馬国の5万戸、邪馬台国の7万戸を収容できる大きな平野といえば、まず候補に上がるのは「筑紫平野」だろう。

さらにその「南」に狗奴国はあるというんだから、菊池平野と合わせれば九州で第2位となる「熊本平野」こそ、狗奴国の所在地の第一候補に挙げられるんじゃないだろうか。

そんな熊本平野にあった弥生後期の遺跡を示したマップが、伊都国歴史博物館が2014年に刊行した図録『狗奴国浪漫』に載っていたので、転載してみる(熊本南部はカットした)

弥生時代後期の熊本の遺跡マップ

まず注目されるのは、筑紫平野とは山を隔てた山鹿市の「方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡」で、上の地図では「3番」に位置する。

今のところ「方保田東原」の遺跡範囲は35haとされ、そのうち5%の調査だけで400軒もの住居跡が見つかっているそうだ。35haというと、40km北西にある「吉野ヶ里遺跡」の環壕内が40haなので、それに匹敵する面積になる。

「方保田東原」は熊本県内では最も多くの青銅器を出土。多量の鉄製品とその未成品も出土していて、鉄素材を仕入れて製品化することに長けた集落だったと考えられているようだ。

「方保田東原遺跡」山鹿市公式サイト
(「方保田東原遺跡」山鹿市公式サイト

熊本市内に目を向けると、江津湖の北側に広がる「神水(くわみず)遺跡」が、南北1200mx東西600mという規模で、単純に計算すれば72haと、かなり巨大な集落(図の11番)ということになる。

伊都国の王都「三雲・井原遺跡」が60haといわれているので、それを余裕で上回る規模だ。

「神水遺跡」熊本市公式サイト
(「神水遺跡」熊本市公式サイト

その「神水」に匹敵するといわれるのが、その南方にある「宮地遺跡群」(地図の19番)。

遺跡群のなかでも、「新御堂遺跡」の発掘では二重環濠の内部に住居539軒、甕棺墓89基、土壙墓252基、木棺墓54基などが、かなり集中してみつかっているのだという。

新御堂遺跡の環濠だけでも20haに達しているので、宮地遺跡群全体としてはどれほどの規模になることか・・・。

ただ宮地遺跡群は、弥生後期前半に環濠を掘って防御を固めたものの、「ほどなく濠の埋没がはじまり姿を消した」とされている。

大原(おおばる)遺跡周辺の弥生遺跡の分布
(出典『狗奴国浪漫』伊都国歴史博物館)

筑紫平野に一番近い玉名市にも「大原(おおばる)遺跡」がある(地図の1番)。

ただこちらの大原遺跡、上の「図21−3」にあるように、周囲にも様々な遺構や出土品で知られる集落があって、「改めて集落範囲の見直しが必要になってきている」のだとか。

例えば大原遺跡のすぐ南にある「木船西遺跡」では住居跡70軒が検出され、「後漢鏡」の出土も確認されているそうだ。かなり古くに成立した大集落の可能性もあるようだ。

「阿蘇山」2019年春見物
(「阿蘇山」2019年春見物)

阿蘇の鉄とベンガラ

邪馬台国と戦った狗奴国とは関係ないかも知れないが、阿蘇山の一帯にも多くの弥生人が住んでいたようだ。カルデラの北西部にある「狩尾」という地域では、160軒の住居跡が見つかっているのだという。

その中でも住居86軒が検出された「下扇原遺跡」では、集落から1522点もの鉄製品が出土、「これら多量の鉄製品が簡単に遺棄できるほど、集落内に鉄があふれていた」んだそうだ(ちなみに同時代の纒向遺跡から出土した鉄器は10点に満たないとか)

また、「下扇原」では鉄の加工片や鍛冶施設もみつかっていて、集落内で鉄製品の加工が行われていたことも分かっているらしい。

中岳第一火口

この「下扇原」の集落が、どのようにして大量の鉄素材を入手していたのか。一つの可能性が、阿蘇の大地から産出される優良な「褐鉄鉱(リモナイト)」を原料としたというもの。

そしてもう一つの可能性が、これまた阿蘇が産出する「ベンガラ(赤色顔料)」を反対給付品として交易に用い、北部九州から入手したというもの。阿蘇の集落からは北部九州の青銅器やガラス装飾品が豊富に出土しているので、後者の可能性のほうが有力視されているようだ。

魏志倭人伝には、倭国の産出品として「」が挙げられていて、これを「水銀朱」とみる見解もあるが、当時わが国で消費された水銀朱は中国産が大半だったことから、図録『狗奴国浪漫』では、阿蘇谷のベンガラこそが「丹」の正体だったのではないか———という考察が行われている。

『邪馬台国時代のクニグニ・南九州』

水野祐の「狗奴国東遷説」

———といったかんじで、邪馬台国時代の熊本が、多くの人口と鉄器を抱えた狗奴国の「候補」であることに、異論のある人は多くはないだろう。

ところが、前々回(吉野ヶ里)、前回(平塚川添)の記事でみたように、卑弥呼が死んだ後の3世紀後半の筑紫平野では集落が消えていくという現象があって、同じことは熊本でも起こっていたらしい。

じつは、あれほど大量の鉄器が出土すると話をした熊本県域も、それは弥生時代後期後葉までのことであって、古墳墳時代前期になると鉄器をもつ集落がほとんどみられなくなります。

鉄器を潤沢に生産し、消費していたはずの熊本から大集落や鉄器がみられないという状況になるのです。

(『邪馬台国時代のクニグニ・南九州』2014年)

彼らはどこに行ってしまったのだろう。ここで古くからの古代史ファンが思い出すのが、昭和の頃に水野祐が唱えた「狗奴国東遷説」。

福岡県の考古学者、片岡宏二さんによれば、要するに熊本の狗奴国が筑紫平野の邪馬台国を滅ぼして東遷し、畿内にヤマト政権を樹立したというのが水野説の大筋で、狗奴国の「男王一人に支配される専制的な体制」が、畿内ヤマト政権に通じるとして、一定の支持を集めたんだそうだ。
(『邪馬台国論争の新視点』片岡宏二/2019年)

弥生時代後期の箱式石棺の分布
(出典『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』安本美典/2019年)

現在の学界が水野祐の「狗奴国東遷説」をどのように評価しているかは、ニワカの一般人であるぼくには知る由もない。だが、もしも狗奴国が北部九州を制圧したというのなら、その痕跡が北部九州に残されていなければ、話が合わない。

それで邪馬台国「九州説」の第一人者、安本美典さんの本に当たったところ、どうやらそれは全くの反対で、むしろ北部九州が熊本を圧倒した証拠が残されているようだ。

邪馬台国時代に甕棺墓からシフトして、北部九州の墓制の主流になったのが「箱式石棺」で、棺を槨に納めずに直接土の中に埋めるという方法。その「箱式石棺」の分布が、上の「図10」。

九州本島で、古墳時代前期において、箱式石棺の出土数の多い「市と町」ベスト10
(出典『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』安本美典/2019年)

ところが、水野祐が狗奴国が邪馬台国を滅ぼしたという3世紀後半、北部九州の文化「箱式石棺」が熊本に浸透していたことを表すのが、「図18」のグラフ。フツーに考えれば、狗奴国と邪馬台国の争いにおける勝者は、邪馬台国を盟主とした北部九州の「倭国」だろう。

この件、個人的には考古学の力を借りなくても理解できそうに思ったのが、日本書紀における第12代景行天皇の九州巡幸の様子。あの時の景行天皇は熊本の地理には全くの不案内で、皇室が熊本の出身だとはチト考えにくい印象がある。

古代史研究の最前線『邪馬台国』洋泉社/2015年

狗奴国「東海説」について

最後に、狗奴国を伊勢湾沿岸の部族社会だとする「狗奴国東海説」について少々。

繰り返しになるが、魏志倭人伝をシンプルかつストレートに読む限り、伊都国ー邪馬台国ー狗奴国は「北」から「南」に並んでいると考えるのが無理がない気がするが、これを「西」から「東」に並んでいると恣意的に?読み換えるのが「狗奴国東海説」だ。

ぼくが読んだのは、愛知県の考古学者・赤塚次郎さんの「東海説」で、ぼくなりに要約するなら、畿内の「庄内式」に対して東海の「S字甕」、畿内の「前方後墳」に対して東海の「前方後墳」という分布を「地域対立」だと考えて、そこに魏志倭人伝の邪馬台国と狗奴国の対立をオーバーラップさせた説———ってかんじになるだろうか。

ただ、「武渟川別」の記事でみたように、前方後円墳と前方後方墳は(ごく初期のプロトタイプを除けば)きれいに東西で二分しているわけじゃなくて、3C半ばには早くも入り乱れているし、日本最大の「方」は奈良盆地の「西山古墳」(天理市)だったりする。

九州でも、3C後半の福岡市に「那珂八幡古墳」という75mの「円」が造られる一方で、同じ頃の佐賀県「吉野ヶ里」には4基の「方」が相次いで造営されていたりする。

西山古墳 GoogleEarth
(西山古墳 GoogleEarth)

単純な距離の問題もある。

仮に邪馬台国の最南部を「筑後市」、狗奴国の最北部を「玉名市」とみた場合、その間隔は、人間が一日歩いて移動可能な30kmに収まっているが、名古屋駅と桜井市「纒向」の間隔は120km以上離れている。

そんな長距離を移動してまで、纒向と東海が争う理由が良くわからない。九州なら「褐鉄鉱」や「ベンガラ」の奪い合いか、なんて想像もできるが、纒向遺跡から出土した外来系土器の50%は東海産で、そもそも両者は友好的な関係だったという話もある。

なので大変失礼ながら、ぼくには「狗奴国東海説」は、弥生時代終末期の東海にあった「X国」(一宮市「八王子遺跡」など)に、魏志倭人伝の記述との整合性を全く無視した状態で「狗奴国」の名前を被せただけの、かなりユルい議論のように思えている。

もちろん赤塚さんに、東海地方の考古学を盛り上げたいという「大人の事情」があるのだとしたら、それはそれで理解できる。

邪馬台国(16)につづく

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