天才科学者の邪馬台国論
邪馬台国関連の読書感想文シリーズ、その16回目は『日本古代史を科学する』(2012年)。
著者の中田力さんは東大医学部卒業後、カリフォルニア大学で脳神経学の教授を勤められ、複雑系の世界的権威という「天才」さんだ。そんなIQ200以上ありそうな中田さんが考える邪馬台国の所在地は「宮崎」。投馬国は「熊本」で、奴国は「佐賀」だという。
倭人伝の解析だけから到達可能なこの結論は、「決して揺らぐことがない」んだそうだ。

中田さんによれば、倭人伝の「記載の信憑性はかなり高い」とのことで、「記載に何らかの操作がなされたとの立場はとらない」。
———これはつまり、倭人伝が「南」だという方位を「東」に読み変えないと成立しない、邪馬台国「大和説」のような「記載そのものの変異を認めたうえで行われた過去の解釈」は、「どのような権威者が認めたものであろうと最初から議論の対象とはしない」と一刀両断で、われら「九州説」としては100万の援軍を得た気分だ。
また、倭人伝で魏使が辿ったクニグニは「自分が見聞きした通りに順を追って記述」されたと読めるとのことで、いわゆる「放射説」の類いも採用しないという。つまりは書いてあることを、前から順にシンプルに読み解くのが中田式ということで、とても共感できる。
なお、倭人伝の「里」については、記載されている対馬と壱岐の大きさから、1里=60mに設定されているようだ。

末盧国は「唐津」
科学者でアメリカ在住だった中田さんに、日本の歴史学のしがらみはない。
なので通説では、光武帝から金印をもらった「倭の奴国」が倭人伝の人口2万戸の「奴国」と同一視されていても、中田さんには関係ない。「漢」が「魏」に変わるような世の中で、同じ状態で続いているものの方が考えにくいといわれる。
そもそも、「唐津(末廬国)」に到着した魏の使節団が「糸島」や「博多」に向かうなら、わざわざ「陸行」なんてせずに「水行」すればいいわけで、上陸したのは伊都国が「簡単に「水行」できない場所」にあったからではないか。
それにBC11世紀には数理天文学を確立させていた中国人が、唐津から「北東」にあたる糸島や博多を「東南」に間違えることはあり得ない。
よって魏使は博多方面には進んでいない。末廬国から「東南」に走る「唐津街道」を500里(30km)進んで、佐賀平野に出た———というのが、中田さんのお考えだ。

・・・じゃあ、ここまでのぼくの感想はというと、まずぼくらが倭人伝の「奴国」を博多あたりだというのは「金印奴国」とは余り関係なくて、当時そこに北部九州では最大級の集落があったから。
博多あたりにあった「須玖遺跡群」と「比恵那珂遺跡」を合わせれば300haは余裕で超えていて、奈良の「纒向遺跡」のピーク時にも匹敵する。そんだけの大都会なら、とりあえず「2万戸」は余裕で収容できるだろうと。
それに中田さんがいわれるように、魏使が上陸したのは伊都国から先が「水行」ではいけない場所だったとした場合、九州最大の「筑紫平野」も該当する。
ただそれは、魏の使節団が乗ってきた「V字」船底の大型外洋船では行けない・・・という話で、たとえば「不弥国」あたりで河川に適した小さい「平底」の船に乗り換えて、御笠川をさかのぼっていけば「水行」できる。
ただその際、御笠川は太宰府市あたりで北に逸れてしまうので、いったん上陸して、南に向かう宝満川まで船を引いていかなければならない。(関連記事)

船舶に詳しい播田安弘さんによると、1975年に角川春樹が建造した古代船「野性号」は約35tあって、こいつを陸に上げて人間が引いていくには、650人もの人員が必要になるそうだ。(関連記事)
もしも魏使が筑紫平野を目的地としていた場合、平底の船のクルーに加え、陸を引く人員の確保も必要になるし、その分を含めた水や食料の調達も必要になる。
こういう場合、フツーはできるだけ大きな集落に行って、自分で直接交渉をした方が間違いがない。だから上陸した魏使は、まずは大集落のある糸島や博多を目指した———というのが、従来の「九州説」からの説明になると思う。

また、中田さんは末廬国を港のある唐津だと断定しているけど、倭人伝を読む感じでは、魏使が到着したのは末盧国の中心的な集落ではなかったようだ。他のクニには記載されている「官」「副」の名前も載ってない。
さらに、 一つの海を渡って千里余り行くと、末廬国に到着する。四千戸余りの人家がある。山が海にせまっているので、沿岸すれすれの所に家を造って住んでいる。草や木が繁っており、道を行く前の人が見えないほどである。
(倭国伝』講談社学術文庫)
それで考えられるのが、東松浦半島の先端「呼子」あたりに上陸してしまった可能性。
仮に魏使が糸島/博多方面を目指すとした場合、その方角は「東」になるが、進行方向は「南」になる。倭人伝では500里程度の移動の場合、いったん南に行ったのち東に向かい〜なんて細かいことは書いてないので、じゃあ両者のあいだをとって「東南」でいいか〜という記録になった可能性もある気がする。
んでそうすると「不弥国」までの位置関係は、おおむね末盧国の「東」というのが、下のGoogleマップ。唐津の先の赤印は、順に「今宿五郎江遺跡」「西新町遺跡」「雀居遺跡」)。

伊都国は「佐賀平野」
さて中田さんの説に戻ると、唐津から東南方向に「唐津街道」を500里(30km)進んだ佐賀県「多久市」あたりに、伊都国はあったとされる。
ちょうど山道から平野に出たあたりで、天然の「関所」のような地形になっている。邪馬台国はここに、諸国を監督する「一大率」を置いたと中田さんはいわれる。

でもそれを聞いて、予想される反応はこうだろう。
え!?伊都国の一大率は「津(港)」で荷物をあらためたんじゃなかったっけ? なんで唐津から30kmも離れた内陸の山麓に、一大率があるんだ??
そんな反応に対する中田さんの説明はこうだ。
いざとなれば、街道を閉じてしまえば守りにもなり、良からぬ考えを持った連合国の長が密書を帯方郡などに送ろうとしても、防ぐことができる。
(出典『日本古代史を科学する』)
「郡使の往来常に駐まる所」でもあり、帯方郡からの使者はここで何らかの手続きをする必要があったのかもしれない。
「皆津に臨みて捜露し」の津とは、末慮国、つまりは唐津そのものを意味していたと考えれば、すべてに納得がいく。
んー、ここの説明は正直よくわからない。一大率は伊都国にあるんだから、外国からの荷物の検査は佐賀平野でやったことになるはずだが、内陸に入れてからじゃ、いろいろ遅すぎやしないだろうか。荷物を運んできた輸送船のクルーなんかも、佐賀平野まで歩かされたんだろうか。
中田説では、邪馬台国は宮崎県だというが、宮崎県から見て佐賀平野が「北の玄関口」というのも、いまいちピンと来ない。他にもいくらでも「玄関」があるように感じられてしまう(関門海峡とか博多湾とか)。

投馬国は「熊本」
上の「図5の2」は当時の佐賀平野の海岸線を表していて、黒塗りの部分は「海」だった。当時の「吉野ヶ里遺跡」は海に近かったというから、正確な図だと思われる。
佐賀平野は今よりずっと狭くて、そこに人口2万戸だという「奴国」があって、その近くに「船着き場」で「漁師の集落」である「不弥国」があり、そこから魏の一行は再び船に乗って「水行」したのだという。
しかし、ここで予期せぬアクシデントが発生!
なんと魏の上級官吏は、倭人の粗末な船に乗るのを嫌がって、不弥国に留まると言い出したのだ。そういうわけで、有明海から先の旅程は「下級官吏、もしくは下僕」だけで行われたので、正確な距離の記録ができなかったのだという。
・・・んー、でも倭人の船が嫌なんだったら、最初から自分らの外洋船で熊本を目指せば良かったんじゃないの? という反応が予想されるが、そういう可能性への中田さんの言及はない。

ただ、魏志倭人伝によると、このときの「上級官吏」は「梯儁(ていしゅん)」という人物で、その役職は「建中校尉」つまりは軍人だという。
そして、そもそも倭人伝の載る『三國志』の「烏丸鮮卑東夷伝」は、魏が周辺国の人口や軍事力、経済力を調べた報告書がベースになっていると聞く。
だったら軍人が、軍事に関わる情報を求めて「倭」にやってきて、倭人の船は嫌だからといって任務を放棄する———ような場面は、チト考えにくい印象がある。

また倭人伝によると、魏使の旅は朝鮮半島の「狗邪韓国」から「周旋可五千余里」だったといい、「周旋」とは「めぐり歩く」とか「転々とする」という意味だという。彼らは単に卑弥呼に金印を下賜しに行っただけじゃなく、あちこち寄り道をしながら5000里を移動したということだろう。
一説によれば、太古の火山帯が主な産地なので、中国北部や朝鮮半島では稀少品だったという「朱(硫化水銀)」は、九州ではガンガン採掘できたんだそうだ。倭人伝には「朱」は「丹」という文字で表されて、4回出てくる。魏使の興味を、強く惹いたのかも知れない。

上級官吏が不弥国(佐賀県)に留まった証拠として、中田さんは「卑弥呼、もしくは卑弥呼の名代との謁見が行われていない」と書かれているが、これはチト違うのでは? 倭人伝には魏使「梯儁」と「倭王」の直接のやり取りが載せられていると、ぼくには読める。
正始元年(240年)、帯方郡の太守弓遵は、建中校尉梯儁らを遣わして、詔と印綬を倭の国に持って行かせ、倭王に任命した。そして、詔と一緒に、黄金・白絹・錦・毛織物・刀・鏡、その他の賜り物を渡した。そこで倭王は、使いに託して上奏文を奉り、お礼を言って詔に答えた。
(『倭国伝』講談社学術文庫)
ここを読む限り、魏の上級官吏(梯儁)は「倭王」に詔と印綬を渡して「倭王」に任命し、皇帝からの贈り物を下賜している。ただ、歴史研究家の孫栄健さんは、この時の「倭王」は卑弥呼ではなく「難升米」だと論じられてはいるが、いずれにせよ魏使が邪馬台国に行ったことは確かなように、ぼくには読める。

邪馬台国は「宮崎平野」
まぁ上級官吏が乗っていたかどうかは置くとして、不弥国を出た使節団の船は、有明海を南下して熊本の「投馬国」に着いたという。
ただ、佐賀から熊本までは直線距離で62km=約1000里。これまでの行程では、一日で「水行」できる距離だったが、なぜか20日も要している。
奇妙な話だが、中田さんは「ここではそれは問題にしない」といい、重要なのは、そこから得られた「水行」一日=3.1kmという数字の方なのだといわれる。
その数字によって、熊本から南に「水行10日」という距離の計算が可能になって、それは31km。だいたい「八代市」が該当して、そこが魏使が上陸した場所だと判明するわけだ。
もちろん、熊本から八代市の31km=500里は、それまでなら半日で「水行」できる距離になるが、10日も掛かっていることは、ここでも「問題にしない」でいいのだろう。

こうして八代市に上陸した魏の下級官吏や下僕たちは「人吉市」まで進み、そこから先は集落の多い「えびの市」や「都城市」を避けるように東に向かい、集落遺跡のない山道を合計30日も歩き続け、「西都市」から宮崎平野に出たのだという。
なぜ集落遺跡の点在する「宮崎自動車道」ルートを避けて、北の山岳地帯を通ったかというと、その当時の都城市には邪馬台国の宿敵「狗奴国」が陣取っていたからだそうだ。

ところで話が邪馬台国まで進んだ今、中田さんが倭人伝を大きく読み違えていると思われる点を、指摘しなければならないだろう。それが次の一文で、中田さんはこれを「北」については分からない———と真逆に読んでいるようだ。
(原文)自女王国以北、其戸数道里可得略載。其余旁国遠絶、不可得詳
(現代語訳)女王の国から北にある国は、その戸数とか距離のおおよそを書くことができるが、その他の方角の国々は、遠く離れていて、詳しく知ることができない。
(『倭国伝』)
倭人伝は、魏使は「北」についてしか分からない、すなわち魏使は北から南に移動して、邪馬台国に到着したと書いている。だが中田さんは「北」については分からないと読んだので、魏使が「西」の八代市から30日間も「東」に移動した異常さが気にならないのだろう。
しかし実際には、魏使は「北」以外は分からないので、フツーに考えれば100km「西」にある熊本=投馬国も、「遠く離れて」知らない国に含まれてしまうんじゃないだろうか。

12000里はどう解釈されたのか
最後にもう一点。
倭人伝には、帯方郡から女王国までは12000里だと書いてある。帯方郡から不弥国(佐賀)までを足していけば10700里になるので、残りは1300里だ。
ところが中田さんはこの話題ではトーンを落として、不弥国から先は測量のできる上級官吏がいなかったから、その数字は確かなものではないといわれる。
おそらくは、不弥国から倭の船に乗ることを拒否し、部下だけを行かせた上級官吏が、報告書を書くにあたって体裁を整えたのだろう。実測されていないこの数字が意味を持つことはない。
(『日本古代史を科学する』)
つまり12000里はテキトーな数字だということだ。不弥国から1300里というと、中田さんの一里60mで計算すると残りは78km。これだと「八代市」がせいぜいで、宮崎市にはぜんぜん辿り着けない。中田さんには認められない数字だ。
でもそれだと、本の冒頭に掲げた倭人伝の「記載の信憑性はかなり高い」を自ら否定することになるし、書かれた数字を「体裁を整えた」と切り捨てるのは、倭人伝の「書き換え」に相当するとぼくには思える。
そういう改変なしに、明快な議論が展開されると期待したぼくとしては、少々残念な結末だった。

伊都国、奴国について中田さんが喝破されたように、魏使の目的地は海からはアクセスできない場所だったから、彼らは彼らの外洋船を降りたのだろう。だが末廬国あたりで補給を済ませれば、佐賀も熊本も宮崎も(鹿児島も宇佐も)、その外洋船で直接寄港できる場所にある。
じゃあ人口7万戸を収容できる大きな平野があって、なおかつ、どうしても上陸する必要がある場所といえば、「筑紫平野」が思い当たるわけだ。

「水行」「陸行」という用語は、『三國志』全65巻でも倭人伝にしか出てこないレアな用語で、「水行」は朝鮮半島と投馬国、邪馬台国の3回だけで、「陸行」は伊都国と邪馬台国の2回だけ。
んで『三國志』には「渡海」「海行」「船行」は出てくるのに、「川行」「河行」は出てこないことから、「水行」には川を使った移動だという説がある。
『三國志』の舞台の中で、近代に入って道路や鉄道ができるまで、大きな河川を最低限の陸路で繋いで南北の大移動に利用した地域が二つあって、それが朝鮮半島(南漢江ー洛東江)と筑紫平野(御笠川ー宝満川ー筑後川)だという。
魏使の目的が軍人「梯儁」による倭の国力視察だとしたら、彼らは納得行くまで倭地の調査を続けたことだろう。「水行10日陸行一月」が「距離」を表していないことは文字の通りなので、そのときの調査にかけた日数を足したものだという説もある。
詳しくは(↓)を。

