「船」の専門家が考える邪馬台国
邪馬台国関連の読書感想文シリーズ、その15回目は『日本史サイエンス〈弐〉』(2022年)。
著者の播田安弘さんは三井造船でさまざまな船舶の開発に携わられた「船」の専門家で、この本では「邪馬台国」「秀吉の朝鮮出兵」「日本海海戦」という三つの海の歴史を解説されている。
1975年に、角川春樹が「魏志倭人伝」の航海を再現しようと立ち上げた「野性号」のプロジェクトは失敗に終わったが、播田さんによると、深さを50%減らして喫水を浅くして、幅も80%に減らして「復元力」を0.8×0.8の64%まで落とせば、横揺れ周期が長くなるので安定性が向上し、成功の可能性は高まるのだという。
そんな海と船の話は、さすがに本職だけあって分かりやすく、面白い。

他にも、北東方面に1.5〜2.0ノットの速い海流が流れる対馬海峡の渡り方だとか、逆にその海流をいかした日本海航路の成立だとかも、なるほどという話で興味深かった。
ただ、古代の船の話題に続く「魏志倭人伝」の読解になると、気になる点がいくつか出てきた。
とはいっても播田さんは、233年生まれの陳寿が「使節団の一員として邪馬台国を訪問した」なんて書いてしまう自称「素人」さんということなんで、細かい事実誤認とかはいちいち取り上げない。

倭人伝の距離や方角は信用できない
最近では、魏志倭人伝に書かれている「距離」や「方位」は”おおむね”正しいという考えが多いような印象があるが、播田さんは「信用できない」派のようだ。
ぼく自身は、当時、世界最高の文明を誇った中国人は「三角測量」で距離を測ることも、「一寸千里の法」で緯度を測ることもできたと聞いているので、基本的には「信用できる」派だ。なにしろ、あの「万里の長城」や「始皇帝陵」を築いた人たちだ。
ただし、倭人伝の地理観が全体的に20度ほど、西に傾いているのも事実だと思う。

播田さんが、倭人伝の距離や方位が鵜呑みにできない例、として挙げるのが、「末廬国」から「伊都国」への方角が「東南」と書かれている点。これは「東」と書くべきじゃないのか、というのが播田さんの見解だ。
ただぼくが気になったのは、その際、播田さんは「末廬国」=松浦という、新井白石以来の語呂合わせで場所を特定してること。一大国は壱岐だし、伊都国は糸島だ。
しかし播田さんご自身が指摘されるように、当時の船の速度で北東に流れる対馬海流を真南に進むのは困難で、仮に松浦を目指しても、博多の方に曲げられてしまうのが「自然」だという。
まぁそこまで直角に曲がらなくても、松浦を目指しても東によれて、松浦のとなりの「唐津半島(東松浦半島)」に着いてしまう可能性はあったと思う。

そうやって魏の使節団が上陸した「末羅国」を唐津市の「呼子」あたりだったと考えた場合、次の「伊都国」への方角は、播田さんがそうすべきという「東」になる(原文は「東南」)。
ただこの「伊都国」を、邪馬台国時代の前まで伊都国の王都とされた「三雲・井原遺跡」だと考えていいかどうかは、別の問題だろう。
ぼくはそんな内陸部より、沿岸部にあって伊都国の交易の現場だとされ、大陸や半島の文物が出土している国際色豊かな「今宿五郎江遺跡」の方に、魏使は宿泊したんじゃないかと思っている。
んで次の「奴国」も内陸の「須玖遺跡群」ではなく、多文化交流で知られる沿岸部の「西新町遺跡」。
さらにその先の「不弥国」は当時の国境だと思われる二つの大河(那珂川、御笠川)の向こう側、今は福岡空港に埋まっている「雀居遺跡(ささいいせき)」あたりと考えていくと、それらの所在地はこんなふうになる(緑の旗マークが松浦)。

上陸した末廬国(呼子)から伊都国は「500里」、伊都国ー奴国ー不弥国はそれぞれ「100里」なので、上の例なら倭人伝の記述からかけ離れているという印象はないと思う(あくまで一例)。
だが、倭人伝の距離、方位への不信感が強すぎるのか、播田さんは倭人伝が「奴国」から「東」に「100里」だという「不弥国」を、500里は離れている飯塚市か、1000里近く離れている北九州市だと言う。
そしてその上で、そこから時速3〜4キロの船で6〜8時間の航海をすると、一日およそ20〜30km進むので「投馬国」は宮崎県。そこから邪馬台国は「水行10日陸行30日」なので、洋上を歩いて南に進むことになり、「九州説」は「論理的に破綻」している!———と播田さんはいわれる。
また「近畿説」については、ご専門の海の知見から瀬戸内海は潮流が早く、岩礁も多いから魏の船団にはリスキーで選択できず、残るは縄文時代から倭人が使ってきた日本海を「東」に進み、但馬で上陸して奈良盆地まで「陸行」するルートだけ———というのが、播田さんのお考えだ。
ただしその際、倭人伝が「南」だという投馬国への方角を、なぜ日本海を「東」に進むと書き換えていいかの根拠は書かれていない。倭人伝は信用できないから?

なぜ一度、上陸したのか
播田さんのルートでもっとも難解な点は、奴国から東に「100里」だという不弥国が、なぜその10倍の1000里近く離れた北九州市になるのか、だが、この答えは播田さんにしか分からない(説明がないので)。
でも倭人伝の記述は信じられないからといって、播田さんがすべての距離や方位を無視しているわけではないことが分かるのが、下の行程表だ。

この表で注目すべきは、単純に海を移動しただけの「狗邪韓国」「対海国」「一大国」「末廬国」それぞれの距離(E)が70kmに計算されていること。それは倭人伝には1000里とあるんだから、1000里=70km、1里=70m。
上の方のGoogleマップだと、唐津の呼子(末廬国)から今宿五郎江(伊都国)までは500里とあるから、1里70mで35kmという計算になるわけだが、これはGoogleマップでの実測で32kmほど。
んで今宿五郎江(伊都国)から西新町(奴国)までは100里=7kmで、実測7.5km。さらに西新町(奴国)から雀居(不弥国)も100里=7kmで、実測7.5km。
という具合に上の一例では”おおむね”倭人伝と実測は一致している。だがなぜか、播田さんは不弥国を、遠く65km,900里以上離れた北九州市に持っていってしまうわけなんだが、その根拠は特に書かれていない。

播田さんの説で何より分からないのが、魏の使節団は北九州市から但馬(豊岡)まで外洋船で進んだというのなら、なぜいったん末廬国(唐津)で上陸して、不弥国まで「陸行」したのか、という点だろう。
船の専門家である播田さんによれば、倭人が使ったという約35tの「野性号」を陸に上げて引いた場合、人間ひとりが引ける重さを20kgとしたとき、650人の人員が必要になるという。
魏使の一団は当たり前のこととして、できる限り自前の外洋船を使いたいだろうから、末廬国から不弥国までは船を陸路で引いていき、そこから再び日本海に出航した———というのが播田さんの説になると思われるが、だったら末廬国に上陸せず、最初からまっすぐ但馬を目指せばよかったんじゃないだろうか。
これ、逆に素直に考えれば、魏使の目的地は内陸部にあったから、どうしても上陸する必要があった———ってことにならないだろうか。末廬国で上陸したあとは陸路を不弥国まで進み、そこから河川に向いた平底の船に乗り換えて、御笠川を南下していった———みたいに。

倭人伝と最大限に整合性がとれるコース
播田さんは、「九州説」や「瀬戸内コースの近畿説」を退けて、倭人伝と「最大限に整合性がとれる行程」を探したのだという。
この「整合性」にはいろんな要素があると思うが、例えば帯方郡から邪馬台国までの総距離が12000里、というのもその一つだと思う(自郡至女王國、萬二千餘里)。
ただ12000里のうちの7000里は、帯方郡から狗邪韓国(播田説では釜山)までの移動に使っているので、残りは5000里。播田説の不弥国は変な場所(失礼!)にあるので、奴国までとすると10600里なので、残りは1400里。
その1400里を、1里=70mで計算すれば残りは98km。播田説で博多から日本海方面に直線距離で98km進むと、到着するのは山口県の長門市か萩市のあたり・・・。

ゆえに帯方郡から12000里の邪馬台国は、山口県である!———なんてのが倭人伝との「整合性」だとぼくには思えるわけだが、播田さんの説では、奴国(博多)から450km以上(約650里)も離れた但馬の豊岡で、まだ「投馬国」にしか着いていないそうだ。
ここで播田さんがいう「整合性」とは、但馬という場所が、時速3kmで一日8時間を(水行)20日で進んだ場所にあるから———ということらしい。でもぼくにはそれは、整合性というより机上の単純計算という印象がある。
なお、豊岡から奈良の纒向遺跡までは、150km(2000里)以上の徒歩になる。倭人伝に何も記録がないところからすると、クニ(集落)もないような荒野を魏使は進んだのだろうと思われる。

「整合性」といいつつ播田さんが無視している要素には、クニグニの位置関係もある。
倭人伝には邪馬台国の「北」には「伊都国(一大率)」があり、邪馬台国の「南」には「狗奴国」があると書いてあるが、いずれも奈良盆地の纒向遺跡の、北にも南にも見当たらない。

また、纒向遺跡への「陸行」を、播田さんは豊岡から姫路、または舞鶴から大阪といわれるが、現在の地図なら可能でも、当時はそうそう都合よく道路が走っているわけじゃない。
唯一可能とされるルートは(関裕二さんの本で知ったことだが)舞鶴から「由良川」に入って福知山に至り、丹波の低地を抜けて「加古川」に乗り、加古川市から瀬戸内海に出る「氷上回廊」だとされているようだ。
ただこのルートは主に河川を使うので、播田さんの説では「陸行」とは言えない難点がある。だが、そもそも奈良盆地に入るのは、飛鳥時代でも「大和川」を遡っていったわけで、魏使だって野山を歩くより船の方が良かったんじゃないだろうか。

ちなみに「水行」というのは『三國志』全65巻でも倭人伝にしか出てこない超レアな用語。朝鮮半島と投馬国、邪馬台国にしか「水行」は使われていない。
一方、『三國志』には「渡海」も「海行」も「船行」もあるのに、「河行」「川行」と言う用語はない。なので「水行」は河川や湿地帯を行く意味ではないか、という説がある。
詳しくは、以下の記事を(↓)。

結論は邪馬台国東遷説
作家の井沢元彦さんが広めた説だと思うが、日本神話のアマテラスの「天岩戸隠れ」は、AD247年の「日食」がモチーフになっていて、その年代から卑弥呼の死が元ネタである———という説がある(『逆説の日本史』)。
播田さんもその説をとっていて、国立天文台の論文からAD247年に日食が見えたのは太宰府で、飛鳥では日没後で見えなかったというデータを引いてきて、卑弥呼の時代までの邪馬台国は北部九州だったか?、と書かれている。
んじゃ但馬(豊岡)までの日本海ルートは何だったかというと、卑弥呼の死後、邪馬台国が纒向まで「東遷」したルートってことになるようだ。ちょっと話が混乱してるように思われるので、書かれたまんま、引用してみる。
以上の考察をもとに、最後に筆者の心証を述べてみたいと思います。
少なくとも卑弥呼が没するまでは、邪馬台国は九州にあったように思います。しかし『魏志倭人伝』の行程からは、近畿にあった可能性が高そうです。ここから導かれる最も合理的な解釈として、卑弥呼の存命時には二つの大きな勢力、すなわち九州勢力と近畿勢力が同時に存在していたのではないでしょうか。
そして卑弥呼の死後、後継勢力が九州から東上し、纏向を中心に栄えていた近畿勢力を併合するかたちで近畿邪馬台国を築き、そこから大和王権に移行したのではないでしょうか。
(『日本史サイエンス〈弐〉)
まぁ100年前からある「邪馬台国東遷説」だ。
しかし、播田さんが九州で「最大の遺跡」だといわれる佐賀の「吉野ヶ里遺跡」は、環濠の面積で40ha。併合されたという「纒向遺跡」は3世紀後半には300haと、彼我の差はあまりにも大きい。
いったい卑弥呼の後継勢力は、日本海から豊岡、姫路、そこから100kmの陸路という大遠征の末に、どうやって近畿勢力を併合したんだろう。・・・残念ながら、その答えは播田さんの本には書かれていないのだった。
※卑弥呼の時代の九州には、200haの「須玖遺跡群」や400haを越えるといわれる「小田・平塚川添遺跡」なんてのもありました。

