邪馬台国は会稽東冶の東方海上
邪馬台国関連の読書感想文シリーズ、その18回目は『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』(2012年)」。著者は『三国志』などの中国古代史を専門とされる渡邉義浩さんだ。
渡邉さんによれば、邪馬台国とは著者の「陳寿」の理念から描き出されたクニなので、それがどこにあるかといえば「九州でも大和でもなく、会稽郡東冶県の東方海上」に存在したことになるのだという。
陳寿の思想がはっきり出ているのが「当に会稽東冶の東に在るべし(當在會稽東冶之東)」という書き方で、邪馬台国はそこに「理念として在るべき」とされたクニであって、実際にどこにあったは「二次的な問題」に過ぎないんだそうだ。

んじゃそんな陳寿の「理念」とは何かというと、邪馬台国は西の「大月氏国」と並ぶ東の大国で、大月氏国が「蜀」の背後をおびやかすように、邪馬台国は「呉」の背後をおびやかすべく、配置されたクニだということ。
だから「親魏◯王」が賜与されたのは大月氏国と邪馬台国だけだったし、両者は共に洛陽から約17000里の場所と規定されたんだそうだ。
つまり邪馬台国までの距離と方位は「理念的」に考え出されたものなので、「現実にはありえない場所(福建省福州市の洋上=台湾あたり)」でも一向に構わなかった、ということらしい。
ちなみに、じゃあ渡邉さんご本人は邪馬台国がどこにあったとお考えかといえば、「大和にある可能性が高い」とのこと(これは後述)。

ただ、そうはいっても渡邉さんは、倭人伝が理念だけではなく「実際に倭国を訪れた使者」が提出した「報告書を起源とする記述」からも構成されていることは認めている。
例えば「奴国」から先は、それまで「方位+距離+国名」だった記述方法が「方位+国名+距離」に変わるが、それは陳寿が下敷きにした『魏略』には「伊都国」までの記載しかなかったからで、「奴国」から先については「使者の報告書」が元である可能性が高い———など。
倭人伝には陳寿の理念とリアル報告の二つが入り混じっているので、それらの見極めが求められるという話だ。

といったかんじで、専門家が真面目に書いた本なので、勉強にこそなれ、門外漢の一般人であるぼくがケチをつけるような内容はない。
ただ、読んでいれば感想は湧いてきてしまうものなので、何点かメモ書きしたものを挙げてみる。

水行と陸行
邪馬台国の所在地が決まらない理由が「水行」と「陸行」の解釈の違いにあることは、万人が認めるところだろう。
この「水行」と「陸行」は『三国志』全65巻で倭人伝にしか出てこないレアな用語で、「水行」は朝鮮半島と投馬国、邪馬台国の3回だけ。「陸行」は伊都国と邪馬台国の2回に使われただけだ。
一方、『三国志』には「渡海」「海行」「船行」など、海を進む用語は豊富なのに、「河行」「川行」は出てこないので、「水行」を川に関わる用語だという説もある。
ところで渡邉さんによると、陳寿が可能だった読書の範囲で「水行」「陸行」が出てくるのは、司馬遷『史記』の「夏本紀」だという。古代中国の史書は「前史」を継ぐ(孫栄健)というし、陳寿が『史記』の用法を継いでいる可能性はあるのだろう。
それでぼくも『史記』全130巻を検索してみたところ、「水行」「陸行」は第2巻の「夏王朝」の初代王「禹(う)」が、先帝の「舜(しゅん)」に命じられて、治水工事に走り回る場面で登場していた。
前後が分かるように、長めに引用してみる
〈原文〉禹乃遂與益、后稷奉帝命,命諸侯百姓興人徒以傅土,行山表木,定高山大川。禹傷先人父鯀功之不成受誅,乃勞身焦思,居外十三年,過家門不敢入。薄衣食,致孝于鬼神。卑宮室,致費於溝淢。陸行乘車,水行乘船,泥行乘橇,山行乘檋。左準繩,右規矩,載四時,以開九州,通九道,陂九澤,度九山。
〈訳〉禹は、 ついに益(※人名)や后稜(※人名)と帝命を奉じ、諸侯・群臣に命じて人夫を徴発し、担当を分けて天下の土を治め、山をめぐって表識を立て、高山大川の秩次(位を贈って祭る順序)を定めた。
父の縣が失敗したため放逐されたのをいたんで、みずから身を労し、思いを焦がし、外におること十三年、自分の家の前を通っても入らず、衣食を節して鬼神の供えを豊かにし、宮室を質素にして、その費用で溝をつくった。
陸を行くには車に乗り、川を行くには船に乗り、泥の中を行くには橇(板で作った小さい舟形の履物)、山の中を行くには檋(裏に釘を打った履物)を用いた。
いつも左手には準と墨縄を、右手には規と矩をもち、指南器を載せて、九州を開き九道を通じ、九沢に堤防をつくり九川を渡れるようにした。
(『史記Ⅰ本紀』ちくま学芸文庫)
まず、「禹」は治水工事をしてるんだから、海は関係ない。それと「禹」の「水行」「陸行」は直線的に進む意味ではなく、九州・九道・九沢・九川の各地を走り回る、多方面への移動を意味しているように、ぼくには読める。
もしも陳寿が、『史記』と同じ意味を『三国志』の「水行」「陸行」に持たせたのだとしたら、それは帯方郡の武官「梯儁(ていしゅん)」率いる魏の使節団が、「禹」と同じように投馬国や邪馬台国の内部を東西南北に移動したことを表しているんじゃないだろうか。
もちろん、その目的は「倭」の地形や地理、経済力や軍事力を調べ上げて、「呉」に対抗する際の利用価値があるかどうかを判断するためだと、ぼくは思う(大陸では希少品だった「朱」を探したという説もある)。
※「夏本紀」にはもう一例「水行」が出てくるが、「水のないところへも川を掘らせて船を行り」と、こちらも「川」の話題だ。

帯方郡から女王国までは12000里で、うち「不弥国」までの合計は10700里。
残りの1300里に5万戸(投馬国)と7万戸(邪馬台国)の大国があったというんだから、その境界はほとんど隣接状態で、「道里(距離)」で表すことには意味がなかったのかも知れない(川崎市と横浜市みたいに)。
また『史記』によれば、「禹」は13年もの期間、「水行」や「陸行」を続けたという。陳寿と同時代の中国人が「水行20日」と目にすれば、ただちにそれが20日という行動期間を表していることに気づいた———なんて可能性を考えてみた。

周旋5000里とは
投馬国は「水行」だけなので、御笠川や宝満川、草場川そして筑後川を使って20日ウロウロ。
邪馬台国は「水行」と「陸行」なので、後半は川を離れて陸上を40日間ウロウロ———というのが「九州説」を支持するぼくの持つイメージで、魏使たちは太宰府市から朝倉市、久留米市、佐賀市、筑後市あたりを、あっちに行ったりこっちに行ったり・・・。
こんなイメージの裏付けになりそうなのが、倭人伝のいう「周旋5000里」という表現だ。

渡邉さんは「周旋」とは「周囲」という意味だといわれるが、歴史研究家の伊藤雅文さんによると『三国志』で倭人伝以外に「周旋」が出てくるのは22か所。そのほとんどが「めぐり歩く」「転々とする」という意味で使われているのだという。
つまり「周旋」が描き出すものは、「周囲」みたいな閉じた円ではなく「曲がりくねった一本の線」。
唯一「呉書」の第19で、ちくま学芸文庫の訳が「その周囲は」とされている箇所があるが、原文を地図と照らし合わせてみれば、上の「図11」の通りで、円ではなく曲がりくねった線であることがわかる。
なので、魏志倭人伝の「周旋」はこうなる。
(原文)倭地絶在 海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千余里
(訳)倭の地は、遠く離れた海の中の洲島の上にあり、あるいは海で隔てられたり、あるいは陸続きであった。巡り歩いた距離は5000余里ばかりである。
(『検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く』)
倭の北岸は「狗邪韓国」なので、魏の使節団が狗邪韓国から女王国までを「めぐり歩く」「転々とする」、その移動距離が5000里ということだ。「不弥国」から先の1300里も、魏使は「めぐり歩く」「転々とする」を続けたことだろう。
この魏使の行動と、『史記』の「禹」の「水行」「陸行」には、かなり近いものがあるように、ぼくには感じられる。

伊藤さんがつくった「周旋5000里」の概念図が、上の「図12」。邪馬台国がどこにあったかは定かでないものの、「周旋5000里」では九州の北中部の外には出られない———というのが伊藤さんの見解だ。
実際に邪馬台国まで行ったのは「梯儁」「張政」ら、いずれも帯方郡の武官(軍人)だ。職業柄、距離や方位には細心の注意を払ったことだろう。
なので、不弥国から先の1300里が陳寿の「理念」なのか、それとも軍人の「復命報告書」なのか、と問われれば、後者の可能性が高いように、ぼくには思えるのだった。

12000里は「仮説」
渡邉さんによれば、魏の時代の中国人の世界観は、世界(=中国)を一辺10000里の正方形で表したもので、その外側には「荒域」という辺境が設定されたそうだ。
んでその「荒域」にあって、西の「親魏大月氏王」が「蜀」の背後を脅かし、東の「親魏倭王」が「呉」の背後を脅かすように、理念的に配置されたのが邪馬台国の所在地だというわけだ。
このとき、洛陽から大月氏国までは16370里なので、同じく邪馬台国も洛陽からは約17000里に設定され、そこから洛陽〜帯方郡の5000里を引いた12000里(自郡至女王国、萬二千余里)が、理念的に導き出された———というのは、歴史学者の岡田英弘氏が『倭国の時代』(1976年)で提唱した「仮説」なんだそうだ。

ただ、どうせ「理念」の数字なら、どっちも17000里ジャストでいいような気もするが、大月氏国は16370里、邪馬台国も洛陽から不弥国まで15700里と、やけにリアルな点が気になるところ。
ところで渡邉さんは、伊都国までは「方位+距離+国名」だったのが、奴国から先は「方位+国名+距離」に変わったのは、奴国から先が陳寿が参照した『魏略』に書かれていなかったからだろう、と書かれている。
つまり奴国から先は、使節団の報告書によるのだろうと。
折角なので、『翰苑』に引用されている『魏略』を転載してみれば、こうなる。
従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国 到拘邪韓国七千里 始度一海千余里 至対馬国 其大官日卑狗 副曰卑奴 無良田 南北市燿 南度海 至一支国 置官 与対同 地方三百里 又度海千余里 至末慮国 人善捕魚 能浮没水取之 東南五百里 到伊都国 戸万余 置日爾支 副日洩渓飢 柄渠触 其国王皆属女王也
女王之南 又有狗奴国 以男子為王 其官日拘右智卑狗 不属女王也 自帯方至女国万二千余里 其俗男子皆点而文 聞其旧語 自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避較竜之害 今倭人亦文身 以厭水害也
(『新訂 魏志倭人伝 他三篇』岩波文庫)

今は『魏略』の原文は散逸してしまって存在していないが、陳寿はその全てを見ることができた。ってことは、『魏略』には最初から伊都国から先への言及がなかった———というのが、渡邉さんの見解に基づく考え方になると思う。
するともう一つ、同じように伊都国と邪馬台国の間をすっ飛ばしている文章があって、それが倭人伝より後の4世紀初頭に成立したかと言われる『広志』だ。誤字と思われる箇所を修正した岩波文庫から引用すると、こう。
倭国東南陸行五百里、到伊都国、又南至邪馬台国。自女(王)国以北、其戸数道里、可得略載、次斯馬国、次己百支国、次伊邪国、案倭西南海行一日、有伊邪分国、無布帛、以革為衣、蓋伊耶國也。
(『新訂 魏志倭人伝 他三篇』岩波文庫)
見ての通りで、こちらは完全に伊都国と邪馬台国の間を省略している。でもどうして、それが許されたんだろう。
ぼくはその理由を、伊都国と邪馬台国が意外と近いから———だったんじゃないかと思う。これが「大和説」が主張するように、吉備(岡山)あたりに「投馬国」があったなら、中継地点としての記載は必須だったんじゃないだろうか。
それが”伊都国の南”で済んでしまうのは、中国人から見れば、経由地点をいちいち書くまでもない距離に過ぎなかったんじゃないか、と。

司隷校尉はどこに?
渡邉さんが「大和説」をとる理由のひとつに、伊都国に置かれた「一大率」を、陳寿が「刺史」のようなものだと評した点がある。
「刺史」は魏が各地においた地方官で、首都圏の監察権を持ったのは「司隷校尉」だから、邪馬台国の一大率は地方官。よって首都が伊都国に近い「九州説」は成立しない———という議論になるわけ。
ただぼくが気になるのは、陳寿は倭国王・卑弥呼が亡くなったとき、諸侯に使う「薨」ではなく、「死」を使っていること(卑弥呼以死)。渡邉さんも「民と同じ扱い」だと書かれている。
そんな辺境の異民族の「首都圏」の代官ごときを、魏帝国ですら13人中に一人しかいない「司隷校尉」のようだ・・・なんて、陳寿は考えてくれるもんだろうか。あくまでその「地位」ではなく、その「職務」が瞬時に理解できるように、単なるたとえ話として(有如刺史)、刺史は持ち出されたに過ぎないんじゃないだろうか。
刺史のようだと言いながら、一大率が「倭」に一人しかいないのも気になる。もしも5万戸の投馬国が吉備や出雲にあるのなら、そこにも「地方官」は置かれてもいい気がする。
だいいち、伊都国は女王国への唯一の玄関口なのに、奈良盆地への玄関口は「丹後」とか「若狭」とか、他にもいろいろ有りすぎる印象もある。

九州説か大和説か
最後に一点。
渡邉さんは、九州説も大和説も「距離」や「方位」に弱点を抱えているが、それらは陳寿の「理念」に基づいて設定されたものなので、弱点として挙げる必要のないものだといわれる。
ではそうやって陳寿の「理念」を削ぎ落として事実だけを比べてみれば、3世紀前半の大型墳墓がなく、弥生遺跡の優位性を失っている九州は、邪馬台国の所在地である可能性は低い———というのが渡邉さんの見解。
つまりは、魏志倭人伝からは離れて、考古学で決着をつけようという話のようだ。

しかし、たしかに3世紀前半の北部九州には、大量の土を盛った大型の墳墓は見られないが、代わりに卑弥呼が下賜された「銅鏡百枚」の候補になりうる40面もの漢鏡が出土した「平原王墓」なんてのがある。
一方奈良盆地では、3世紀前半の遺跡から出土した銅鏡はゼロ枚だ。
また、奈良盆地で卑弥呼の都だと言われる「纒向(まきむく)遺跡」は3世紀前半はまだ100haほどの面積で、北部九州の「須玖遺跡群」や「比恵那珂遺跡」より規模が小さかったという話もある。
「鉄器」の出土数も北部九州の圧勝だし、纒向遺跡からは大陸からの文物が見つかっていない。考古学で勝負しても「大和説」が優位だとは、ぼくにはあまり思えないのだった。



