45度傾いた魏志倭人伝の世界
邪馬台国関連の読書感想文、その4回目はマンガ家・あおきてつおさんの『邪馬台国は隠された(改訂版)』(2022年)。あおきさんの漫画というと、陶芸ものの『緋が走る』は全巻読んだなー。古代史の学習まんがも執筆されてるそうだ。

さて、あおきさんによれば、魏志倭人伝の方位は全体として45度、東に傾いてるんだそうだ。
例えば「末廬国(唐津)」から「伊都国(糸島)」は現代の地図だとやや北東に見えるが、倭人伝だと「東南」と書いてある。「伊都国」と「奴国(福岡市)」も、やや北東なのに「東南」。
あおきさんによれば、こうした方角のズレは、海上では南から北に流れる「対馬海流」の影響があり、陸上では魏の使節団が来日した「夏至」の頃の日の出が「真東」ではなく、北に30度ズレる現象の影響があるそうだ。

そうすると、奴国の「東」にあるという「不弥国」の位置は、実は博多からは「北東」の方角にある新宮市/古賀市/福津市あたりになるというのが、あおきさんの説。
分かりやすく45度東に傾けて、魏志倭人伝がいう方角に修正してみたのが、下のGoogle Earthだ(以後、あおき式と仮称)。

邪馬台国は「宇佐」にある
ご存知のように、魏志倭人伝では「不弥国」から先は「里」で表示される距離がなくなって、投馬国へは「水行二十日」、邪馬台国へは「水行十日陸行一月」という「期間」だけが記されるようになる。邪馬台国の「謎」はこの解釈にありと言っても過言ではないだろう。
それでまずあおきさんが注目するのが、女王国の東に海を1000余里渡ると「倭種」のクニがあるという点(女王國東渡海千餘里復有國皆倭種)。あおきさんはこれを「女王国は海に面している(または海が近い)国」だと考えて、間違いがないという。

ところで倭人伝には、帯方郡から女王国までは12000余里だと書いてある(自郡至女王國萬二千餘里)。不弥国までを足し算すると10700里なので、残りは1300里。あおきさんは「一里=100m」で計算して、不弥国から邪馬台国までの距離は100〜120kmだという。
そしてここで登場するのがあおきさん独自の解釈で、倭人伝にある邪馬台国までの「水行十日陸行一月」は、投馬国からの日数ではなくて、帯方郡からのものだというわけ。つまり、帯方郡から12000里の距離を、水行10日、陸行30日で邪馬台国まで移動したのだと。
あおきさんは、魏使は一日1000里を水行できたと計算して、帯方郡から狗邪韓国まで7000里を7日、そこから対馬国、一大国、末廬国までの1000里を各一日で、合計水行10日。
陸行もあれこれ計算して、新宮市/古賀市/福津市あたりから100〜120kmをあおき式の「南」へ向かい、最重要ポイントである「東の海に面している」場所を求めてみれば、そこは大分県の中津平野にある「宇佐」だった。

あおき説への反論
といった感じで、あおきさんの説は、説明されている範囲内では整合性がとれていて、感銘を受けたものだった。ただ、説明されてないところでは気になる点もあったので、いくつか挙げてみたいと思う。
出てこない「方位」
あおき説には出てこないが、倭人伝には「伊都国(一大率)」が邪馬台国の「北」(あおき式だと北西)にあり、「狗奴国」が「南」(あおき式だと東南)にあると書いてある。
しかし、実際の地図では伊都国(糸島)は宇佐のほぼ「真東」で、宇佐の「北」には海しかない。あおき式でみても、宇佐の「北」にあるのは北九州市あたりで、倭人伝では言及された「クニ」がないエリアになる。
また、宇佐の「南」には実際の地図でもあおき式でも、大勢力である狗奴国が蟠踞できるような平地がない。

魏使が知ってる「北の国」は
倭人伝によれば、魏の使節団は女王国の「北にある国」については、戸数や距離などの概略を書くことができるが、それ以外は遠く離れていて詳しくは分からない、とある(自女王國以北其戶數道里可得略載其餘旁國遠絕不可得詳)。
だが、実際の宇佐の「北」には海しかないし、あおき式でも行橋市や北九州市しかないので、魏使が知ってるはずの伊都国や末廬国が「それ以外」の遠く離れて知らない国になってしまう。
なお、倭人伝では全く言及されないが、あおき式だと宇佐の「北」にあたる地域にも、立派な「クニ」があったことを証明する図(いつもの)を貼っておく。
邪馬台国時代の行橋市や北九州市には、かなりの規模の集落があったことが一目瞭然だと思うが、なぜ不弥国(新宮市/古賀市/福津市)から陸路で宇佐まで移動した魏使の報告に、それらは出てこないんだろうか。
(図からは、邪馬台国時代の宇佐の実力も一瞬で理解できると思う)


女王国は海辺にあったのか
あおきさんは「女王国は海に面している(または海に近い)」というけれど、それならなぜ、魏の使節団は最初から船で宇佐まで行かなかったんだろうか。ぼくにはむしろ、女王国が内陸地にあったからこそ、魏使は大きな荷物を担いでまで上陸する必要があったんじゃないかと思える。
またあおきさんは、もしも女王国が内陸地にあったのなら、「女王国の東、五百里海に至る」などの文字が「記載されなければなりません」というけど、「至」は実際に魏使がそこに行った時に使うわけで(例外もある)、行ってもいない「東」は単に方角を表しているに過ぎないように思う。
そもそも魏使は、卑弥呼に冊封の印を与えに来ただけで、冊封国(女王国)以外の倭人には大した興味もなかったことだろう。仮に女王国が筑紫平野にあったとして、その東の山地の向こうのことなんて「だいたい」分かればいい、倭人からの伝聞で十分だ、ってかんじになると思うんだが。
倭人伝の冒頭は、倭人は帯方郡の「東南」の海の中に住んでいる、で始まるが、帯方郡の東南に海はない。著者の陳寿はそこにある朝鮮半島をすっ飛ばした向こう側の海について語っているわけで、女王国の「東の海」も、同じように陸地を適当にすっ飛ばした向こう側の話をしていると、ぼくには思える。

投馬国はどこにあったのか
あおき説では「投馬国」は、水行10日で末廬国についた後、さらに海に出て10日進んだ場所にあったとされる。んで「投馬」は「とぅま」「つま」とも読めるので、そこはズバリ「サツマ」だろうと。
・・・繰り返しになるが、魏使は実際に行ってない場所には名前以外の言及をしてないのに、なぜ唐突に鹿児島県が出てくるのか。鹿児島まで船で行けるんなら、宇佐だって船オンリーで行けば良かったんじゃないのか。
フツーに考えれば、倭人伝に投馬国への「方位(南)」や「(水行20日という)期間」、「(5万戸の)人口」などの情報が載るのは、投馬国が帯方郡から邪馬台国までの道程にあったから、が理由であるような気がする。
だいいち、平地の少ない地域で知られるサツマに、女王国の7万戸に次ぐ、5万戸もの人口があったとはチト考えにくい。

宇佐神宮は卑弥呼のお墓か
あおきさんの邪馬台国=宇佐説の根拠には、豊前国一宮「宇佐神宮」の存在もあるようだ。青木さんによれば、そこはヤマトに滅ぼされた卑弥呼の怨念が封印された墓所なんだという。
宇佐神宮は「二礼四拍手」
井沢元彦氏が広めた説だと思うが、出雲大社の「二礼四拍手」は怨霊になった祭神・オオクニヌシに「死(四)」を伝え、この世に出てこないように封印する意味があるのだという(※ぼく自身はそうは考えてない。関連記事)。
あおきさんは、宇佐神宮が出雲大社と同じく「二礼四拍手」なのは、その祭神が繰り返し「死」を伝えられて、あの世に封印された不幸な「卑弥呼」だからだといい、二礼四拍手の儀式を持つ神社は「日本広しといえど、出雲大社と、あともう一社(※宇佐神宮)しかありません」というわけだが、それはチト違う気がする。
ぼくの知る範囲だと、越後国一宮「彌彦神社」が二礼四拍手だったが、この神社はこの件で無視していいような、村の鎮守ではないと思う。

それに、昔はあの「伊勢神宮」も四拍手だったと、神道のプロ中のプロが書かれている。
参拝方法は、明治以降に定められた「二拝二拍手一拝」が原則。二度の礼、二回の拍手、一礼をしてお祈りする。
(『伊勢参りと熊野詣で』茂木貞純/2013年)
かつては、膝を突いて頭を下げながら四回拍手をしたという。
祭事での神職は「八度拝」といって、立ったり座ったりを八回繰り返して八拍手をする。
宇佐神宮の御神体は「枕」
あおきさんは、宇佐神宮の祭神「比売大神」の御神体が「枕」である意味を、卑弥呼に「どうぞやすらかにお眠りください。四拍手とともに・・・」だと書いているが、これもチト違うかも。

地元・大分県の別府大学学長もつとめられた歴史学者の飯沼賢司さんによると、もともとは「八幡神」しか祀っていなかった宇佐神宮に「比売大神」が加えられたのは、奈良時代の731年のこと。
その当時の「御験(みしるし=御神体)」は、女性の「禰宜」その人だったそうだが、「道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件)」を境に女性禰宜の託宣の力を抑えようという方向に向かい、新たな「御験」として設定されたのが「薦枕(こもまくら)」だったという。
(『八幡神とはなにか』飯沼賢司/2004年)
奈良時代に決められた御神体が、500年前に死んだ卑弥呼と関係があるとは、ちょっと考えにくいとぼくは思う。

比売大神は三柱の中央にいる
宇佐神宮では、八幡神である応神天皇と、その母・神功皇后、それと比売大神の三柱を祀っているわけだが、中央に鎮座するのは主祭神の応神天皇ではなく、比売大神だ。
この点からあおきさんは、宇佐神宮は「まさに比売大神を祀るために築かれた神社」だというわけだが、中央が偉いのはお寺の仏像の場合で、神社の場合はそうとも言い切れない。
例えば長門国一宮「住吉神社」や、河内国一宮「枚岡神社」、阿蘇国一宮「阿蘇神社」、それに藤原氏の氏神「春日大社」などは、宇佐神宮に負けない歴史を誇る大社だが、いずれも主祭神は中央に鎮座していない(詳しくは関連記事を)。
【関連記事】宇佐神宮は卑弥呼のお墓か 〜『逆説の日本史』を30年ぶりに読んでみて〜

なお宇佐神宮の比売大神の正体について、上掲の飯沼さんは「在地の神や氏神的存在ではなく、政治的に作り出された神」だと考察されている。
もともと八幡神しか祀られていなかった宇佐神宮に、比売大神が加えられたのは731年のこと。この当時の日本は「新羅」との関係が悪化していて戦争目前、神々の霊力によるご加護が期待された時代だったそうだ。
八幡神は本来、南の「隼人」に対する境界神・軍神として宇佐に鎮座していたが、そのころ福岡市に創建した「香椎廟(香椎宮)」だけじゃ足りないとばかりに、さらなる霊威を求めて人工的に作られた神が「比売大神」だろうと、731年という鎮座の年代から、飯沼さんはお考えのようだ。

宇佐神宮は卑弥呼の古墳
宇佐神宮が鎮座する「亀山」は、南北120m、東西160mの小山で、倭人がいう卑弥呼のお墓「径百余歩=145m」と「ほぼ一致」する。
このことから、あおきさんは亀山(小椋山)を卑弥呼のお墓ではないかという作家、高木彬光の『邪馬台国の秘密』(1973年)に話をつなげる。
ここ亀山では、明治・大正・昭和時代にそれぞれ一度ずつ、修理保全工事が行われました。神域のため、ここで何を見たか、工事関係者はすべて外部に話してはならない、そういう決まりでしたが、高木先生のご功労により、ついに昭和期の現場監督の方が口を開いてくれたそうです。
神殿の横の上中2メートル下には、角閃石を見事に削った長持形の石棺が埋まっているという。そして、石棺のふたの横から、わずかに見えた直線的に彩られた真っ赤な朱色が、大変印象的だった、と。
(出典『邪馬台国は隠された』)
問題は、高木彬光が聞き取りした中の「長持形石棺」というのは、4世紀末頃から使われた棺だってことだろう(仁徳天皇陵など)。この件があまり有名じゃないのは、古代史に精通した高木彬光なら一瞬にして、古墳の年代が分かってしまったので、以後口をつぐんだからじゃないだろうか(想像)。
———といったあたりが、あおきてつお著『邪馬台国は隠された』を読んでのぼくの感想文になる。
ところどころに非常に興味深い話も載っていたが、全体としては、一般人が自由な発想で綴った趣味の発表・・・ってところだろうか。
