井手学太郎

邪馬台国

(4)「水行」は海を行くことではない 〜魏使の目的は冊封国の選定〜

朝鮮半島の「水行」への疑問邪馬台国はどこにあったのか。この鍵を握るのが、魏志倭人伝の「水行」という表現の解釈であることは間違いない。例えば手元の『倭国伝』(講談社学術文庫)では「船で行く」と訳されているが、ただし、それは「海を行く」ことでは...
邪馬台国

(3)南北軸と東西軸のふたつの「倭」 〜平野邦雄『邪馬台国の原像』〜

『魏略』と『魏志』の倭前回の記事では、長年に渡って邪馬台国=大和説の立場から多くの論文を発表してきた歴史学者・門脇禎二さんが、人生の最晩年になって、病床の中で九州説に転じた件について紹介してみた。門脇さんを九州説に転向させたきっかけは色々と...
邪馬台国

(2)邪馬台国=大和説への不安、訣別、そして九州説へ 〜門脇禎二『邪馬台国と地域王国』〜

邪馬台国=大和説への不安邪馬台国=大和説の論者の一人に、著名な歴史学者で2007年に亡くなった門脇禎二さんがいる。昭和20年代から京都大学で学んだ門脇さんは、「三角縁神獣鏡」の研究から邪馬台国=大和説を主張した考古学者、小林行雄の演習などを...
邪馬台国

(1)邪馬台国畿内説の「萬二千餘里」は「記号的数値」か

「萬二千餘里」は「記号的数値」か邪馬台国の「謎」はつまるところ、その所在地の問題につきるだろう。昔から、魏志倭人伝の「方位」をとれば九州に、「距離」をとれば畿内(大和)に、で争われてきたそうだが、現代人よりは漢文が身近にあった新井白石や本居...
垂仁天皇

(8)田道間守の「常世」は伊勢か 〜但馬の降伏と皇祖神アマテラスの誕生〜

但馬の降伏と日本書紀の常世日本書紀によると、垂仁天皇はその90年(長浜浩明さんの計算で286年頃)に「田道間守(たじまもり)」を「常世国」に遣わして、「非時香菓(ときじくのかくのみ)」を探させている。非時香菓とは「橘」のことだという。田道間...
垂仁天皇

(7)出雲大神がホムツワケ皇子に祟る 〜出雲がヤマトに降伏した日〜

物部十千根が出雲の神宝を検校する日本書紀によれば、垂仁天皇はその26年(長浜浩明さんの計算で254年頃)、物部十千根に命じて出雲の「神宝」を検校させている。物部十千根はその「委細を奏上」して、出雲の神宝の管理者に任命されている。物部十千根は...
垂仁天皇

(6)豊受大神宮(外宮)の成立 〜謎の「高倉山古墳」と偽書『倭姫命世記』

外宮の謎の神、トヨウケとは豊受大神宮(外宮)が祀るのは、内宮で祀られる皇祖神アマテラスの食事係といわれる「豊受大御神」———だが、このトヨウケは謎の神だという。まず我が国で最初の正史「日本書紀」に、トヨウケは一度も出てこない。なので鎮座の由...
垂仁天皇

(5)皇大神宮(内宮)の成立 〜謎の「荒祭宮」と「相殿神」〜

皇大神宮成立の「通説」いきなり引用からで恐縮だが、伊勢神宮の成立についての昭和の「通説」は、以下のようなものだった。しかし、現在の歴史学者の研究では、『日本書紀』の伊勢神宮創建の記事は「信用できない」という。たとえば直木孝次郎氏によれば、崇...
垂仁天皇

(4)倭姫命はなぜ伊勢に行ったか 〜日本書紀の「天照大神」と「伊勢大神」〜

倭姫命はなぜ伊勢に行ったか日本書紀によると垂仁天皇25年(長浜浩明さんの計算で253年頃)の2月、天皇は5人の重臣を前にして「天神地祇の祭祀」の強化を詔している。その一環として翌3月、垂仁天皇はそれまで皇女「豊鍬入姫命」が大和の「笠縫邑(桧...
垂仁天皇

(3)野見宿禰の「埴輪」と大和・柳本古墳群 〜メスリ山古墳の被葬者は?〜

野見宿禰の相撲と埴輪日本書紀に「野見宿禰」が登場するのは2回。まず垂仁天皇7年(長浜浩明さんの計算で244年頃)に、当時、最強の男とされた「当麻蹶速(たぎまのくえはや)」の「相撲」の相手として出雲国から招聘され、圧倒的な強さでクエハヤのアバ...
垂仁天皇

(2)狭穂彦王はなぜ皇位を狙えたのか 〜ヒメヒコ制と母系継承の終焉〜

サホヒコ王はなぜ皇位を狙えたのか日本書紀によると、垂仁天皇4年(長浜浩明さんの計算で243年頃)、皇后「狭穂姫命」の実兄「狭穂彦王」が「謀反を起こして国を傾けようとした」という。サホヒコは皇位を狙い、夫より兄を愛していると言った妹・サホヒメ...
垂仁天皇

(1)ツヌガアラシトと伊都都比古 〜秦氏の古事記のアメノヒボコ〜

ツヌガアラシトと鉄人「蚩尤」日本書紀によると崇神天皇崩御の年(長浜浩明さんの計算で241年頃)、福井県敦賀市の「笥飯浦(けひのうら)」に「意冨加羅国」の王子、「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」を乗せた船が停泊したという。「乗一船」とあるの...