井手学太郎

崇神天皇

(8)常陸国風土記の「建借間命」「比奈良珠命」「黒坂命」とヤマトタケル

常陸国風土記の崇神天皇崇神天皇の東国政策を知りたければ、東国に聞け―――ということで『常陸国風土記』の崇神天皇について。常陸国風土記によれば、崇神天皇が「東国の荒々しい賊」を討ち平らげようとして派遣した将は二人で、一人は「新治の国造の祖」だ...
崇神天皇

(7)「豊城入彦」の一族と群馬県の前期古墳 〜桜井茶臼山古墳の被葬者〜

豊城命は東国に赴任したか日本書紀によれば、崇神天皇はその48年(長浜浩明さんの計算で231年頃)、二人の皇子が睡眠中に見た「夢」で、皇太子をどちらにするかを占うことにした。兄の「豊城(とよき)命」は、御諸山(三輪山)から東に向かって武器を振...
崇神天皇

(6)崇神天皇と箸墓伝説/箸墓古墳 〜弥生のカミ殺しから前方後円墳祭祀へ〜

否定され、殺される弥生のカミ考古学者の石野博信さんによると2世紀末、つまり纒向遺跡の初期の頃、「纒向人」は徹底した「弥生のカミ殺し」を行ったのだという。その一つは「大福遺跡」で見られたような、銅鐸の「埋め殺し」で、彼らは銅鐸の内部に土砂を充...
崇神天皇

(5)四道将軍「吉備津彦」〜楯築遺跡から箸墓古墳へ〜

吉備津彦は実在の人物か日本書紀によると、崇神天皇10年(長浜浩明さんの計算で212年頃)に、勅命によって「西道」の「教化」に派遣されたのが、四道将軍の「吉備津彦」だ。九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、丹波道主命...
崇神天皇

(4)四道将軍「丹波道主命」〜丹後王国の終焉と椿井大塚山古墳〜

彦坐王と丹波道主王崇神天皇10年というから、長浜浩明さんの計算だと西暦212年頃、四道将軍の一人に選ばれて「丹波」の「教化」を担当したのが「丹波道主(たにはのちぬし)命」だ。丹波道主命の父は、第9代開化天皇の第三皇子「彦坐(ひこいます)王」...
崇神天皇

(3)四道将軍「武渟川別」〜東海の物部系国造と高尾山古墳〜

武渟川別と物部氏の東征崇神天皇10年(長浜浩明さんの計算で212年頃)、四道将軍の一人に任命され、「東海」の「教化」を担当したのが大彦命の子「武渟川別(たけぬなかわわけ)」だ。日本書紀によれば武渟川別は、のちの飛鳥時代に日本海側の東北地方を...
崇神天皇

(2)四道将軍「大彦命」〜北陸から会津へヤマトの拡張〜

孝元天皇と大彦命の親子関係日本書紀によると、第10代崇神天皇はその10年(長浜浩明さんの計算で西暦212年頃)、周辺国の「教化」を目的に、4人の将軍(四道将軍)を任命したという。そのうち北陸を担当したのが「大彦命(大毘古命)」。第8代孝元天...
崇神天皇

(1)オオモノヌシの祟りとアマテラス 〜崇神天皇と纒向遺跡〜

崇神天皇と疫病と大田田根子第10代崇神天皇の5年というから、長浜浩明さんの計算だと西暦209年頃、奈良盆地では人口の半数が死亡する疫病が蔓延したという。天皇は八十万の神々を集めて原因を占い、大和国の「大物主神」を敬い祀ればいいと言われたもの...
欠史八代

(9)彦坐王(ヒコイマス)の近江王国「伊勢遺跡」 ~和珥氏と息長氏〜

伊勢遺跡の謎の「祭殿」群記紀の記述を綜合すると、第9代開化天皇は日本海航路の確保を目指して、丹後を拠点とする旦波大県主「由碁理(ゆごり)」と手を結び、その娘「竹野媛」を妃に娶ったようだ。だが、ろくな道路もない時代のこと、大和から日本海に出よ...
欠史八代

(8)開化天皇と丹波の竹野媛 〜赤坂今井墳墓の旦波大県主「由碁理」〜

「欠史八代」の政略結婚日本書紀によると、「欠史八代」といわれる第2代綏靖天皇から第6代孝安天皇までの5帝は、皇妃(側室)に「磯城(しき)県主」の娘を入れている。磯城県主は、神武天皇に協力した大和土着の豪族「弟磯城(おとしき)」に始まる役職で...
欠史八代

(7)倭国大乱と妻木晩田遺跡/西谷3号墓 〜オオクニヌシの誕生〜

山陰最大の弥生ムラ「妻木晩田遺跡」いわゆる「倭国大乱」で「倭人」たちが殺し合いをしていたという2世紀後半に、その最盛期を迎えていた弥生ムラが山陰にある。鳥取県大山町の「妻木晩田(むきばんだ)」遺跡」だ。「晩田山」という小高い丘陵に広がった妻...
欠史八代

(6)倭国大乱と青谷上寺地遺跡/観音寺山遺跡 〜殺傷痕人骨と高地性集落

青谷上寺地遺跡の殺傷痕人骨636年に成立した中国の『梁書』によれば、「後漢の霊帝の光和年間(178〜183年)に倭国が乱れ、何年も攻め合った」。そこで「国人」は「鬼道」をあやつり衆を惑わす「卑弥呼」を王に立てたという。「邪馬台国畿内説」では...