(17)邪馬台国の女王・卑弥呼のお墓は「箸墓古墳」か「平原王墓」か

箸墓古墳 邪馬台国
写真AC

箸墓古墳の築造年代

邪馬台国の女王・卑弥呼のお墓の候補とされる、奈良県桜井市の「箸墓古墳」の築造年代には、大きくわけて3世紀「後葉」と3世紀「半ば」の2つの説があるようだ。

まず前者。

橿原考古学研究所に勤務して、「纒向遺跡」の発掘を担当した関川尚功さんによれば、箸墓古墳の「前方部」から出土した土器(二重口縁大型壺)は、形や大きさが定型化した「布留式古層」のものだという。年代でいうとAD270−290年頃のもので、箸墓古墳の完成もその頃になるという。

『考古学から見た邪馬台国大和説』関川尚功

関川さんとコンビを組んで纒向遺跡を発掘した石野博信さんも、3世紀中葉説は「容認できない」としていて、出土した土器の年代から、築造はAD280-290年頃だと主張されている。

なお、かつての相棒でありながら、邪馬台国の所在地については関川さんが「九州説」、石野さんが「大和説」を唱えている点は興味深い。ただお二人とも、箸墓古墳は卑弥呼のお墓ではないという点では、意見の一致を見ているわけ。

『最初の巨大古墳・箸墓古墳』清水眞一

新泉社の「遺跡を学ぶ」シリーズで、『箸墓古墳』を執筆した清水眞一さんも前者だ。箸墓古墳の「周濠」から出土した土器を調査した寺沢薫氏が、それらの年代を「布留0式」(AD270年頃)としていて、関川さんも概ね同意されているようだ。

箸墓古墳
(写真AC)

一方、箸墓古墳の築造年代を3C半ばとして「卑弥呼の墓である」と発表したのが、千葉県佐倉市にある国立「歴史民俗博物館」だ。

箸墓古墳の周濠から出土した土器の「表面に付着した炭化物」を「炭素14年代測定法」で測ったところ、AD240−260年という数字が出たのだという。卑弥呼が死んだのはAD248年頃なので、ちょうどいいタイミングというわけだ。

ただこの歴博の主張には、いろいろ問題点もあるらしい。

だが、測定資料はほんのわずかで資料の履歴も判然としないものであり、基本となる再測定などの検証も出来ず、それに、「炭素14年代測定法」は西暦3世紀というような近時代の測定においては僅かな資料では誤差も大きく信憑性がなかったのである。

データのクロスチェックという方法は自然科学では当然のようになされる基本作業なのであるが、この論文は、それをまったくしていなかったのだ。

(『露見せり邪馬台国 目を覚ませ!歴史学・考古学よ』中島信文/2013年)

なので『露見せり邪馬台国』の中島信文さんは、歴博の発表は学問的なものとは言い難く「単に一部の考古学者がマスコミ(※主に朝日新聞)を利用して世間の注目を奈良県桜井市の箸墓古墳に集めるため」のものだと書かれている。

要は、箸墓古墳のある纒向遺跡が、邪馬台国の都であることを主張するための政治的な発表、ということのようで、2009年5月にこの研究結果を発表した後、歴博は(2013年現在)批判には何一つ反論せず、「押し黙ったまま」だという(最新の状況は不明)

(写真AC)

女王を「共立」しなかった人々

もちろん本当に箸墓古墳が卑弥呼のお墓なら、邪馬台国の都が纒向遺跡にあったことへの反論は出てこないだろう。だが、ぼくが今イチそうは思えない理由が、本州の西日本に点在している「王墓」の存在にある。

魏志倭人伝によれば、AD180年代に「倭国大乱」を収束させる手段として、巫女である卑弥呼が女王に「共立」されたという。そしてそれ以後、「倭国」のクニグニは女王に統治されるようになったとある(皆統屬女王國)。

ところが卑弥呼が「倭国王」に推戴された2C後葉から3C前半、まだ奈良盆地には「王墓」の気配さえない時代に、身勝手にも自分らの「王墓」をつくっていた不届き者がいた。

楯築墳丘墓
(楯築墳丘墓)

まずは吉備で、その王墓「楯築(たてつき)墳丘墓」は全長80mもあって、弥生時代としては日本最大。みんなが「倭国大乱」を収めるために卑弥呼を女王に「共立」していたAD180年頃、吉備では自分らの王のためにデッカいお墓をつくっていた。

棺の下には当時は貴重品だった「朱」を、実に32kgも敷いていたそうで、吉備王はありあまる富と権力を持っていたようだ。

西谷3号墓
(西谷3号墓)

同じ頃、出雲でも王墓をつくっていて、山陰地方で共有されていた墓制「四隅突出型墳丘墓」のひとつ、「西谷3号墓」。全長55mx40m、高さ4.5mと、こちらもかなりの規模だ。

葬儀には、日本海側「丹越」の土器が46点(21%)、吉備からの土器32点(14%)などが持ち込まれていて、100人以上が参列した盛大なものだったと考えられているようだ。

吉備で生まれた「特殊器台」「特殊壺」も持ち込まれていて、出雲人と吉備人が一種の同盟関係にあったことを物語っているそうだ。

巨大な赤坂今井墳丘墓
(赤坂今井墳丘墓)

AD200年頃に築造された、丹後の王墓が「赤坂今井墳丘墓」で、墳丘長は39mx36m、高さ3.5m。出土した土器からは、山陰、北陸、東海からの弔問客が想定されるそうだ。

———といった連中が、倭国大乱の収束前後に、せっせと自分たちの王墓づくりに励んでいた不届き者になるが、気になるのはこれらの地域から奈良盆地の土器がみつかっていないこと。大和の人たちはこれらの葬儀に参列していないようだが、全くの無関係だったんだろうか。

ならば仮に奈良盆地に邪馬台国があったとしても、吉備や出雲、丹後あたりの王たちは、卑弥呼の女王「共立」には参加していない可能性が高い。

特に出雲では、3C前半の段階に入っても4号墓、9号墓と自分たちの王墓を作り続けていたわけで、おそらくは「倭国」の連合にさえ参加していなかったのだろう。

ちなみに山陰では最大級の弥生集落「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」が、その規模を300haにまで拡大して最盛期を迎えたのは、まさに卑弥呼の共立で倭国大乱を収めたという、2C後葉のことだという。山陰はそもそも倭国大乱とは無関係だった可能性もある(青谷上寺地についてはこちらを)

『前方後円墳とはなにか』広瀬和雄

前方後円墳(箸墓古墳)の成立

といったかんじで、邪馬台国時代の本州西日本の「王国」と、卑弥呼の「女王国」にはあまり関係がなかったとすると、大和説にとっては厄介な問題が一つでてくる。

それはこのあと、奈良盆地に前方後円墳が誕生する過程において、西日本の「王国」の王墓の要素が、かなり取り込まれた可能性があることだ。

北部九州は中国鏡をはじめとした多彩な品々の副葬、出雲は墳丘斜面への葺石(貼石)、丹後は刳抜式木棺や鉄器の副葬、吉備は円筒埴輸につながる特殊器台形土器や特殊壷形土器の樹立、近江や東海は前方後方形の墳丘など。

それら弥生墳墓の諸要素を統合して、斉一度を高め、大型化によっていっそうのビジェアル化をはかった墳墓様式が、3世紀中ごろに成立した前方後円墳である。

(『前方後円墳とはなにか』広瀬和雄/2019年)

もしも3C前半の奈良盆地にあった政権が、魏志倭人伝に載る「女王国」ではなく、中国人が「倭種」と呼んだ人たちによるものなら、何も厄介なことはない。中国人の記録にないだけで、そういう古代日本人の政権がそこにあった、というだけで終わる話だ。

困るのは、あくまで畿内政権が「倭人」による邪馬台国だった場合だけで、その政権はすでに山陽、山陰、北近畿、北陸、近江や東海にまで勢力を広げる実力を誇りながら、なぜか、たかが「狗奴国」程度に苦戦して、魏王朝に救援を乞うという、強弱も立ち位置も良くわからない不思議な政権ということになってしまう。

なお、上に引用した広瀬和雄さんは当時は歴博の教授だったので、箸墓古墳の成立年代は3C中ごろとされている。ただ、箸墓古墳の状況が倭人伝の記述と一致しないため、それが「卑弥呼の墓」だと断定するのは時期尚早だとも書かれている。

都怒我阿羅斯等の像
(JR敦賀駅前の「都怒我阿羅斯等」2021年夏見物)

都怒我阿羅斯等と一大率

ところで誰もが知るように、皇室の正史・日本書紀には「邪馬台国」も「卑弥呼」も出てこない。だが、長浜浩明さんの計算にしたがえば、日本書紀と倭人伝の接点が見えてくる。

日本書紀によれば、第10代崇神天皇が崩御したとき、というから長浜浩明さんの計算だとAD241年頃、加羅の王子を自称する「ツヌガアラシト」がヤマトへの帰化(帰順か?)を求めて来日したという。

ところがツヌガは穴門(長門/山口県)で「伊都都比古(いつつひこ)」と名乗る人物につかまって、自分こそがこの国の王だからここに留まれと説得される。しかしツヌガは伊都都比古を王だとは思えずに退去すると、出雲を経由したのち、纒向の都に至ったという。

角鹿神社
(都怒我阿羅斯等を祀る「角鹿神社」2021年夏参詣)

日本書紀や風土記には、吉備津彦命、菟狭(宇佐)津彦命、伊勢都比古、阿蘇都彦命など、地名+ツヒコの人物が出てくるが、いうまでもなくその地名の首長を示す名前で、伊都都比古は「伊都(糸島)」の首長の一般名詞になるんだろう。

ところが説話では、伊都都比古はなぜか糸島ではなく穴門にいた。伊都の首長でそこまで広域に権勢を振るえた人物がいたかというと、倭人伝にでてくる「一大率」が思いつく。

一大率は邪馬台国が伊都国に常駐させた「検察」を掌る役職で、諸国に睨みをきかせていたという。「箱式石棺」の分布などを見ると、当時は広島あたりまで北部九州の文化圏が広がっていたようなので、穴門ぐらいなら余裕で一大率の監督下にあった可能性はあると思う。

ただこのときの伊都都比古を一大率だと考えた場合、奈良盆地にはすでに10代続いた皇室を中心にした政権があり、邪馬台国はそれとは別の場所にあった別の政権ということになるわけだが・・・。

『邪馬台国時代のクニの都・吉野ヶ里遺跡』七田忠昭/2017年

筑紫平野の「共立」する文化

話を戻すと、邪馬台国時代の本州西日本では、吉備、出雲、丹後などがそれぞれ独立した王国として繁栄していたようだが、同じころ、首長を「共立」する文化があったのが佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」だ。

吉野ヶ里では弥生中期(BC200-AD50)に、集落内に40mx30m、高さ4.5mの「墳丘墓」を造営し、歴代の首長はそのなかに埋葬されたという。墳丘墓が造営されたのち、周辺集落から銅剣などを副葬したお墓がなくなることから、吉野ヶ里の首長は周辺集落から「共立」され、死後は吉野ヶ里に葬られたと考えられているわけだ。 

(出典『邪馬台国時代のクニの都・吉野ヶ里遺跡』七田忠昭2017年)

ところがこの「墳丘墓」は後期に入ると使われなくなって、今度は吉野ヶ里の周辺に銅鏡や武器類を副葬したお墓があらわれるようになったのだという。

首長が周辺集落から「共立」された点は変わらないが、その死後は「自身の出身地である集落の墓地に家族とともに葬られる埋葬法」になったのが、邪馬台国時代の吉野ヶ里だったようだ。

なお、似たような話は5世紀頃にもあって、地方から天皇に嫁いだお妃は、その死後は故郷に戻ってヤマト式の前方後円墳の被葬者として顕彰された、という説がある。「帰葬」といって、吉備や日向などにそんな皇妃の古墳が考えられているようだ。

【関連記事】日向「西都原古墳群」の「女狭穂塚/男狭穂塚」は誰の墓か

吉野ヶ里遺跡の「逆茂木」
(逆茂木 写真AC)

倭国大乱では誰と誰が戦ったのか

吉野ヶ里歴史公園といえば、魏志倭人伝が卑弥呼の宮都にあったという「物見台」や「砦」をはじめ「外壕」「逆茂木」「乱杭」などの防御設備がたくさん再現されていて、ぼくらにそこが「倭国大乱」の舞台だったことを実感させてくれる場所だ。

だがそれにしても、倭国大乱とは誰と誰が戦ったものなんだろう。

それを『信長の野望』みたいに、西日本諸国が朝鮮半島の鉄資源へのルートを巡って争ったなんて説もあるが、その割には畿内からは3C後半にならないと鉄器が出土しないという矛盾があったりする。

吉野ヶ里遺跡の環壕
(外壕 写真AC)

倭国大乱の結果、倭国連合の上位に女王として卑弥呼が「共立」されたんだから、それ以前は「王」が乱立してたかというと、『後漢書』にはAD107年に「倭国王」の帥升(すいしょう)が後漢に朝貢したという記述があって、「倭国」という連合はすでに成立していたことが分かる。

んでこの帥升については「伊都国」の王だという説が有力なようで、弥生後期前半(AD50−150)頃に糸島市につくられた、「井原鑓溝遺跡」という王墓の被葬者だと見られているらしい。

「井原鑓溝遺跡」は今では失われてしまった遺跡だが、記録によれば貴重な「方格規矩鏡」が19面以上出土した「厚葬墓」だったという。

『倭人伝に記された伊都国の実像 三雲・井原遺跡』

そういえば「倭国王」が存在していた弥生後期の北部九州には一つ不思議なことがあって、倭国大乱のあとに採用されたという北部九州の墓制「箱式石棺」の分布や、あるいは墳墓に副葬された銅鏡の出土地からは、北部九州一帯に首長クラスの上級国民が大勢いたことが分かるのだという。

特に筑紫平野にはいずれも集中的に分布していて、この事実をもって邪馬台国「九州説」の巨星・安本美典さんは「邪馬台国=朝倉市」説を唱えているわけだが、ぼくにはむしろ、筑紫平野は良くいえば独立心の強い、悪くいえばまとまりのない、小国がわさわさ集まってる場所にも見えなくもない。

そして伊都国の「倭国王」の支配を拒む、「連邦」のような集まりにも見えなくない・・・。

弥生時代後期の箱式石棺の分布
(出典『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』安本美典/2019年)
九州島弥生後期後半の鏡出土地
(出典『卑弥呼の鏡が解き明かす 邪馬台国とヤマト政権』藤田憲司/2016年)

ということで、ここから先はニワカの一般人の空想になるが、吉野ヶ里のように、周辺集落から「共立」された首長が治める小さなクニグニが集まって、筑紫平野になんとなく形成されていた「連邦」と、玄界灘に面した「王制」のクニが戦ったのが「倭国大乱」だったのでは———なんて印象を、現時点のぼくは持っている。

福岡県の考古学者によれば、伊都国のお隣り、福岡市にあった「奴国」でも王墓(須玖岡本)をつくっていて、両者は「墳丘と区画を持つ墳墓の構造など」が共通していることから、「両国の王統が(例えば親戚関係など)密接な関係にあった」ことが考えられるという。

(『倭人伝に記された伊都国の実像 三雲・井原遺跡』河合修/平尾和久/2024年)

こうした「王」を戴く伊都国/奴国に対し、筑紫平野の「連邦」が支配を拒んで抵抗した———と、仮にそんな歴史があったとして、このとき勝利したのは「連邦」の側だったのだろう。倭人伝には、伊都国と奴国に現役の王がいたとは書かれていないし、両国は一大率の監督下にあった可能性が高い気がする。

また、伊都国の王都「三雲・井原遺跡」では、(帥升の?)「井原鑓溝遺跡」の後の王墓が見つかってないし、奴国でも弥生後期の王墓はみつかっていない。両国の王統は途絶え、廃止された可能性もあるのかも知れない。

三雲南小路遺跡
(三雲南小路遺跡)

卑弥呼と台与の出自と血統

さて仮に「王制」と「連邦制」が戦って後者が勝ったのだとしても、魏志倭人伝には「連邦」の上に「共立」された卑弥呼がいると書いてある。この巫女はいったいどこから来たのだろう。

ただ、もしも卑弥呼がもともと筑紫平野にあったクニの王統だとしたら、上の方の箱式石棺や銅鏡の分布にはならないだろう。筑紫平野でももっと富の独占がおこなわれ、一点に集中した出土になったように思われる。

実際、奴国の王墓(須玖岡本遺跡)からは30面以上、伊都国の王墓(三雲南小路遺跡)からは50面以上の漢鏡が出土していて、富の独占は明らかだ———というか、それこそが「王墓」の条件だと定義されているようだ。

ってことで、王統もなければ王墓もない筑紫平野に、どこからともなく降臨してきて、女王に「共立」されたという卑弥呼とは何者か・・・。

卑弥呼の死後には男王が立ったが、これを不服とした内戦が起こり、1000余人が死んだという。やむをえず「卑弥呼の一族の娘」である「台与」(「卑彌呼宗女壹與」)を女王に立てたところ、今度も戦いは収束したというが、この誰もが納得する「一族」って、いったい誰のことを指すんだろうか。

吉野ヶ里遺跡の柵
(写真AC)

卑弥呼の「銅鏡百枚」はどこに

ぼくが倭人伝の描写で引っかかるのが、卑弥呼が人に会わずに引きこもり、物見台や砦などの防御設備に囲まれて、常に武装した守備兵に守られていたという点。仮にこれが敵対する狗奴国との戦闘に備えてというのなら、守るべきはクニの外側で、卑弥呼の周囲を固めても意味はないだろう。

ぼくが上の描写から感じるのは、そこは卑弥呼が生まれ育った故郷ではないんじゃないかということ。そこが親しんだ故郷なら、兵に守らせて引きこもる必要はないような気がする。

井沢元彦さん風に「逆説」で考えるなら、卑弥呼は邪馬台国の住人に殺されないように、その居館が厳重にガードされているんじゃないか(まるで人質ででもあるかのように)・・・。

平原遺跡
(平原王墓)

弥生終末期の糸島市につくられた、邪馬台国時代としては最後の王墓となるのが「平原(ひらばる)王墓」だ。

地元の研究者によれば、たしかに平原王墓は伊都国の近くにあるものの、その王都である「三雲・井原遺跡」の内部にある王墓「三雲南小路」「井原鑓溝」からは、1.4km離れた丘陵の尾根上に造営されているのだという。

また、平原王墓を含む「平原遺跡」は、弥生後期から古墳前期まで継続して5基のお墓が造営された「墳墓群」で、中心地の「井原鑓溝」などとは併用して運用されていたという。

どうやら、伊都国では「傍流」となる王墓が平原王墓———ってことのようだ。

伊都国の三つの王墓の位置関係
(出典『倭人伝に記された伊都国の実像 三雲・井原遺跡』)

平原王墓は、副葬品の構成から「女性」のものだと考えられていて、その目玉となるのが40面という大量の銅鏡だ。なかでも5面も出土した超大型の「内行花文鏡」はその直径が46.5cmで、弥生時代ではもちろん最大。このサイズは日本神話に出てくる「八咫鏡」と一致するのだとか。

(内行花文鏡:出典『倭人伝に記された伊都国の実像 三雲・井原遺跡』)

平原王墓に副葬された銅鏡は、「内行花文鏡」が7面と「方格規矩鏡」が32面、それと「四ち鏡」が一面の計40面。これらの多くは中国鏡にはみられない特徴を持つことから、仿製鏡(国産)だとする見方が強いのだという。

だが前回の記事でみたように、これらを「鉛同位体比4軸チャート」にプロットしてみれば、下の「図表5−A」の通り。平原王墓の「内行花文鏡」と「方格規矩鏡」は、紀元前に副葬された「須玖岡本遺跡」の前漢鏡と同じチャートを描くので、まごうことなき「舶載鏡(中国製)」だ。

弥生時代の鏡の鉛同位体比チャート
(出典『卑弥呼の鏡』藤本昇/2016年)

鏡を専門とされる考古学者・辻田淳一郎さんも「平原遺跡出土鏡の同型鏡が各地に贈与されたような状況は認められない」と断りつつ、「基本的に40面全てが舶載鏡」で「2世紀代でも新しい時期に製作されたもの」だろうと書かれている。

さらに平原王墓の被葬者について、辻田さんはケッコー踏み込んだ考察をされていて、非常に興味深いのでブツ切りになるが引用してみる。

・・・平原一号墓の被葬者や地域集団が他地域より「上位」であると考えることは難しく、北部九州の内部も含め、各地の上位層とは並列的な状況と考えるのが妥当であろう。

・・・鏡の内容という点で楽浪郡側からみた場合は、平原一号墓の被葬者は対外的な代表者として位置づけられていたものと考えられるが、 一方で列島内部での関係という点では、同列的な地域間関係の中での窓口役あるいは先に挙げた水先案内の調整役といった立場の被葬者像が浮かんでくる。

・・・平原一号墓の内行花文鏡は、後漢王朝の周辺地域の王への贈与という意味において、鉄鏡ではなく青銅鏡であるものの、極大の同型鏡を五面という扱いは、他地域と比べても破格の厚遇であったと考えられよう。

・・・逆にこの点からすれば、平原一号墓の被葬者については、列島の外部からの評価と列島の内部での評価の間に大きな「ずれ」があったと考えることができる。

(『鏡の古代史』辻田淳一郎/2019年)
『鏡の古代史』辻田淳一郎

ぼくなりにまとめれば、平原王墓の被葬者は九州ローカルの王に過ぎなかったが、中国側からは日本全体の窓口として厚遇されていた・・・。

これはまさに、ぼくが卑弥呼に対して持っているイメージそのものだ。卑弥呼の実態は北部九州の「連邦」の上位に配置された宗教的権威でしかなく、熊本平野の「狗奴国」に苦戦してしまう程度の実力しかなかった。

一方、そのころの本州西日本では、吉備、出雲、丹後、近江などと手を結んで(傘下にして?)、その盟主におさまった畿内ヤマト政権が、連携する諸国の墓制の特徴を取り込んで、目に見える統合のシンボルとしての、超巨大古墳の造営に取り掛かっていた———。

(出典『倭人伝に記された伊都国の実像 三雲・井原遺跡』)

ぼくは現時点では、卑弥呼と台与は「連邦」に敗れて途絶えてしまった伊都国/奴国の王統の、傍流にあたる高貴な血筋の人だったんじゃないかと思っている。

それで卑弥呼が亡くなったとき、吉野ヶ里などの筑紫平野で行われていた「帰葬」———すなわち「共立」した首長が亡くなったあとは故郷に埋葬するという流儀に則って、伊都国のはずれに葬られたんじゃないか、とも思っている。

卑弥呼が魏の皇帝から下賜された「銅鏡百枚」は、そのうち価値の高いもの40枚が卑弥呼の墓所に副葬され、残りの60枚は畿内への移住の見返りにヤマトに献上され、名のある将軍や皇后、皇妃、皇子、皇女のお墓に副葬されたんじゃないだろうか。

(箸墓古墳 GoogleEarth)

箸墓古墳と垂仁天皇

———といったあたりが、ぼくが考える3C前半の西日本の歴史。

いろいろと説明不足の不安はあるが、ただのニワカの一般人の空想なので、スキマは適当に埋めてください。各リンク先には多少は詳しい説明もあります。

んで、さて卑弥呼のお墓はその実家のある伊都国の平原王墓だとして、それじゃ纒向の箸墓古墳は誰のお墓かといえば、それは「四道将軍」を派遣して吉備、出雲、丹後、北陸、東海と手を組んだ(傘下に収めた?)第10代崇神天皇(在位207−241年頃)のものだと思っている。

もちろん息子である第11代垂仁天皇(在位241−290年頃)が、上記の諸国と協力して、父の偉業を顕彰するために造営したものだろう。もしかしたら、その築造に必要な肉体労働を確保するために、北部九州からの移民を募った可能性もあるか(むろん想像)。

纒向石塚古墳

箸墓古墳の築造年代については、ぼく的には歴博のAD250年前後の方が都合がよろしいんだが、地元・奈良の考古学者の見解を尊重して、AD270~290年のどこかでも問題ないと思っている。

というのも、皇室には「改葬」といって、後からより巨大な古墳をつくって顕彰しなおしたケースが結構あるから。欽明天皇、敏達天皇、推古天皇などに「改葬」の可能性が指摘されているようだ。(『敗者の古代史』森浩一/2022年)

崇神天皇も、その玉体は一時は3C半ばに「纒向石塚古墳」などに埋葬されたものの、箸墓古墳の完成の後に取り出され、再び葬儀が行われ、新築の超巨大古墳に再埋葬された———って可能性もなきにしもあらずでは。


———といったあたりで、”ぼくがかんがえるさいきょうのやまたいこく”は終わりです。これでぼくの中では3世紀の本州と九州の歴史がリンクしたので、引き続き第12代景行天皇に話を進めようかと思いましたが、なんだか食い足りないような気分も・・・。

というわけで、しばらくは「勉強記」として、邪馬台国関連の「読書感想文」シリーズをやっていきます(つまらなかったら数回で終わるかも)

景行天皇(1)につづく・・・予定。

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