(10)安曇族と奴国「比恵・那珂遺跡群」と「須玖遺跡群」〜北部九州とヤマト〜

「漢委奴国王」金印 邪馬台国
写真AC

奴国は呉の「太伯」の後裔

5世紀に成立した『後漢書』によると、AD57年に「倭奴国」が後漢に朝貢し、光武帝から金印(漢委奴国王)を授けられたという。

265〜270年代に成立し、魏志倭人伝(三國志)のネタ元になったとされる『魏略』逸文によると、このとき「倭奴国」の使者は、自分を「太伯」の後裔だと告げたという(「自謂太伯之後」)。

志賀島
(志賀島 写真AC)

「太伯」は周王朝の祖「古公」の長男で、BC12世紀頃に「呉」を建国したという人物。その呉はBC473年に「越」によって滅ぼされたが、呉人たちは得意の海洋術で海を渡り、日本列島に移住してきたという説がある。

太伯の子孫を自称した「倭奴国」の大夫が与えられた金印がみつかったのは博多湾の「志賀島」で、古代にその地域を拠点にした豪族が「安曇氏(阿曇氏)」。

三段論法的に、「倭奴国」の人たちが後に「安曇族」になったということになりそうだが、詳しいことは以下の記事にて。

奴国の推定範囲
(出典『奴国の王都・須玖遺跡群』井上義也/2024年)

奴国の二つの大集落

さて魏志倭人伝には、伊都国から東南500里で2万余戸・・・としか書かれていない「奴国」だが、弥生中期から後期にかけて、博多区の「比恵・那珂遺跡群」と春日市の「須玖遺跡群」という二つの大集落が、大いに繁栄したんだそうだ。

地元の研究者・久住猛雄氏によれば、「須玖遺跡群」は「政治・祭祀センター(王都)」で遺跡面積は200ha、「比恵・那珂」は「交易センター(商都)」で遺跡面積が140haだという。

あの有名な「吉野ヶ里遺跡」が40haというんだから、奴国の規模はトンでもないものだ。

『奴国の王都・須玖遺跡群』

「須玖」の「岡本」からは弥生中期末(紀元前の終わり頃)の「王墓」がみつかっていて、甕棺墓からは30面前後の中国鏡が出土。うち3面は、中国でも王侯クラスの墳墓に副葬される大型鏡だという。

他にも武器型青銅器10本、弥生最大級のガラス勾玉やガラス璧も出土して、「被葬者が漢に厚遇されていた」ことが良く分かるのだという。

春日市 奴国の丘資料館
(春日市「奴国の丘資料館」2022年春見学)

「王墓」というと、同時代のお隣り伊都国には「三雲南小路遺跡」があって、銅鏡35面他の豪華副葬品が出土している。この両者は「墳丘と区画をもつ墳墓の構造など」が共通していて、「伊都国と奴国、両国の王統が(たとえば親戚関係など)密接な関係にあった」と考えられているようだ。(『倭人伝に記された伊都国の実像・三雲井原遺跡』河合修/平尾和久/2024年)

伊都国王の甕棺墓
(伊都国王の甕棺墓)

ただ、伊都国では「三雲南小路遺跡」につづく王墓として、『後漢書』がAD107年に朝貢したと書く「倭国王・帥升」のお墓の候補「井原鑓溝王墓」と、弥生終末期の「平原王墓」がみつかっているのに対し、奴国では「須玖岡本」以外の王墓がみつかっていないのだという。

例のAD57年に光武帝から金印を下賜された「漢委奴国王」のお墓も未発見なんだそうだ。

甕棺
(甕棺)

あ、でも伊都国も「平原王墓」についていえば、伊都国の中心部(三雲・井原遺跡)からは1.4kmも離れた丘陵に造営されていて「それまでの伊都国王墓の王統とは異なった、別の首長系譜の墓」だという説もあるようだ。
(『倭人伝に記された伊都国の実像・三雲井原遺跡跡』河合修/平尾和久/2024年)

整理してみれば、伊都国と奴国の王統には「密接な関係」があったようだが、2世紀始めの「井原鑓溝王墓」を最後に、確実に両国の王統だと断言できるお墓はみつかっていない———ってことになるんだろうか。

『二万余戸の実像・奴国』伊都国歴史博物館/2021年

奴国の青銅器コンビナート

魏志倭人伝によると、邪馬台国時代の「伊都国」には楽浪郡の使者の宿泊所があり、「一大率」なる検察官が置かれて港で文書や賜り物のチェックを行ったという。

そのせいか、弥生後期の大陸からの文物は伊都国に集中し「外交・交易の主導権は伊都国へと集約化」されていたんだそうだ。
(『二万余戸の実像・奴国』伊都国歴史博物館/2021年)

青銅器生産の様子

そうやって伊都国が「交易立国」として活躍していた頃、奴国はというと「北部九州のみならず、わが国全体でみても一大中心地」とされる、青銅器生産を中心にした「工業立国」として栄えていたそうだ。

当時、青銅器の先進地域だった北部九州では、400点以上の「鋳型」が出土していて、そのうち230点が奴国の須玖遺跡群から出土しているのだという。特に「銅矛」の生産は奴国に集約されていたようで、「中型」については700点以上が確認されているのだとか。

北部九州における青銅器鋳型の分布状況
(出典『奴国の王都・須玖遺跡群』)

んで青銅器の大量生産には「継続的な原材料や工人の確保が必要」で「その体制を統括する存在が必要」なので、お墓はみつからなくとも歴代の「奴国王」はいたと、地元では考えられているようだ。

ただチト不思議なのは、もうひとつの青銅器生産地である近畿では、鋳型に「土製」を使っていたのに、北部九州では「石製」を使っていた点。

また近畿ではフイゴの送風管も「土製」だったが、これも北部九州ではみつかっておらず、遺物として残りにくい「竹」などの有機物を利用した可能性が考えられているんだそうだ。

これはつまり、青銅器生産に関する限り、奴国と近畿は技術を共有してはいなかった———ということになるんだろうか。

なお、奴国が鋳型に使った石材は、福岡県八女市の矢部川流域から運ばれたことが分かっているそうだ。

西新町遺跡遠景(南から)
(出典『西新町遺跡〜古墳時代初頭、日本列島最大級の国際貿易都市』九州歴史資料館)

「西新町遺跡」「博多遺跡群」とヤマト

さてここまでの話は、魏志倭人伝が「倭国」と呼ぶ連合体時代の奴国(と伊都国)について。

倭人伝によれば、AD247か248年頃に女王・卑弥呼が死に、後継者に男王を立てたところ再び内戦が勃発して、千余人が死んだという。それで卑弥呼の宗女(血縁や一族)で13歳の「壱与(台与)」を女王に立てることで、事態を収拾したのだという。

じゃあその先、つまり古墳時代に入ってからの奴国は、どんなかんじだったんだろう。

那珂八幡古墳の墳丘復元図
(出典『二万余戸の実像・奴国』)

その後の奴国では、まず「須玖」の集落は縮小し、青銅器生産も行われなくなっていったらしい。奴国の王都は北の「比恵・那珂」に移ったと考えられていて、その「王墓」が福岡平野では最古の前方後円墳「那珂八幡古墳」(86m)だという。

那珂八幡古墳の築造年代については、第一主体部が神社の社殿の下にあって未調査だそうだが、その墳形が「纒向勝山古墳」(115m)にルーツがあるとのことで、それなら「勝山」の築造年代とされる「庄内Ⅱ式期」(250−270年)よりは、後ということになるんだろう。

勝山古墳
(出典『ヤマトと伊都国』伊都国歴史博物館/2023年)

それと図録『奴国』によれば、古墳時代に入ると大陸との交易の拠点は、糸島半島から博多湾沿岸に移ったという。その中心が、早良区の「西新町遺跡」だ。

地図で見ると、ちょうど奴国の王都「須玖」と伊都国の王都「三雲井原」の中間地点にあるようにみえるのが西新町遺跡。3世紀末から4世紀前半の日本列島では、最も多く朝鮮半島系の土器が出土しているんだそうだ。

また、西新町遺跡には「4世紀頃」になると全国の土器が集まってきていて、なかでも多いのが畿内の「布留系土器」だという。この布留系土器は、「纒向編年」だとAD290年頃にスタートしたもののようだ。

※西新町遺跡について、詳しくは『土器が語る。多文化交流の町、西新町遺跡』(九州歴史資料館)や『砂丘の遺跡 西新町・藤崎遺跡』(福岡市博物館)などを。

奴国の鉄器生産
(出典『二万余戸の実像・奴国』)

あと、3世紀後半の奴国では「博多遺跡群」で鉄器の生産もはじめていて、革新技術である「筑紫型のフイゴ羽口」は3世紀末には「纒向遺跡」にも伝わっていたそうだ。

———というわけで、ここまでの話を綜合してみれば、卑弥呼が死んでイヨ(トヨ)が後を継いだ3世紀後半から末にかけて、奴国には奈良盆地の布留系土器が搬入され、前方後円墳が築造され、その一方で、鉄器生産の技術は奴国から纒向に伝えられていたようだ。

つまり、奴国や伊都国が畿内ヤマトとつながって「連動した対外活動」を行うようになったのは、3世紀後半から末の話、ということのようだ。

しかし邪馬台国を盟主とする「倭国」のツートップは奴国と伊都国なわけで、もしも卑弥呼の都が奈良盆地(纒向)にあったとしたら、そこは卑弥呼の死後に初めて奴国・伊都国とつながりを持ったことになるので理屈に合わない。

やはり、奴国・伊都国そして邪馬台国は北部九州の「倭国」のメンバーで、そこに(倭種の)畿内ヤマトが3世紀後半になってから関与してきた、と考えたほうが話の辻褄がスッキリ合うような印象が、ぼくにはある。

安曇氏が祀る「志賀海神社」
(安曇氏が祀る「志賀海神社」2022年春参詣)

安曇氏とヤマト

だが仮に、邪馬台国が北部九州のどこかにあったとして、3世紀後半に畿内ヤマトが奴国と手を組み始めた頃、その盟主は何をしていたんだろうか。ボサッと傍観していたんだろうか。

日本書紀によれば、ヤマトが初めて九州に軍団を上陸させたのは、第12代景行天皇の12年8月。それは長浜浩明さんの計算だと、AD296年頃のことになる。

このとき景行天皇(ヤマトタケルの父)は、大分から宮崎に進み、朝貢を拒否した「熊襲」を討ったのち北上、阿蘇から大牟田をまわって「八女(やめ)県」に至っている。

その際、八女県の山中には「八女津媛」なる神がいると天皇に奏上したのが、従軍していた「水沼県主・猿大海」なる人物。日本書紀の神代(一書)によれば、「筑紫の水沼君ら」は宗像三女神を祭る人たちだという。

遥拝所
(遥拝所)

また「肥前国風土記」の「松浦郡」の記事によると、景行天皇の巡幸には「阿曇連百足(ももたり)」が従って、威力偵察の任務についていたことが分かる。

これらをみた印象では、どうやら西暦300年頃までには北部九州の「宗像」や「安曇(奴国)」は畿内ヤマトとは友好関係を築いていたようで、それは「西新町遺跡」や「博多遺跡群」の考古学的FACTとも一致しているように、ぼくには思える。

だがそんな状況下で、イヨ(トヨ)の邪馬台国が健在だったとはチト考えにくい。おそらくすでにイヨ(トヨ)は亡くなっていて、邪馬台国を盟主とした「倭国連合」は解体されていたんじゃないだろうか。

「皇室の記録」である日本書紀にそこら辺の記述がないところからすると、邪馬台国の滅亡にはヤマトは関与しておらず、それは北部九州のクニグニの手で行われたのだと思われる。そして大陸の動乱を恐れた北部九州諸国が新しい盟主として担ぎ上げるかたちで、景行天皇の西征と巡幸が行われたんじゃないか———そんな印象をぼくは持っている。

んじゃイヨ(トヨ)はどうなったかといえば、八女県の女神になったか、あるいは久留米市の筑後国一の宮「高良大社」の祭神(トヨヒメ)になったか・・・は、この先ボチボチ考えていく予定。

※以前に考えたときの記事はこちら(邪馬台国の滅亡|ぼくらの日本書紀)。

邪馬台国(11)につづく

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