(2)欠史八代と「唐古・鍵遺跡」 〜渡来人と神武天皇〜

唐古・鍵遺跡の「楼閣」 欠史八代

シキ県主との政略結婚

日本書紀によると、宇陀から磯城(しき)に進んだ神武天皇の皇軍は、椎根津彦の立案で兵を二手に分けると、忍坂で敵を引き付けつつ、墨坂に回った精鋭に敵の背後を突かせた。磯城の敵軍は敗走し、首領の「兄磯城(えしき)」は斬首された。

この作戦から皇軍に加わったのが、エシキの弟「弟磯城(おとしき)」。

兄を見切って天皇についたオトシキ(本名は黒速)は、のちに軍功によって「磯城県主(しきのあがたぬし)」に任命されている。

唐古・鍵遺跡の復元「楼閣」全体
(唐古・鍵遺跡の復元「楼閣」)

前回の記事では、神武・綏靖・安寧の三帝は、続けてコトシロヌシ率いる「鴨氏」の娘を「皇后」に迎え、奈良盆地の南部を政略結婚で固めた———という話を考えてみたが、むろん政略結婚はそれだけに留まらない。第2代綏靖天皇に始まり、第6代安寧天皇に至るまで、今度は橿原の北の「磯城県主」から皇妃(側室)を迎え、地道に地盤を固めている。

ただ、「県主」てのは天皇の直轄地の「代官」を指すそうで、おそらく初代のオトシキが神武天皇の軍門に降ったという始まりのせいだと思われるが、磯城のお姫様は5代続けて「側室」の地位に甘んじたようだ。

それがついに正室「皇后」に迎えられたのは、第7代孝霊天皇のとき。磯城県主「大目」の娘「細媛命」は、めでたく第8代の孝元天皇の母になったのだった。天国のオトシキも感無量の涙を流したことだろう。

最盛期の唐古・鍵ムラ
(出典『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』)

唐古・鍵遺跡の大環濠

なーんて書いて「磯城県主」が気の毒な小領主に思われても困るわけで、実際にはこの一族が支配していたムラは、(状況的に言って)有名な「唐古・鍵遺跡」だ。

発掘を担当された考古学者の藤田三郎さんによれば、唐古・鍵遺跡は奈良盆地では最初に現れた弥生ムラで、多重環濠に囲まれた居住域は最盛期で18万㎡。環濠を含む遺跡全体では、実に42万㎡という規模を誇り、むろん近畿地方じゃ最大級だ。

唐古・鍵遺跡の南側の環濠跡
(出典『日本の古代遺跡』2015年)

藤田さんは、唐古・鍵遺跡の環濠は「争乱」の対策というより「運河」や「排水」の機能の方が重要で、近くの河川に繋いでさまざまに利用されたのだといわれる。

大動脈たる「大環濠」は驚きの規模で、幅が7〜8m、深さ2m、総延長は1540m。土木量にすると10395㎥という膨大な土量で、仮に一日一人一立方の土を動かしたとして、掘削には100人で104日かかる計算になるそうだ。

唐古・鍵遺跡は3世紀に入ると放棄され、南東5キロ先の「纒向(まきむく)遺跡」に集約されていくそうだが、藤田さんは唐古・鍵で蓄積された「環濠を掘削するエネルギーや土木技術が」、箸墓古墳にはじまる巨大前方後円墳の造営に「充分に活かされた」と書かれている。
(『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』藤田三郎/2019年)

『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』藤田三郎/2019年

唐古・鍵遺跡の渡来人

・・・んで、こんなこと書くと不快に思う人もいるかと思うが、藤田さんによれば唐古・鍵ムラを始めたのは、渡来系の人たちだったんだそうだ。

弥生時代前期の木棺墓の人骨が(馬場悠男氏によって)渡来系のものと同定されている点と、遺跡初期の土器や遺物がはじめから「弥生文化」として完成されていた点を、その根拠にされている。

藤田さんによれば、唐古・鍵ムラは「紀元前5世紀頃」「人がほとんど住んでいない未開拓の」「農耕に適した肥沃で広大な土地」に「稲作農耕の技術と文化をたずさえた人たちが、大和川をさかのぼってやってきた」ことに始まるとのことで、以前の記事でとりあげた、呉の遺民「安曇族」の日本への入植と、話が一致してしまうのが面白いところだ。

褐鉄鉱容器に納められていたヒスイ勾玉
(出典『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』)

唐古・鍵遺跡から出土した「褐鉄鉱」の容器におさめられた「ヒスイの勾玉」からは、彼らが中国の「神仙思想(道教)」や「仙薬」の知識を取り入れていた可能性まで考えられるというし、弥生中期初頭の大陸系「布切れ」が出土してたりしていて、どうしても中国の影響は無視できない。

ただ、だからといって唐古・鍵が中国と直接交渉していたという証拠はないし、(最初期を除けば)中国からの渡来系集団を受け入れていた痕跡もない。「中国」からは、あくまでも意匠や思想だけが流入していた———と、同じく奈良の考古学者である坂靖さんは書かれている。
(『ヤマト王権の古代学』2020年)

楼閣が描かれた土器
(出典『唐古・鍵考古学ミュージアム 展示案内』)

神武東征と唐古・鍵遺跡

長浜浩明さんの計算によれば、神武天皇の即位はBC70年頃で、弥生中期後半にあたるが、実はこの頃から唐古・鍵ムラには大きな変化が起こっていたようだ。

まずは土器に描かれた「楼閣」の造営。
二基の楼閣が、大型建物を中心に二棟一対で建てられたと考えられていて、軒先には中国風の意匠が取り入れられていたようだ。

独立した「青銅器工房」が設置されたのも、この時代だ。
それはムラの風下にあたる一番奥地に、防火面を考慮して計画的に設置されたもので、規模は30m四方と広くはないが、使い勝手のいい作業場だったようだ。

特筆すべきは、その工房でその頃から青銅器鋳造に使われ始めた「土製」の「鋳型」で、従来の「石製」にくらべて自由度が高く、巨大化も可能になったという。藤田さんは「鋳造技術の革新」だと書かれている。

各地から唐古・鍵遺跡へ運ばれてきた土器
(出典『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』)

また、唐古・鍵ムラには近隣各地からの土器が集まっていて、「弥生集落ネットワーク」の中心地だと考えられているが、それまでは三河や尾張の東海系が多かったところ、神武即位の中期後半からは、吉備や播磨の土器が圧倒的に増えたんだそうだ。むろん、神武東征との因果関係は不明だ。

興味深いのが、その頃に吉備から持ち込まれた「大型壺」と「大型器台」の供献用土器セット。吉備との「物ではなく祭祀面での強い関係」を示す遺物だというが、一体どのように使われたものだったのか。

弥生土器の記号分類図
(出典『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』)

それと万人が興味を持ちそうなのが、弥生後期の「壺」に描かれた「記号」で、上の表は藤田さんがそれを体系的にまとめられたものだ。

唐古・鍵遺跡からは、神武即位の中期後半に350点以上の「絵画土器」が出土していて、この延長にあるのが後期に始まった「記号土器」だという。

その分布は唐古・鍵を中心に、偏りながら石川、愛媛、宮崎などにも拡がってるそうで、もしも漢字が伝来しなかったら、この記号が日本固有の文字に成長した可能性は指摘されているようだ。

纏向遺跡
(纒向遺跡 写真AC)

唐古・鍵と「纒向」の統合

ただ、ご多分に漏れず、唐古・鍵ムラも中期末(紀元元年ごろ)の「洪水」で、多重環濠が埋没してしまったことがあるそうだ。

もちろんムラの再建は行われたが、後期の唐古・鍵はそれまでの開けた環境から、藪や林の点在する環境に変化していて、復旧は完全なものとはいかなかったらしい。

土器は「大量生産向きの文様のない粗雑」なものに変わり、銅鐸も美しい音色の「聞く銅鐸」から、デカいだけが取り柄の「見る銅鐸」に変化。そこからは「豊かな中期社会から不安定な後期社会」への移行が窺えるのだという。

二世紀後半、つまり魏志倭人伝などのいう「倭国大乱」の時代には、なぜか「環濠集落の破棄」が行われるようになり、周辺に小集落が増えていくのは「唐古・鍵ムラの解体」を表しているそうだ。

藤田さんは、唐古・鍵ムラは「強制的に」解体させられたのではないか、ともおっしゃっていて、理由はもちろん東南に5キロ先の「纒向ムラ」への統合のためだ。

この廃村と統合の動きは、纒向ムラが生まれた3世紀前後(西暦200年ごろ)から、古墳時代初頭の3世紀前葉(西暦230年ごろ)まで続いたんだそうだ。

『古事記』
(奈良のホテルに常備された『古事記』)

孝霊天皇と唐古・鍵

「欠史八代」といわれる第2代綏靖天皇から第6代孝安天皇は、皇妃(側室)に「磯城県主」の娘を迎え続けたが、第7代孝霊天皇のとき、ついに側室ではない「皇后」に、磯城県主「大目」の娘「細媛命」が立てられた———と日本書紀には書いてある。長浜さんの計算だとAD110年ごろのことだ。

この「細媛命」の大出世が意味するものは何なのか。

個人の印象だが、ぼくはそれを、皇室がついに全国でも屈指の弥生ムラ「唐古・鍵」を、完全に手中に収めたことを表しているような気がしている。つまり、奈良盆地の完全なる統一だ。

そうして次の第8代孝元天皇(在位148−177)と第9代開化天皇(在位177−207)の期間に、統一の象徴としての首都「纒向」建設が始まったんじゃないか。

というのも、孝元・開化の二帝は、すでに統合された磯城県主の姫は入内させず、ニギハヤヒ以来の近臣と思われる「物部氏」から「皇后」を迎え、皇妃については河内や丹波に手を伸ばしているから。

この動きからは、内はようやく固まり、いよいよ盆地の外にも勢力を伸ばす準備が整ったって印象がぼくにはある。そして実際に、つづく第10代崇神天皇(在位207−241)は「四道将軍」なんて「外征」を始めるわけで、日本書紀の記述におかしな点は感じられない。

そして崇神天皇が派遣した「出雲」攻略の使者は、「物部氏」の武諸隅(たけもろすみ)というわけで、一番面倒くさいところに「外戚」=身内になった物部氏が回されるのも、容易に理解できる話だと思う。

そういえば、河内(和泉)の「池上曽根遺跡」など、畿内の大規模弥生ムラは、弥生後期にはバラバラに解体されていったというが、唐古・鍵ムラと同じように、首都「纒向」に統合されていった可能性もあるんだろうか。

(3)につづく

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