(4)出雲の荒神谷遺跡/加茂岩倉遺跡で青銅器祭祀が終焉 〜出雲国風土記のオオクニヌシ〜

荒神谷遺跡の銅剣 欠史八代

青銅器から墳丘墓へ

奈良県「唐古・鍵遺跡」や愛知県「朝日遺跡」で、集落が大きな変化を見せていた弥生時代中期末(紀元元年前後)、遠く出雲でも歴史的な大事件が起こっていた。

青銅器による祭祀の終焉だ。

1984年、出雲市の「荒神谷遺跡」から史上最多となる358本の「銅剣」が出土。翌年には追加で「銅鐸」6口と「銅矛」16本が出土した。

1996年には、荒神谷から東南に3.4km行った雲南市の「加茂岩倉遺跡」でこちらも史上最多、39口もの「銅鐸」が出土。昭和の頃の「神話の国」のイメージは完全に消え去って、弥生中期の出雲にはヨソに引けを取らないリアル文化が花開いていたことが確定した。

加茂岩倉遺跡の銅鐸
(加茂岩倉遺跡の銅鐸)

荒神谷遺跡の銅剣は「中細形C類」なる形式で、出雲で製作された可能が高いという。「銅矛」は九州製で、「銅鐸」の大半は近畿製らしい。島根県からは今のところ、青銅器の「鋳型」は見つかっていないんだそうだ。

加茂岩倉遺跡の発掘を担当された田中義昭さんによると、加茂岩倉の銅鐸の特徴として、同一の鋳型(笵)から製作された「同笵銅鐸」が、39口中に15組26個も存在することが挙げられるという。

出雲の銅鐸と兄妹鐸の関係図
(出典『古代出雲の現像をさぐる 加茂岩倉遺跡』田中義昭/2008年)

このうち、他の地域との「同笵銅鐸」を線で結んだものが上の「図40」で、弥生中期にはこうした人と物のネットワークがあったようだ、という話。

なお銅鐸の「鋳型」が出土してるのは、「唐古・鍵」や「東奈良遺跡」の畿内、近江、越前、播磨、そして筑紫なので、そこらで生産されたものが各地に搬入されていったと考えられているようだ。

「x」が刻印された加茂岩倉遺跡の銅鐸
(出典『古代出雲の現像をさぐる 加茂岩倉遺跡』)

ところで加茂岩倉遺跡の銅鐸のうち、14口の「鈕」には、小さく「x」の印がつけられている。このマークは荒神谷の銅剣の大多数にも刻まれていて、「これはどう見ても偶然ではない」。

なので出雲考古学の第一人者・松本岩雄氏は、x印のついた青銅器は「埋納されるまでのある期間、同じ集団の管理下にあったとも考えうる」と言われている。

つまり荒神谷と加茂岩倉の青銅器は、ある集団が何らかの理由でまとめて地中に埋めてしまったわけで、その後、それらより新しい形式の青銅器が「山陰」で見られることはなかったようだ。

その理由を、考古学者の石川日出志さんは「銅鐸祭祀の終焉」だという。

銅鐸祭祀の終焉について、それまでは各地域で銅鐸が共同体祭祀に用いられてきたが、諸地域が統合される段階に伝統的な銅鐸祭祀が否定され、集積されて埋納され、銅鏡を用いる古墳時代的な新たな宗教儀礼が登場したと考えられた。

すなわち、古墳出現前夜に、いっせいに銅鐸祭祀が終焉を迎えると考えられてきたが(小林行雄『女王国の出現』)、じつはそうではなく、弥生中期末にまず中国地方で銅鐸祭祀が終息し、ふたたび古墳出現前夜になって近畿周辺も最終的に終焉を迎えるようである。

そして、ちょうどその頃から山陰を中心とするこの地方に墳丘墓が現れ、その後銅鐸祭祀が全面的に終焉する後期末にいたる間、この墳丘墓が徐々に各地にひろがっていく。

それは、各地の地域集団が共同で豊穣を祈る宗教儀礼が中国地方から姿を消し、一部の有力者が各種儀礼の前面に現れ、その権限の継承に関心が移る時代へと変貌していくことを意味する。

(『農耕社会の成立』石川日出志/2010年)
青木四号墓
(出典『島根県古代出雲歴史博物館 展示ガイド』2013年)

石川さんがいう、山陰地方の墳丘墓が「四隅突出型墳丘墓」。

上のよくわからない写真が、出雲では最古といわれる出雲市「青木遺跡」の「4号墓」で、この段階では一辺17m、高さ1mほどの規模だったものが、邪馬台国の卑弥呼の時代の3世紀前半(AD200-250)になると、一辺42m、高さ5mにまで巨大化する(西谷9号墓)。

卑弥呼の時代の出雲人にとっては、これら四隅突出型墳丘墓に眠る自分たちの「王」こそが共同体の守護神で、信仰の対象だったというわけだ。

楯築弥生墳丘墓
(出典『吉備の弥生大首長墓 楯築弥生墳丘墓』福本明/2007年)

出雲にやや遅れるタイミング(AD1世紀中葉)に青銅器祭祀を捨てて、同じように墳丘墓祭祀に移行した地域が「吉備」だ。

吉備では、卑弥呼が「倭国」の女王に推戴された2世紀末頃に、弥生墳丘墓としては史上最大となる、全長83mの「楯築遺跡墳丘墓」を築造している。彼らも出雲と同じように、偉大なる我らが「亡き王」を共同体の守護神とし、信仰の対象にしていたようだ。

ちなみに奈良盆地で銅鐸が破棄されたのは2世紀末で、そこから3世紀初頭にはサッサと墳丘墓祭祀に移行していたという説もある(纒向石塚古墳)。んじゃ卑弥呼の祭祀「鬼道」はどこで行われていたんだろう・・・?

縄文〜弥生時代の出雲平野と遺跡分布
(出典『島根県古代出雲歴史博物館 展示ガイド』)

「プレ出雲氏」が平野に進出

荒神谷遺跡は、今でこそ平野の奥の辺鄙な山の中にあるが、弥生時代にはすぐ近くに宍道湖が迫るような場所に位置していたようだ(上の図を参照)。

そこに、トンでもなく大量の青銅器を埋納した人たちがいたことになるが、彼らはその後、どこで何をしていたんだろうか。

命主社
(命主社)

興味深い記録が、出雲大社に残されている。

今の出雲大社の本殿から300m東には、神皇産霊神(かみむすび)を祀る「命主社(いのちぬしのやしろ)」という摂社がある。その境内からは、江戸時代初期に弥生時代の「銅戈」と「勾玉」が出土しているそうだ(真名井遺跡)。

その当時のいきさつは、出雲国造家の「佐草自清(よりきよ)」という学者が『御造営日記』なる書に記録しているそうで、そこには上記の他に、三点の「銅剣」と「銅矛」が出土したことが載っているらしい。

この文字記録しかない「銅剣」が問題で、そのサイズから見て「中細形銅剣C類」、すなわち荒神谷から出土した、あの銅剣と同じものである可能性が指摘されているんだそうだ。

つまり「彼ら」は、荒神谷や加茂岩倉の山間部から平野部に進出し、今の出雲大社の地で何らかの祭祀を行っていたのではないか———というわけだ。

ちなみに命主社(真名井遺跡)に青銅器が埋納された頃、その眼の前には「五反配遺跡」といわれる水田が広がっていたそうだ。
(『古代出雲大社の祭儀と神殿』2005年)

(『古代出雲大社の祭儀と神殿』2005年)

島根県の著名な民俗学者・石塚尊俊氏は『日本の神々 -神社と聖地- 7 山陰』(1985年)のなかで、この「彼ら」を「プレ出雲氏」と仮称している。「プレ」というのは、彼らはのちに「出雲臣(出雲国造家)」によって出雲から追われた人たちだからだ。

石塚氏によれば、プレ出雲氏は「出雲」という地名の発祥地である「仏経山」の北麓から出雲平野に進出し、彼らの祖神「大穴持(おおなもち)」を祭った。プレ出雲氏は、銅鐸祭祀に代わる(四隅突出型)墳丘墓祭祀を始め、その勢力はやがて北陸にまで広がり、彼らの神「大穴持」も同じように広まった———という。

この石塚説と似たようなことが書いてあるのが、奈良時代に出雲国造が編纂したとされる『出雲国風土記』だ。

出雲国風土記のオオクニヌシ

『出雲国風土記』で真っ先に登場する神は「八束水臣津野命」。

なじみのない名だが、「国引き」を行って出雲の国土を造成したとされる神なので、島根県民以外には縁がなく、風土記の中でも「別格」だ。

んじゃ実際に人びとの信仰を集めていた神はというと、「カミムスビ(神魂命)」「スサノオ(当て字各種)」と「オオナモチ(大穴持)」の三柱だ。

まず注目しておきたいのが、オオナモチがスサノオとカミムスビの娘に「求婚」しているという点。つまりオオナモチは、スサノオとカミムスビより一世代下ということで、これはオオナモチを奉斎している集団が「新興勢力」であることを表していると、ぼくは思う。

出雲国の郡
(出典『風土記の世界』三浦佑之/2016年)

さて風土記の三柱の分布だが、スサノオ「本人」が登場するのは「意宇郡」「大原郡」「飯石郡」で、出雲国の南部にあたる。それと、”神”とはいえ未婚の女性の一人暮らしも不自然なので、オオナモチが求婚したというスサノオの二人の娘が住む「神門郡」も、スサノオの勢力下にあったんだろう。

カミムスビ「本人」が登場するのは「島根郡」と「楯縫郡」。ただ、島根郡で産まれたという、カミムスビの孫「佐太大神」は両郡に挟まれた「秋鹿郡」に鎮座と明記されているので、これを加えると、カミムスビの信仰圏は出雲国北部の島根半島に広がっていたことが分かる。

また、オオナモチに求婚されたカミムスビの娘は「出雲郡」と「神門郡」に住んでいたというので、神門郡を境界として、北にカミムスビ、南にスサノオと棲み分けをしていたことも分かる。

出雲国の郡
(スマホ向けにもう一度)

んで、この南北二分された勢力に対して、一世代若い新興のオオナモチの分布はというと、オオナモチ「本人」が登場するのは「意宇郡」「島根郡」「楯縫郡」「飯石郡」「仁多郡」「大原郡」。

ただ、このうち「島根郡」「楯縫郡」にはオオナモチが郷の「地名」をつけたという説話だけで、具体的な行動がない。また「意宇郡」に載る三本の説話のうち、二本が「越の八口」を平定した往復での話なので、意宇郡はどうやら”通り道”にあったらしい。

———という感じで細かく見ていくと、いかにもオオナモチの本拠地っぽい地域が絞られていく。

そこはオオナモチが「神宝」を積んだ場所であり、的を立てて矢を射た(訓練した?)場所であり、「八十神」と戦うための「城」を造営した場所であり、「越の八口」から意宇郡を通過して到着する場所でもある。

出雲国の、ど真ん中「大原郡」だ。

神原神社古墳
(神原神社古墳)

風土記のオオナモチが神宝を積んだ場所には、現在は「神原神社」が鎮座する山間の盆地が当てられているようだが、そこから北に、加茂岩倉遺跡までは2km、荒神谷遺跡までは5km、そこを抜けると当時は宍道湖が広がり、その西に出雲平野があった。

オオナモチの神話とは、要はその神を奉斎していた人びとの神話なわけで、彼らは大原郡の本拠地から平野部に進出すると、スサノオやカミムスビの勢力と「政略結婚」を重ねて力を蓄え、ついには海に出て「越」にまで乗り出したのかも知れない。

実際、山陰で育った四隅突出型墳丘墓は、遠く北陸でも造営されたし、能登には一の宮の「気多大社」をはじめ、出雲の神を祀る古社が多数ある。風土記には、そんな「プレ出雲氏」の歴史がしっかり書き込まれているような印象が、ぼくにはある。

(5)につづく

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