(5)邪馬台国は筑後市/八女市/みやま市か 〜『露見せり「邪馬台国」』中島信文〜

吉野ヶ里遺跡 邪馬台国
写真AC

「行」とは何か

前回の記事では、海洋学の専門家である龜山勝さんが、魏志倭人伝の「水行」をどう読んだかを紹介した。中国古典の比較検討を交えての結論は、それは海ではなく「川を行く」というものだった。

今回紹介するのは龜山さんとほぼ同じ結論で、倭人伝の著者「陳寿」がなぜその漢字を選んだのか———という観点から「水行」に迫った中島信文さんの『露見せり「邪馬台国」』(2013年)。

『露見せり邪馬台国』表紙

例えば住居の数を数えるとき、通常は「」を使う場面で、陳寿は「一大国(壱岐)」には「」を使っている(有三千許家)。

中島さんによれば、「戸」という漢字には二つ繋げると「門」になる「しっかりした建物」という意味があるが、「家」は語源的に「豚小屋」から派生したもので、「門構えのない小屋、粗末な建物」の意味があるのだという。

『三国志』では他に江南の「呉書」で「家」の記述が出てくるように、当時の「一大国」には川や湿地が多く「水上の家」や「川辺の家」が使われたことを、陳寿は一文字で言い表しているのだという。

湿地のイメージ
(湿地のイメージ 写真AC)

また、ドコドコに「いたる」も、陳寿は「至」と「到」を明確に書き分けていて、「」には「あまり大きな問題もなく順調につく」という意味があるが、狗邪韓国や伊都国への「」には「無駄もあり時間がかかり難儀で大変である」という意味があるのだそうだ。

さてそれでは、倭人伝読解のキモともいえる「水行」についてだが、他にも「陸行」や「海行」なんて言葉があるんだから、問題になるのは「」だろう。

中島さんによれば、陳寿は「行」をその根源的な意味である「おこない」、つまりは「人間が手足を動かしている状態」にある場合に使っているのだという。

なので、海を渡る以外には何もしていない時は「渡(度)海」になるし、船に乗っているだけの時は「乗船」を陳寿は選んでいる。

度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絕島、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戶、無良田食海物自活、乖船南北巿糴。又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。(以下略)

また、「行」は名詞的にも使われている。

「末盧國」についての記述の中に「行不見前人」があって、定説では「歩いていくと前の人が見えない」(岩波文庫)と動詞的に扱うが、このときの「行」はよく見れば「主語」だ。

中島さんは「行」は「おこない」で「行程の様々な状態」を表す漢字なので「行程の様々な状態は前の人が見えないほどである」と訳している。

(吉野ヶ里遺跡 写真AC)

「水行」とは何か

中島さんによれば、当時の物流・交通システムの中心は「川」にあったという。当時は広い道路もなければ橋もないわけで、川こそが物流のハイウェイだった。

また当時の海は、まだまだ危険に満ちた命がけのエリアで、例えば倭人伝には、海をわたるに当たっては「持衰(じさい)」という「人身御供的な神事」が行われていたことが書かれている。

特に、朝鮮半島の南西の沿岸には無数の島や礁があったり、潮の干満差が10mもあったりで、海洋学の専門家の龜山さんは、魏使の船団が正気でそんな危険な海域を選ぶものかと定説には異論を示されている。

朝鮮半島における魏使の行程
(出典『露見せり邪馬台国』)

この点は中島さんも同意のようで、お二人とも、帯方郡から狗邪韓国までの魏使のルートは、朝鮮半島の中央を流れるふたつの大河「南漢江」と「洛東江」を通ったのではないかとお考えだ。

『三国志』の「魏志韓伝」には、馬韓のひとたちが「船を使って往き来し、韓国内で貿易している」とあるように、朝鮮でも川は「交通の要」とされていたし、川と川の間では陸路を使うのは、日本でも明治時代まで行われていたことだ。

それに倭人伝には、帯方郡から狗邪韓国までは7000余里とあるが、一里を約85mと定義する中島さんからすると、定説のように海岸線に沿って船で南下した場合、7000里では狗邪韓国(釜山)には着けず、今の「木浦」がせいぜいだという。

で、そこから1000余里では対馬ではなく、済州島に着いてしまうと。

つまりは上の「図7」のように、川を使って半島のど真ん中を突っ切ったルートの場合のみ、帯方郡から狗邪韓国までの移動距離が7000余里に収まるというわけだ。

対馬
(対馬 写真AC)

魏志倭人伝の「里」と方位

順番が逆になったが倭人伝の「里」について。

中島さんによれば、陳寿は「鮮卑」や「東夷」に関しては、漢王朝の「一里=420m」は使わず、鮮卑の使っていた「70〜100m」を採用したという。もちろん陳寿の意図(尊重?差別?)は推測の域を出ることはないが、実測値がそんなもんなんだから受け入れるしかない。

その際、注意すべき点は、倭人伝の「里」は直線距離ではなく移動距離なので、直線距離の1.2〜1.3倍程度は許容する必要があること。そうやってアレコレ計算してみて、中島さんが出した数字が、東夷では「60歩=1里」として、漢王朝や魏の5分の1の「一里=85m」。

(対馬 写真AC)

それと倭人伝の方位については、「末廬国」までの4つの方位がほぼ正しいことから、倭人伝全体の方位も信用できる———というのが中島さんの考え方。

とはいえ、当時は磁気コンパスもない時代なので、プラス・マイナス20度程度の誤差はやむを得ない範囲であろうと。

ぼくも倭人伝の方位は全体として西に20度傾いていると思うが、それでも不弥国から投馬国、投馬国から邪馬台国の2回、「東」を「南」に90度も間違えたというほど、当時の中国人は間抜けではないと思う。

(唐津 写真AC)

末廬国から不弥国への道

ところで倭人伝の「方位」への不信感の根っこを探っていくと、魏使の上陸地である「末廬(まつろ)国」の所在地問題があるようだ。

それを単純に「まつうら」に近い発音だといって佐賀県の東松浦半島(唐津市)の「呼子」あたりに上陸地を持っていくと、そこから糸島や博多方面は、倭人伝のいう「東南」ではなくて、「東」から「北東」に向かうことになってしまう。だから倭人伝の「方位」は信じられない、と・・・。

(唐津 写真AC)

しかし「末廬国=松浦」に固執せず、その後の魏使の行程全体を俯瞰してみれば、結果はまったく違うものになる。

まず伊都国へは、イージーな「至」ではなく難所を表す「到」が使われているので、移動距離は直線距離よりも大幅に増えることが想定される。つまり、末羅国と伊都国は、意外と近い。

それと不弥国では、住居数の単位が「戸」ではなく、一大国と同じく「家」なので、そこは陸地もあるものの「沼沢地」や「川の洲」「湿地帯」が多い地域だと見当がつく。

んで福岡市界隈でそういう場所を探してみれば、那珂川と御笠川に挟まれた今の福岡空港あたりが候補にあがり、そこから末廬国までを逆算していった中島さんの比定地が、下の「図15」。

末廬国、伊都国、奴国、不弥国の比定地
(出典『露見せり邪馬台国』)

中島さんによれば、魏使が上陸したのは東松浦半島ではなく糸島半島で、「末羅国」の場所は定説では伊都国とされる糸島市周辺。「三雲・井原遺跡」があるあたりだ。

必然的に「伊都国」も東にズレて、福岡市西区の「吉武高木遺跡」あたり。「奴国」が福岡市中央区で、「不弥国」が博多区になる。

このルートだと、魏使は上陸地点からまず「東南」、続いて「東南」そして「東」に移動したことになり、倭人伝が記述する方位と一致するというわけだ。

御笠川上流と宝満川(乗り継ぎ候補地)
(出典『露見せり邪馬台国』)

投馬国から邪馬台国への道

さて不弥国から投馬国へは「水行」なので、御笠川を船で南下していく。御笠川は途中で北東にそれていくので、今の太宰府市あたりで一旦船を降りて陸路を行き、南へ向かう宝満川に乗り継いでいく(図18)。

投馬国までの「水行20日」は、そうやって川を中心に行動して、倭人についての様々な情報を集めて回った、調査期間(日数)を表しているという。

このとき投馬国と邪馬台国までの距離が「里」で表されていないのは、それらの間隔があまり離れていないので、帯方郡から女王国までの総移動距離「萬二千餘里」から不弥国までの10700里を引いた残り1300余里だけで、十分に場所がイメージできるから———というのが中島さんのお考え。

(筑後川 写真AC)

で、そんなこんなで導き出された「投馬国」の比定地は、宝満川が筑後川に合流していく三角地帯で、今の久留米市の北部から筑前町、大刀洗町あたりが考えられるという。

「邪馬台国」はその南に広がる7万戸がおさまる平野部になるので、久留米市の南部から筑後市、八女市、みやま市の一帯が候補になる・・・。

———といった感じで、以上が中島さんが、陳寿が倭人伝の一文字一文字に込めた意味を丁寧に読み解いていった結果見えてきた、各国の比定地。

あくまで漢文の読解によるもので、現状では考古学による完全な裏付けがあるとは言えないが、近年の高速道路や新幹線の開発で、続々と当時の遺跡が見つかっている地域でもあり、今後に期待はできると思う。

ちなみに不弥国から邪馬台国までのルートは、現在の高速九州道や九州新幹線とほぼ同じものらしい。

末廬国から邪馬台国までのルート
(出典『露見せり邪馬台国』)

『隋書』の「水行」

最後に話を「水行」に戻すと、昔から「水行」が「海を行く」ことの根拠とされてきたのが『隋書』の「琉求国」の記述だという。その冒頭部分はこうだ。

流求國居海島之中當建安郡東水行五日而土多山洞

流求国は建安郡の東方に当たる海上の島にある。海上を行くこと5日でその国に至る。土地には山の洞穴が多い。(『倭国伝』講談社学術文庫)

しかし中島さんは、定説は誤訳だという。

よくみると「流求国」の書き出しは倭人伝のそれとよく似ている。倭人伝では「倭人在帶方東南大海之中」だったところが、流求国では「流求國居海島之中」となっていて、流求国が「島の中」にあると、最初に書いてある。

そこに続けて「水行5日」というんだから、「水行」したのは「島の中」だ。

そして「至」のあとには目的語が必要で、それが「土多山洞」になる。

続けて読めば「流求国は海の島の中に居り、建安郡の東にある。(島の中の)川を主体に5日間で、土多山洞という場所に至る」となるので、ここでも「水行」は海ではなく、川を行くことになる———とのことだ。

※中島さんは、中国の歴代の史書は慣例的に、四方の野蛮国は全て1万2千里の場所にあるとしてい———という説は「無謀な論議」だと書かれている。

邪馬台国(6)につづく

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