NHK『新・古代史 グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権』の読書感想文

『新・古代史』抜粋 邪馬台国

読書感想文シリーズについて

今回からしばらくの間、このブログには邪馬台国関連の本を読んだ「感想文」をアップしていきたいと思います。これまでは主に「九州説」に立った本を読んできましたが、時には異説に耳を傾ける必要があるでしょう。

といっても本の論旨に沿ってダラダラと反応しても長くなるだけなので、まずは邪馬台国の所在地を考えるなら基本中の基本だろうとぼくが思っている三点を検討してから、その本ならではの議論を取り上げたいと思います。

基本中の基本というのは、「方位」「距離」「遺物」の三点です。

邪馬台国までの方位

倭人伝をシンプルに読めば、伊都国ー邪馬台国ー狗奴国は「北」から「南」に並んでいたと考えられる。しかし「大和説」では、それらは「西」から「東」に並んでいたと読み変えるわけだが、その根拠は何か。

邪馬台国までの距離

倭人伝には、帯方郡から女王国までの距離は12000里と書いてある。狗邪韓国ー対馬、対馬ー壱岐までの実際の距離からは、倭人伝の「一里」は70〜85mの幅になりそうだが、それだと12000里は九州の外には出ない計算になる。そこをどう説明するのか。また、距離で問題になる「水行」はどう解釈するのか。

邪馬台国ならではの遺物

倭人伝を読むと、そこが邪馬台国なら出土、検出されるものとして「中国大陸の文物」「銅鏡」「鉄鏃」「矛」「絹」「槨のない首長墓」「楼観・城柵」などが考えられるが、云々・・・。

———といったかんじで、そこが邪馬台国かどうかは、魏志倭人伝との整合性にあるとぼくは思っている。大きな遺跡があったり、大きな建物があったりだけでは、それが邪馬台国のものかどうかは不明なわけで、魏志倭人伝から乖離した議論には今イチ興味が湧いてこなかったりする。

NHK『新・古代史』表紙

と、以上が前置きで、読書感想文シリーズの第一回目に読んだのは、2025年1月に刊行された『新・古代史 グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権』。著者は「NHKスペシャル取材班」とあるが、長いのでNHKと略すことにする。

先に本全体の印象を書いておくと、公共放送のNHKということで、はじめのうちは「大和説」と「九州説」の両論併記を装っているものの、すぐに「大和説」を支持していることが明らかになる。

古代史に疎い人がぼんやり読み進めると、邪馬台国の所在地が奈良県の「纒向(まきむく)遺跡」で確定しているように刷り込まれてしまう可能性が大なので、注意が必要だ。

NHKの「方位」

さて、ぼくのような邪馬台国「九州説」支持者で、それも福岡県南部のどこかだと思っている人にとっては、そもそも「方位」の問題は存在しない。伊都国(糸島市)ー邪馬台国(福岡県南部)ー狗奴国(熊本県北部)と、倭人伝の記述どおりに脳内地図ができている。

「方位」の問題があるのは「大和説」の場合で、倭人伝が書く「南」を「東」に読み変えないと、伊都国と邪馬台国がつながらない。読み変えは絶対に行わなければならないわけだ。

では「大和説」を密かに推してくるNHKが、倭人伝の「南」を「東」に読み変えてもOKだとする根拠は何かというと、二点ある。

一点目が、それを著者の陳寿の「書き間違え」だと提唱したのが、「京都大学で東洋史学の権威だった内藤湖南」だから。つまり「権威」がそういったから、OKだということだ。

NHK『新・古代史』にそう書いてあったわけじゃないが、内藤によれば、中国の古書では東と南と「相兼ね」、西と北と「相兼ぬる」のは、その「常例」だから———なんだそうだ。

1910年というから、100年以上前に書かれた「卑弥呼考」なる論文が初出だという。「相兼ね」はググってみても何もヒットしないので、意味も具体例もよく分からず。

それでやむなく倭人伝が載る『三國志』第30巻「烏丸鮮卑東夷伝」で「南」を検索したところ、29件がヒットした。陳寿が「東」を「南」と書き間違えたというのは29件全てなのか、それとも「投馬国」から先だけなのか・・・。

後者だとしたら、ご都合主義の臭いもチト感じたりして。

(出典『新・古代史』NHKスペシャル取材班/2025年)

二点目は上の地図で『混一疆理歴代国都之図』。

NHKはこの地図を「現存する世界最古の世界地図の一つ」と持ち上げるが、(自分でも書いてるように)これは1402年に李氏朝鮮で作成されたもので、すでに精緻な検証によって、唐や晋の時代の地理観に基づくものではないことが判明しているようだ。

そこで褸述される論旨の焦点は、「混一疆理歴代国都之図」は、中国古地図———唐の買耽の「海内華夷図」はもとより斐秀の「晋興地図」も含めて———の影響にもとづくものではない、と論証した。

すなわち、朝鮮で1402年に製作された「混一疆理歴代国都之図」は、中国からもたらされた「混一彊理図」や「声教広被図」には朝鮮本国の地図が欠けていたので、それに隣国日本の西方上位の「行基図」を補入したもので、これが最終的に1472年直後に模写されたのが、龍谷大学図書館に現存するものと推断されるという。

したがって、この地図を、「倭人伝」の方位修正———‐つまり、南は東の誤写説 → 日本列島の90度南転説 → 日本列島南展説———とみて、邪馬台国=近畿説の証拠資料とすることはまったく無意味とされたのである。

(『邪馬台国と地域王国』門脇禎二/2008年)

引用した歴史学者の門脇禎二さんは、陳寿の『三國志』には、倭は「周旋五千余里」で韓は「方四千里」と書いてあるのに、「混一疆理歴代国都之図」で「韓」が日本の本州の4〜5倍の巨大さで描かれているのは、それが3世紀の中国人の地理観を反映したものではないからだ!と書かれている。こんなものを倭人伝の解釈に援用するのは、「ひどい悪用」だとご立腹だ。

NHKの「距離」

帯方郡から邪馬台国までの総距離12000里については、NHK『新・古代史』に特に言及がない。ただ、「水行二十日」を南の方角に20日進むと「九州をはみ出し、何もない海の中」にたどりつく———と書いているので、基本的には12000里は無視されていると見ていい。

この「水行」は『三國志』全60巻でも、倭人伝に3回でてくるだけの非常に特殊な言い回しで、一方で『三國志』には、海を行く「海行」も、船で行く「船行」も、海をわたる「渡海」も出てくることから、「水行」は単純に海を行くことではない、という分析がある。

例えば司馬遷の『史記』では、「水行」は陸上の水———つまり「川」や「池」や「湿地帯」を進むことを表しているので、陳寿がその用法に則っている可能性は十分に考えられる。ちなみに『三國志』に「川行」という言葉はでてこない。

NHKの「遺物」

倭人伝には、倭国で倭人が実際に使っていたものとして「鉄鏃(鉄のやじり)」や「矛」「絹」「槨のない首長墓」などが挙げられていて、それプラス卑弥呼の居館を守る「楼閣・城柵」、それと卑弥呼が魏帝に下賜された「銅鏡百枚」あたりは、そこが邪馬台国であれば出土、検出されるのがフツーだと思われるが、大和説の「纒向遺跡」からは、卑弥呼の時代にそういった遺物はみつかっていない。

一方、NHKが纒向遺跡=邪馬台国の根拠に挙げているのが、2009年に発掘された大型建物群。

NHKは、4棟の建物が東西一直線に並んでいる点を強調して、のちのヤマト政権の「太陽信仰」と結びつけようとしているわけだが、纒向遺跡の最初の発掘担当者の一人である関川尚功さんは、それはその場所が纒向遺跡の中でも「特に狭い微高地上」にあったため「南北の立地空間が少ないという制約により、建物の配置方向が東西方向にならざるを得ない」のだろうと、特別な意味を認めていない。

「卑弥呼の王宮」と持て囃される「主要建物D」についても、次のような厳しい?評価だ。

また、この主要建物Dの主柱の多くが欠失しているのは、その後に築かれた庄内期や古墳時代の遺構、特に前期の大きな区画溝による掘削のためである。

遺跡の中心になるような重要な建物であれば、その跡があまり時間をおかずに他のいくつもの遺構によって簡単に壊されるようなことはないであろう。

ここは他にも、各時期の遺構の造替が頻繁に行われているところである。このため、はたしてこの場所が纏向遺跡の中枢ともいえるような特別な地点であったのかは明らかではない

(『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえなかった邪馬台国』関川尚功/2020年)

もう一つ、NHKが大和説の根拠に挙げるのが、2010年に纒向遺跡で発掘された、2700個の「桃の種」。

卑弥呼の「鬼道」はのちの「道教」で、道教では桃の種は神聖視されたから、卑弥呼の宮都からこれほど大量の桃の種が出土したのだ———という理屈だが、卑弥呼の時代の「太平道」や「五斗米道」で、後世の道教のように桃の種を神聖視したかどうかは定かでないはず(というか何も明らかになっていないはず)。

またNHKは、纒向遺跡から出土した「布留0式」の土器が「炭素14年代測定法」で3C半ばを指したり、出土した木材が「年輪年代法」で231年を指したりしたことが、卑弥呼の年代と一致していることを強調するが、それはその時代の纒向に何らかの人間集団が存在したこと以外を表すものではないと思う。

繰り返しになるが肝心なことは、そこが邪馬台国なら、魏志倭人伝に出てくる倭人の「遺物」が出土するのが自然な展開だろうということだ。

NHKの「伊都国」

ここからは余談パート。

NHKは、纒向遺跡=邪馬台国の根拠として、出雲、吉備、伊都国とのつながりを挙げている。たしかに「箸墓古墳」に出雲の「葺石」、吉備の「特殊器台」「特殊壺」が使われているのは、よく知られた事実。

だが、出雲の王墓(西谷3号墓)や吉備の王墓(楯築墳丘墓)でそれらが実際に使われた時、その葬儀に大和の人たちが参列していなかった、という事実もある。2世紀後葉の出雲や吉備から、大和の土器は出土していない。

それに、出雲と吉備に王墓がつくられたのは、まさに卑弥呼が倭国連合の女王に共立されたAD180年頃のこととされていて、その流れだと、出雲と吉備は卑弥呼の共立には関わっていない可能性が高いと思う。

纒向の外来系土器の比率
(出典『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』石野博信/2008年)

また、NHKは「箸墓古墳の前後につくられた近畿地方の古墳からも、鏡が多く出土」することから、古くから鏡を副葬する文化を持っていた北部九州とのつながりを強調しているが、実際には上の「図13」のとおりで、纒向遺跡から糸島平野や福岡平野の土器は出土していない(交流がない)。

伊都国側から見ても、畿内系の土器が出土するようになるのは3C末頃から運用された「西新町遺跡」の時代からで、それまでは北部九州と奈良盆地の間には、大きなヒトとモノの流れはなかったようだ。

それに、奈良盆地で鏡の副葬が始まったのは、AD250年代に築造されたかという「ホケノ山古墳」からで、その時すでに卑弥呼は死んでいる。

NHKの「狗奴国東海説」

NHKは「前方後墳」が東海地方から東に多く分布していることを根拠に、「狗奴国東海説」にシンパシーを寄せているようだが、これも上の「図13」からしたらおかしな話で、狗奴国が敵対していたはずの纒向遺跡では、外来系土器のおよそ半数が東海系で占められている。

そもそも前方後墳は必ずしも東国ばかりで造られたわけじゃなくて、3C後半の吉備、摂津、山城などでもソコソコの規模のものが造られているし、NHKが主に西日本に分布するという「前方後墳」も、3C後半の千葉、神奈川、静岡などで造られている。

前方後墳と前方後墳は、別に対立の象徴でもなんでもないと思われる。

NHKの「倭国連合」

NHKは、卑弥呼を女王に共立した「倭国連合」の成立過程について、3つの説を挙げている。

①伊都国が奈良盆地に「東遷」した

伊都国の「平原王墓」に太陽信仰の可能性が考えられることから、伊都国が纒向に「東遷」して、ヤマト政権のベースになったという説。

この説がチト無理っぽいのは、やはり上の「図13」のとおりで、纒向と伊都国がつながったのは、卑弥呼が死んでから50年ほど後の、AD300年頃だというFACT。倭国連合ができたのはAD180年代なので、時系列が滅茶苦茶だ。

②もともと畿内にあった勢力が成長した

ぼく個人は、この説に賛成だ。

弥生後期の近畿・東海では、1mを超える巨大な「銅鐸」をつくる勢力が各地にいたが、これらの勢力が「連合」を組んだという説になる。

この説だと、出雲や吉備が纒向と無縁だった理由もシンプルで、出雲と吉備は弥生後期に入ると早々に銅鐸を埋納して、墳丘墓祭祀に移行したと考えられているから。銅鐸がなければ、銅鐸連合には入れない(入らない)。

ただぼくが、その近畿・東海の銅鐸連合が邪馬台国ではないと思うのは、中国人が邪馬台国で見たものは、銅鐸ではなく「銅矛」だったから。九州でも銅鐸はつくっていたものの、地域を代表する大型祭器といえば「銅矛」だ。

③伊都国と吉備が連合して纒向に邪馬台国をつくった

これは、AD180年頃に吉備につくられた「楯築墳丘墓」と、AD250年代に大和につくられた「ホケノ山古墳」の墳丘の形に、共通性があることから生まれた説。

ただ、畿内と同様に、吉備の土器が玄界灘沿岸の「伊都国」からみつかるのもAD250年代を過ぎてからのことで、卑弥呼が女王に共立されたAD180年代だと、まだ吉備の土器は瀬戸内海エリアにしか広がっていなかったそうだ。

(吉備と伊都国については↓の記事を)

・・・というかんじで、他にもいろいろと言いたいこともあるんだが、とりあえずはこんなところで。

読書感想文の第一回にこの本を選んだのは、天下のNHKならぼくを納得させる大和説の根拠を示してくれるのでは、と期待したから。ただ、結果はここまでに書いた通り。

何と言っても気になったのが、2C後半から3C末ぐらいまでの歴史の時系列がゴチャゴチャになっている点。おそらくその理由は、邪馬台国「大和説」だと、列島全体のヒトとモノの流れを上手く説明できないからだと思われる。

倭人伝から考えられる邪馬台国の遺物、「鉄」「鏡」「矛」「絹」などなどは全て九州から多くを出土しているのに、それらに乏しい畿内、纒向に邪馬台国があったと説明するのは、かなり無理のある困難な話のような気がしている。

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