纒向遺跡は卑弥呼の都か
邪馬台国の所在地については、九州説の場合は「魏志倭人伝」の中だけで完結させることができるが、大和説(畿内説)の場合は、原文の方位を2回、「南」から「東」に改変(書き換え)する手続きが必要になる。
それでそこを突っ込まれると不利になるからか、大和説は倭人伝を離れて、考古学方面から説明されることが多いらしい。
昭和の頃は、卑弥呼が魏に朝貢した年を刻んだ「三角縁神獣鏡」が畿内から出土したことが根拠にされたそうだが、最近は2009年の発掘で、奈良県桜井市の「纒向(まきむく)遺跡」に現れた大型建物が”卑弥呼の宮殿”だと主張されているのだとか。
ぼく個人としては、原文を書き換えるのは学問としてマズいような印象があるので、九州説を推す。でも反対意見にも当然興味はあるわけで、それなら考古学者———それも「纒向遺跡」を発掘した担当者の話を聞いてみればいい。

というわけで読んでみたのが、奈良県の「橿原考古学研究所」に勤務して、1971年から纒向遺跡の調査を担当、報告書『纒向』をまとめた関川尚功さんの『考古学から見た邪馬台国大和説』(2020年)。
しかしその副題には「畿内ではありえない邪馬台国」とあって、奈良の考古学者なのに、発掘の担当者なのに、関川さんは大和説を支持してないようだ・・・。

弥生時代の奈良盆地の特徴
魏志倭人伝には、弥生時代後期の「倭国」では内戦(倭国乱)が起こったものの、皆で卑弥呼を女王に共立することで平和を取り戻したと書いてある。また、卑弥呼の都がある邪馬台国は人口7万戸の大国で、卑弥呼は「倭国」の女王として何度も魏とやり取りをしたとも書いてある。
もしも邪馬台国が奈良盆地にあったのなら、そこは「倭国」の中心地として大いに栄え、「伊都国」や「奴国」のある北部九州までを統合し、中国大陸からの先進の文物にあふれた地域だったことだろう。
その時代の奈良盆地について、関川さんの本から特徴を挙げてみるとこんなかんじ。
①首長墓がない
弥生時代後期の北部九州にあった「伊都国」や「奴国」では「王墓」が誕生して、鏡や武器などを大量に副葬する文化が花開いていた。同じ頃、出雲や吉備では「王墓」とみなせる大型の墳丘墓が造営されていた。
しかしその頃の奈良盆地には、副葬品をもつ墓もなければ、大型の墳丘墓もなかった。

②東方とのつながり
その時代の奈良盆地を代表する集落が「唐古・鍵遺跡」で、近隣地域から多くの土器が持ち込まれていたが、圧倒的に多いのが「東方系」で、近江が40点、伊賀と尾張が20点、伊勢湾岸が60点以上。
しかし「伊都国」や「奴国」がある北部九州からは合わせて1点のみで、唐古・鍵ムラの西方との交流は、吉備あたりが限度だったようだ。
③鉄製品が少ない
その時代の奈良盆地から鉄製品の出土はわずかで、唐古・鍵遺跡で4点、総数でも10点しかない。ところがお隣の「河内」からは120点を超える鉄製品が出土している。

④「銅鐸」も少ない
奈良盆地からは、弥生時代の祭器「銅鐸」の完形が12点出土しているが、これも兵庫、滋賀、大阪に比べると少ない。また奈良盆地の銅鐸文化は、西方から伝わったものを東国とのつながりの中で発展させたもので、その中心地というわけではない。
⑤大陸とのつながりがない
邪馬台国の所在地を考えるうえで最も重要なことは「中国大陸との交流関係の有無」だと関川さんは書かれている。が、残念ながら奈良盆地の大陸産青銅器の出土は、近畿地方でも特に少ないんだそうだ。
「中国鏡」の確実な出土は、前漢鏡の「破片」一点のみだというし、東日本からでさえ出土する「中国銭貨」は一個もない。中国に限らず、朝鮮半島との直接的な交流も見出せないのが奈良盆地だという。

纒向遺跡の実態
それじゃ、続いては2世紀の終わり頃、つまりは「倭国大乱」の後ぐらいから運用されたという、問題の「纒向遺跡」について。
①「環濠」がない
魏志倭人伝によれば、邪馬台国では卑弥呼の「居室や宮殿、物見台、砦をいかめしく造り、常に警備の者が武器を持って守っていた」という。
そのイメージを再現したのが佐賀県の「吉野ヶ里歴史公園」だが、纒向遺跡は関川さんによれば「弥生時代の環濠集落のような防御性や閉鎖的な性格というものは、あまり感じられず、開放的な立地形態」だったそうだ。
防御用の柵ではなく、集落の内部を流れていた何本もの河川によって分立していた「遺跡群」が、纒向遺跡だったらしい。
②段階的な発展
纒向遺跡は最初から日本を代表する大型集落だったわけじゃなくて、段階的に発展したという。
よくいわれる「南北1.5km、東西2km」で面積3平方キロ(300ha)というのは、西暦300年以降の総面積で、卑弥呼の時代(庄内期)はまだその3分の1の一平方キロ程度の規模だったようだ。
(『ヤマト王権の古代学』坂靖/2020年)
実は庄内期の河内平野には、南北3.5km、東西1km(面積350ha)という「中田遺跡群」が存在したという説もあって、纒向遺跡は近畿ナンバーワンではなかったらしい。
【関連記事】河内の「中田遺跡群」は邪馬台国か?

③「主要建物D」は主要建物ではない
上の空撮は2009年に検出された(例の)纒向遺跡の「大型建物群」で、南北約19m、東西約6mの「主要建物D」が当時、”卑弥呼の宮殿”として騒がれたもの。
ただし「主要建物D」は主柱の半数以上が失われていて、その理由は「前期の大きな区画溝による掘削のため」だという。
これがもしも”卑弥呼の宮殿”のような重要建物であれば、時間を置かずに次々と他の遺構によって壊されて(上書きされて)いくことはないわけで、ここは纒向遺跡の中枢とはいえない、と関川さんは書かれている。

④外来系土器は東海系
纒向遺跡も唐古・鍵遺跡と同じで、外来系土器の中心は「東海系」で、ただし年代が進んだからか、山陰や北陸の土器も増えているのだという。そしてやはり、発掘からは「北部九州」の土器は確認できなかったそうだ。
倭人伝には、女王国は「伊都国」に「一大率」を置いて諸国を検察させたとあるが、彼らは帰省の際などに北部九州の土器は使わなかったんだろうか。
⑤少ない金属製品と大陸系遺物
奈良盆地では、纒向遺跡の時代になってからも鉄製品や青銅製品の出土が少なく、青銅器では銅鐸の「破片」2点と「銅鏃(銅のやじり)」が10点(2020年現在)。
また「漢鏡」などの大陸系青銅器の出土もなく、大陸との直接的な交流は想定できないという(魏の皇帝から下賜された、大量の青銅器はどこに行ったのだろう)。
また、纒向遺跡からは朝鮮半島の土器や木製の馬具、木製の鏃なども出土しているが、それらは卑弥呼が没してから半世紀がたった西暦300年前後から流入してきたものだという。北部九州に由来する鉄器製作の鍛冶関係の遺物もあるが、それもやはり西暦300年ごろのもの。
つまりは西暦300年前後になって、ようやく纒向遺跡と「伊都国」や「奴国」との交流が始まったということらしい。

———以上、実際に纒向遺跡の発掘を担当された、関川さんの話をまとめてみれば、纒向遺跡が北部九州の文化レベルに追いついたのは、卑弥呼が死んで50年経った西暦300年前後で、日本を代表する集落規模になったのも西暦300年前後。
それと、「邪馬台国大和説が成立するには、西日本地域、少なくとも近畿から北部九州までの統合化が達成されていることが前提」になるが、卑弥呼の時代の纒向遺跡は、北部九州との交流実態がない。
奈良盆地の「銅鐸」や「銅鏡」の出土状況などからも「大和と邪馬台国の接点を見出すことはできない」というのが関川さんの結論のようだ。

「魏志倭人伝」と考古学との整合性
んで、こうして関川さんの本を読んできて感じたことは、大和説がいうように、考古学の成果に基づくなら邪馬台国は大和(畿内)で決まり!!というのは本当なのか、ってことだ。
例えば「炭素14年代測定法」によれば、「箸墓(はしはか)古墳」の築造は西暦250年前後になるというが、そこから分かることは、その頃の奈良盆地に強大な権力を持った「王」がいたということだけで、それが魏志倭人伝に出てくる「女王」かどうかは定かではない。
なので昔から言われるように、倭人伝と考古学の整合性がとれたとき、はじめて邪馬台国の所在地が見えてくるんじゃないだろうか。

前回読んだ『露見せり邪馬台国』(中島信文/2013年)では、魏志倭人伝に出てくる弥生時代の「遺物」について6点、考察を加えている。折角だからここで紹介しようと思うが、詳しいことは『邪馬台国と高天原伝説』(安本美典)や『邪馬台国大研究』(井上筑紫)などを参照して!とのことだ。

①「銅鏡百枚」
魏志倭人伝によれば、景初2年(238年)に魏の明帝は、「銅鏡百枚」他を卑弥呼に下賜している。昭和の頃はその「銅鏡百枚」は畿内中心に出土する「三角縁神獣鏡」だと言われていたが、それが2000枚近く出土している現在、その説は否定され、238年以前の「漢鏡」を中心にした100枚だろうと見られているようだ。
んでその「漢鏡」は近畿からはほとんど出土しておらず、中島さんによれば全168面中、149面を福岡県が占めるのだという。
②「鉄の鏃(やじり)」
魏志倭人伝には、倭人は「鏃(やじり)」には鉄か骨を用いると書いてある。中島さんによれば、「鉄鏃」の出土数は九州が1300個、近畿が270個(先進地帯の日本海側を含む)。ついでに「小刀(刀子)」を数えると、九州が360個に対して近畿は50個以下。
③兵器の「矛」
魏志倭人伝によれば、倭人は兵器として「矛・楯・木弓」を使うという。安本美典さんの調べによれば、「鉄の矛」の出土は福岡県7本、奈良県0本。少し広げて「鉄の刀」は福岡県33本、奈良県0本。「鉄の剣」は福岡県46本、奈良県0本。
(『データサイエンスが解く邪馬台国』安本美典/2021年)
④「絹」と「絹産物」
魏志倭人伝によると、倭人は蚕を飼って「麻糸・きぬ・綿」を産出したという。絹でできた遺物は奈良県からも出土しているが、それは古墳時代に入ってからのもので、弥生時代後期までに限れば、絹の出土はすべて九州からになるそうだ。
⑤「白珠五千孔」「青大句珠二枚」
魏志倭人伝によると、倭人は「白珠」と「青大句珠」を魏の皇帝に献上したという。「真珠」と「大きな勾玉」のことらしいが、安本美典さんの調べによると、勾玉の出土は福岡29個に対して、奈良盆地は3個だという。
⑥「棺」だけで「槨」のないお墓
魏志倭人伝によれば、倭人は人が死ぬと「棺」には納めるが、「槨(外箱)」は作らずに棺の上にそのまま土を盛るのだという。下の「図17」は「槨」のないお墓である「箱式石棺」の県別の出土数で、奈良県などグラフに載ってない県はゼロ個だ。
ちなみに「槨」をもつ首長墓は、出雲、吉備、讃岐、大和、近江などで見つかっていて、これらの地域の墓制を魏の使者は知らなかったようだ。「槨」のない前方後円墳としては、福岡県の「那珂八幡古墳」や「光正寺古墳」などが知られている。

———といった感じで、魏志倭人伝の記述と考古学の成果を照らし合わせてみると、邪馬台国は北部九州のどこか、少なくとも奈良県ではない、とぼくには思えるのだった。
邪馬台国(7)につづく


