瀧音能之『発掘された日本神話 最新考古学が解き明かす古事記と日本書紀』の読書感想文

邪馬台国

瀧音さんと魏志倭人伝

邪馬台国本の読書感想文シリーズの2回めは、駒澤大学名誉教授・瀧音能之さんの『発掘された日本神話』(2025年)。本には瀧音さんは「監修」と書いてあるんだが、実際に執筆した人のお名前がないので、ここでは瀧音さんのご著書として扱うことにする。

『発掘された日本神話』表紙

瀧音さんのお立場は、邪馬台国「大和説」だ。

ただ、ぼくが関心を持っている「邪馬台国への方位」と「邪馬台国までの距離」については特に言及がなかったので、魏志倭人伝の解釈による「大和説」ではないようだ(「邪馬台国の遺物」については後述)。

じゃあ瀧音さんが大和説を支持する根拠はなにかというと、「纒向遺跡」の存在にあるようだ。

瀧音さんによると、纒向遺跡は「面積300万平方メートルに及ぶ巨大集落」であり、「南北19.2メートル、東西12.4メートル」の建造物があって「これほどの規模の王都」は「日本列島で卑弥呼政権以外にはあり得ない」んだそうだ。

「主要建物D」纒向遺跡発掘調査概要報告書
(「主要建物D」纒向遺跡発掘調査概要報告書より)

ただ、ぼくが聞いているのは、纒向遺跡が「面積300万平方メートル」に及んだのは3世紀も終わり頃の話で、卑弥呼が生きていた3世紀前半は、まだ100万平方メートル(100ha)ほどの規模だったという話。

それぐらいなら福岡県の「比恵那珂遺跡」「須玖遺跡群」や大阪府の「中田遺跡群」など、見劣りしない集落は他にもあって、日本最大というわけではない。

また、纒向遺跡の巨大建物(主要建物D)は、桜井市教育委員会の報告書(PDF)によれば、実際に発掘されたのは南北19.2m、東西6.2mの範囲で、それだと弥生中期後半の「池上曽根遺跡」に建てられた「いずみの高殿」の19.3mx7mとほぼ同じ規模でしかない。

ただ纒向遺跡では、柱穴の形状などから東西方向を2倍に拡大して、19.2mx12.4m(238㎡)だろうと「推定」したのだという。

ちなみに弥生中期後半には、福岡県の「吉武高木遺跡」に「二号建物」と呼ばれる大型建物が存在したが、こちらも二説あるうちの大きい方を採れば、床面積214.5㎡と纒向の建物Dに匹敵する。

200㎡を超える大型建物は、纒向遺跡の200年前から日本に存在していたという一例だ。

池上・曽根遺跡の「いずみの高殿」
(池上曽根遺跡「いずみの高殿」2020年夏見学)

瀧音さんの邪馬台国時代

というわけで残念ながら、瀧音さんの本からは邪馬台国「大和説」の説得力ある根拠は得られなかった。でもこれだけだと記事が短すぎるので、ここからは瀧音さんが主張される邪馬台国時代の歴史、を紹介したいと思う。

「倭国王帥升」は吉備の王

瀧音さんによると、「後漢書」にAD107年に朝貢したと書かれる「倭国王」の「帥升(すいしょう)」は吉備(岡山県)を治めた王で、倉敷市の「楯築(たてつき)墳丘墓」の被葬者だという。楯築墳丘墓は弥生時代としては全国最大となる、全長83mの吉備の「王墓」だ。

弥生王墓では「楯築」につづく規模が、出雲王の「四隅突出型墳丘墓」だ。瀧音さんによれば、倭国王の帥升は出雲王と手を組んで同盟関係となり、北部九州や畿内/東海の勢力に対抗していたのだという。

西暦181年にタウポ火山が噴火

AD181年にニュージーランドの「タウポ火山」が大噴火を起こすと、世界的な異常気象が2年も続いて各地で食糧危機が発生した。中国ではAD184年に「黄巾の乱」が起こって、中国大陸の難民が朝鮮半島に南下するという事態が起こった。

瀧音さんによれば、この時ドミノ式に押し出された朝鮮南部の難民が海をわたり、北部九州に流入したという。「難民による北部九州の王権への政治介入や簒奪未遂があった可能性」まで考えられるというんだから、大変だ。

神武天皇の東征

この食糧危機に始まる「倭国大乱」の時代に、やはりドミノ式に押し出されるかたちで南九州から畿内に移住したのが「神武天皇」の一行だという。

瀧音さんによれば、この当時の奈良盆地は、11の大共同体が割拠して3つのグループにまとまっていたそうだが、「神武天皇」の一団は桜井市〜橿原市の「磐余(いわれ)」に入植して、先住開拓者になっていたらしい。

鉄を求めて吉備と畿内が連合

「倭国大乱」の時代、北部九州は連合を組んでブロック経済を構築していたそうで、これによって鉄の供給を絶たれたのが吉備だったという。吉備は瀬戸内東部や畿内の勢力を手を組んで、北部九州に「圧力と懐柔の両面でアプローチ」をかけたんだそうだ。

卑弥呼政権の誕生

吉備/畿内の連合は、北部九州連合の王・卑弥呼に「伊都国王の地位を保証した上で連合に加わる」ことを求めたという。この時の交渉に当たったのが、同郷ともいえる南九州を出身地とする「神武天皇」の一団だ。

交渉は実を結び、北部九州は「開国」して大連合への加入に応じ、その首都は九州でも吉備でもない、奈良盆地が選ばれたという。このとき畿内側は、「接収」に近い形で奈良盆地を明け渡したそうだ。

こうして「神聖王」卑弥呼を女王に共立した「卑弥呼政権」が誕生し、その実務には吉備の後ろ盾で擁立された「執政王」が担当することになったという。

卑弥呼の時代の執政王は、「神武天皇」の流れをくむ「吉備津彦」で、この神聖王と執政王の二重体制は、神功皇后ー仲哀天皇、推古天皇ー聖徳太子、持統天皇ー天武天皇といったように、飛鳥時代までつづいたのだという・・・。

野口王墓
(天武/持統の「野口王墓」2024冬参詣)

———以上が、瀧音さんの本に書いてあった、瀧音史観のぼくなりの要約。

瀧音さんといえば、出雲の研究で名前の知られた歴史学者で、その史観は何重にも裏付けを得られた事実を元に構築されているのだろうと思う。ただ、本を読み進めながらググったり、他の本を開いたりするなかで、いくつか気になった点もあったので挙げてみたい。

トンガリロ国立公園 写真AC
(「トンガリロ国立公園」写真AC)

タウポ火山の噴火には232年説もある

瀧音さんの学説の核心部分とは、ニュージーランドのタウポ火山がAD181年に噴火したってことだろう。この異変が黄巾の乱を呼んで、「卑弥呼政権」の誕生につながったとされるからだ。

ところが何となくググってみたところ、タウポ火山の噴火には181年の他にも232年±5年、または232年±10年という説もあることが分かってしまった。しかも悪いことには、181年説を採るのは観光ガイドなどの一般向けの記事が多く、232年説を採るのは専門的な論文や英語の記事が多いような印象があること(あくまで個人の印象)。

これで万が一にも232年説が正解だったりすると、瀧音さんの学説は「仮説」ですらなくなってしまうわけで、これは気になる。

高地性集落の分布の変化
(出典『倭国乱と高地性集落論・観音寺山遺跡』若林邦彦/2013年)

高地性集落は増えたのか

瀧音さんが、倭国大乱による軍事的危機が起こったことの根拠として挙げるのが「高地性集落」の増加だ。高地性集落とは「丘陵部などに築かれた集落で、敵襲を即座にほかの集落に伝える狼煙台を備えていた」とされるものだ。

ただ、この件はぼくが聞いていた話とは時期がズレていて、畿内の土器や集落を専門とする考古学者・若林邦彦さんによると、BC100〜AD50頃に瀬戸内海沿岸を中心に増加した高地性集落は、倭国大乱から邪馬台国の時代になると、グッと数が減っている———というのが、上の「図13」。

この図をみると、倭国大乱と高地性集落には関連がないように思われるが、じゃ高地性集落とは何なのか。

ウィキペディアがソースなので信憑性は今イチかも知れないが、「歴史的な津波の一覧」という記事によると、紀元前後に南海トラフの巨大地震が起こり、近隣が大津波に襲われたんだそうだ。

「図13」上部の、畿内から瀬戸内エリアにかけての高地性集落が、津波への事後対策で増えた可能性もあるという話。

西谷3号墓のジオラマ
(出雲王墓「西谷3号墓」のジオラマ)

AD107年の倭国王「帥升」は吉備の王か

瀧音さんが、後漢書AD107年の「倭国王帥升」を吉備の王だというのは、考古学者の松木武彦さんの説を取り入れたものだ(と本に書いてある)。

だが、そうだとすると、帥升と「西谷3号墓」の出雲王が同盟を結んで北部九州や畿内/東海と対抗した、というのはチト難しい話であるような気がする。

というのも、松木さんが推定する「楯築墳丘墓」の築造年代はAD150年頃なので、AD180年頃に築造されたとされる「西谷3号墓」に眠る初代の出雲王とは、一世代以上も年代にズレが生じてしまうことになるから。

んで瀧音さんも書かれているように、吉備では「楯築」のあとは王墓が縮小して「吉備の求心力は急速に低下」していたんだから、そんな吉備が畿内勢力と連合して北部九州を「開国」させるなんて、実力以上の話のようにも聞こえしまう。

ただし、地元岡山県の考古学者のコンセンサスでは「楯築」の築造はAD180年頃になるので、そっちを採れば、「西谷3号墓」の出雲王とは同世代だし、ギリギリ「倭国大乱」にも関与できる年代になる。

いかんせん、その場合は後漢書の「倭国王帥升」は吉備の王ではなくなって、伊都国の王墓(井原鑓溝遺跡)の被葬者にその座を譲ることになるわけだが・・・。

古墳時代の岡山平野
(出典『吉備の超巨大古墳・造山古墳群』西田和浩/2020年)

それと、邪馬台国時代の吉備が、ぼくらが想像するよりずっと国力が小さかったことが分かるのが、上の「図6」だ。当時はJR岡山駅まで海が迫っていて、丘陵に分断された平地にバラバラに集落が散っていたようだ。

それぞれの首長墓にも「明確な規則性や統一性を見出すこと事態が困難」なのが、邪馬台国時代の吉備の実情だったという。
(『吉備の超巨大古墳・造山古墳群』西田和浩/2020年)

玄界灘の荒波 写真AC
(玄界灘の荒波 写真AC)

九州に難民が押し寄せた根拠は

瀧音さんは、黄巾の乱で生じた大陸の難民が朝鮮半島に南下して、ドミノ式に押し出されるように半島南部から北部九州にワンサカ人間が渡って来た———といわれるわけだが、その根拠となる物証は挙げられていなかったような気がする。

だが、例えば歴史学者の田中史生氏によると、邪馬台国時代に伊都国の博多湾沿岸部には、西日本各地の人々と朝鮮半島からの渡来人が混在して、鉄交易などを行う拠点が形成されていたという(今宿五郎江遺跡など)。

『渡来人と帰化人』田中史生 表紙

また、邪馬台国時代に日本最大の青銅器工房群があったのが、福岡市の「須玖遺跡群」だが、そのピークは弥生時代の「後期後半」で、まさに倭国大乱の時代だ。朝鮮半島からの難民による「王権への政治的介入や簒奪未遂」があったとはチト考えにくい、安定した時代だったようにぼくには感じられる。

『奴国の王都 須玖遺跡群』

で、そんなかんじで鉄素材の確保にも不自由せず、青銅器生産も絶好調だった北部九州が、どういう理由で吉備/畿内の連合に懐柔されて、大切な女王・卑弥呼を奈良盆地なんてド田舎に送り出したのか、正直ぼくには良く分からなかった。瀧音さんの本にも、その解答は書かれていなかったような気がするが、読み落としたんだろうか。

3世紀前半の画文帯神獣鏡の分布
(出典『発掘された日本神話』瀧音能之)

3世紀前半の畿内の画文帯神獣鏡

鏡を専門とする考古学者・辻田淳一郎さんによると、3C前半に近畿付近で副葬された「画文帯神獣鏡」は、徳島県「萩原一号墓」、兵庫県「綾部山39号墓」、それと3C後半に築造された可能性もある奈良県「ホケノ山古墳」から出土したものだという。

ところが瀧音さんの本だと「画文帯神獣鏡」は3C前半の畿内から、多数出土したことになっている(上の日本地図)。

『鏡の古代史』辻田淳一郎

これはどういうことかというと、瀧音さんは、昭和の頃に提唱された「伝世鏡説」に基づいて、AD220年ごろに鋳造が始まったとされる「画文帯神獣鏡」を、出土した古墳の築造年代とは関係なく、すべて鋳造年代の方に入れてしまったからだと思われる。

例えば、4C後半に築造された天理市の「大和天神山古墳」から出土した4枚の「画文帯神獣鏡」も、上の図では3C前半に出土したものとして、数に加えられているってことだ。

だが実際には、3C前半の「畿内」の遺跡から出土した銅鏡は、大阪府5例5面、京都府2例2面、それと奈良県の「ホケノ山古墳」がAD250年以前の築造だった場合は、その1例3面が追加されるだけだという。
(『邪馬台国とヤマト王権』藤田憲司/2016年」)

なので瀧音さんの本に載る「分布」の図は、あたかも卑弥呼の時代から畿内では銅鏡が流通していたと勘違いさせる問題のあるもので、正直、とてもプロの歴史学者がつくったものとは思えなかったりする(三角縁神獣鏡が3C中ごろから流通したという記述も、同様のミスリードだと思う)。

『邪馬台国とヤマト王権』表紙

なお「伝世鏡論」とは、銅鏡は2世紀代から畿内に入ってきていたものの、その頃の畿内にはまだ鏡を副葬する文化がなかったので、それらは100年、200年後の古墳に副葬された———という「仮説」なわけだが、邪馬台国「大和説」の論者である考古学者の寺沢薫氏も「もはや精算するべき時期だろう」と書かれている・・・。

『邪馬台国時代のクニグニ』表紙

———とりあえず、以上がぼくの感想文になる。

なお、この本は『発掘された日本神話』とタイトルにあるように、日本神話を考古学で裏付けていくというのが本来の趣旨だ。

ただ、神話の解釈なんてのは人ぞれぞれで、例えば瀧音さんはスサノオを「朝鮮半島の神」である可能性が高いといわれるが、ぼくは朝鮮出征の中心だった「紀伊水軍の神」だという神話学者・松前健さんの説に完全に同意している。

こういう話は平行線をたどるので、この感想文では神話については触れなかったという次第。
(紀伊のスサノオについては、以下の記事を↓)

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