(8)魏志倭人伝の「倭国」と「倭種」 〜伊都国と出雲/吉備/大和〜

日本列島 邪馬台国
写真AC

女王国と「倭種」

魏志倭人伝によると、「女王国(邪馬台国)」の東には海があって、千余里のところに「倭種(倭の種族)」のクニがあるという。

倭人伝の方位が西に20度ほど傾いている点を脳内で修正しつつ、それでは西日本で東に海がある地域はといえば、「北部九州」「四国」「近畿南部」の三か所が挙げられる。フツーに考えれば「女王国」はこれらのどれかにあったのだろう。

讃岐富士
(讃岐富士 写真AC)

ただ倭人伝には続きがあって、「倭種」のクニの南には「侏儒国」があり、さらにその東南には「裸国」「黒歯黒」があるのだという。

女王国が北部九州の場合は、「倭種」が周防〜吉備、「侏儒国」が讃岐、「裸国・黒歯国」が河内———にあたるだろうか。女王国が四国の場合は、それぞれ河内、紀伊、熊野・・・ってところか。

問題は近畿南部の場合で、「倭種」は三河に当てられるとしても、その先の「侏儒国」「裸国・黒歯国」はみな太平洋の海上になってしまう。

『伊都国』伊都国歴史博物館 常設展示図録

まぁ当時の遺跡状況と照らし合わせてみても、倭人伝の「倭種」の記述に基づく限り、女王国は北部九州にあったと読むのが妥当のようにぼくには思える。

なお、魏の使節団が実際に見聞したのは「女王国の北」の地域に限られるので、「倭種」から先の情報は彼らが「倭人」と呼ぶ現地人から伝聞したもの。「裸」だとか「黒歯」なんてのは中国人がつけた「蔑称」だと思われるので、文字通りに受け取るべきではないものだと思う。

(「伊都国歴史博物館」2022年春見学)

ところで「倭国」の盟主・邪馬台国にとって、もっとも重要な構成員が「伊都国」だろう。そこは帯方郡の使者が逗留する「倭国」の表玄関であり、邪馬台国が諸国を検察する「一大率」を設置した場所でもある。

その「伊都国」の現在地は福岡県糸島市だとされているが、ありがたいことに糸島市は伊都国の研究に力を入れていて、充実した展示を誇る歴史博物館があり、博物館の「特別展」を網羅した図録の数々がある。

今回はそんな図録群のうち、女王国の東の「倭種」の候補と思われる「出雲」「吉備」「大和」の三点をザッと紹介してみたい。

『古代出雲と伊都国』(2017年)

『古代出雲と伊都国』伊都国歴史博物館 特別展

結論から言えば、「出雲」と北部九州の間には古くからのつながりがあったようだ。

まず挙げられるのが、有名な「荒神谷遺跡」(出雲市)から出土した16本の「銅矛」で、これらは北部九州で製造されたものだという。

これらの銅矛には「研ぎ分け」なる技法でつくられたものが含まれていて、それは佐賀県みやき町の「検見谷遺跡」などで見られる技法なんだそうだ。荒神谷出土の「中細形」や「中広形」の鋳型は、北部九州からしか出土していないという話もある。

荒神谷遺跡の銅鐸と銅矛
(荒神谷遺跡の「銅矛」「銅鐸」2022年秋見学)

それとこれはモロに伊都国での話になるが、卑弥呼の時代に当たる弥生時代終末期に、北部九州で最大の「玉作り」集落が、糸島市の「潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡」。

ここでは玉の原石のほとんどを、出雲の花仙山(松江市)から運んできているという。工房を取り巻く溝からは、工具類といっしょに多数の山陰系土器の破片が出土していて、伊都国では原石だけでなく加工技術を持つ工人も、出雲からの供給を受けていたらしい。

古墳時代後期の玉作り工程
(出典『古代出雲と伊都国』)

ただ、青銅器や装飾品といったモノ作りでは関係があったものの、「葬送儀礼」などの精神面では出雲と北部九州はそれぞれ独自の道を歩んでいたようだ。

卑弥呼の時代の伊都国「平原王墓」では、40面もの銅鏡を始めとした豪華な副葬品が際立つ一方で、墳丘そのものは平凡な周溝墓(13×9.5m)。

反対に出雲では「四隅突出型墳丘墓」の大型化が進んで、最終的には62x55x5mという規模(9号墓)にまで達したものの、銅鏡の副葬はゼロ。鏡にはまったく関心がなかったようだ。

図録でも「それぞれの地域で固有の墓制を堅持しており、政治的な意味で両地域の首長同士の関係性は薄かった」と評している。

四隅突出型墳丘墓のジオラマ
(四隅突出型墳丘墓のジオラマ)

ちなみに「出雲王」の葬儀では、北近畿や北陸、吉備から多数の土器が持ち込まれているが、北部九州からが確実な土器は見つかっていないという(参列していない?)。また、倭人伝が倭人は使わないという「槨」(有棺無槨)を、出雲では王墓に使っている。

なので出雲は卑弥呼を共立した「倭国」のメンバーではなく、その東の「倭種」のグループに属していたという印象がぼくにはある。

『吉備と伊都国』(2024年)

『吉備と伊都国』伊都国歴史博物館 特別展 図録

「吉備」も結論からいえば、北部九州から文化の受容は行っていたが、ヒトとモノの積極的な交流———とまでは、いかなかったようだ。

吉備の王墓といえば、AD180年頃に築造されたとされ、弥生時代では日本最大の規模を誇る「楯築(たてつき)墳丘墓」(墳丘長80m)が知られるが、こちらからは北部九州で持て囃された「ヒスイ製勾玉」が出土したり、全長47cmという大型鉄剣が出土したりしていて、いずれも北部九州からの搬入品である可能性が高いのだという。

弥生時代後期後半の吉備への土器の搬入
(出典『吉備の弥生時代』2016年)

一方、地域間の交流を端的に表す土器については、吉備では讃岐、山陰、畿内からの搬入が多く、北部九州のものは壺の破片などが若干知られるのみなんだそうだ。

上の図は別の本(『吉備の弥生時代』)が出典になるが、そちらでも九州東北部、つまりは現在の「北九州市」の土器は吉備まで来ていたものの、「福岡平野」の土器はほとんど見つかっていない、と書いてある。

「北部九州」と言ったとき、それが瀬戸内海の西部なのか、それとも福岡平野なのかには十分に留意する必要がありそうだ。

楯築遺跡の墳丘測量図
(楯築遺跡の墳丘測量図:出典『吉備と伊都国』

吉備に「楯築王墓」が築かれたのは、卑弥呼の共立によっていわゆる「倭国大乱」が収束したAD180年頃のことで、そんな大変な時期に自分らの「王」の墓をつくっていたという吉備の独自の動きを見る限り、吉備も出雲同様、卑弥呼を共立した「倭国」のメンバーというよりも、東の海の向こうの「倭種」———という印象がぼくにはある。

なお「楯築遺跡」にも銅鏡の副葬はなかったし、棺の外箱である「槨」も使っているので、倭人伝のいう「倭人」とは異なる文化のなかに、吉備の人たちは生きていたようだ。

『ヤマトと伊都国』(2023年)

『ヤマトと伊都国』伊都国歴史博物館 特別展 図録

繰り返しになるが、邪馬台国にとって「連合」の構成員のうち最重要だったのが、伊都国だ。

そこには邪馬台国が派遣した「一大率」なる検察機関があって、港では魏や朝鮮諸国からの荷物をあらためて、十分にチェックした上で女王に送ったと、倭人伝には書いてある。

ところがその伊都国の土器は、奈良盆地の「唐古・鍵遺跡」からも「纒向遺跡」からも、ほとんど出てこないのだという。図録でも「西新式の壺の口縁部と胴部の破片」が「出土しているとされる」という、何だか曖昧な表現だ。

纒向の外来系土器の比率
(出典『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』石野博信/2008年)

また、伊都国が王墓「三雲南小路遺跡」に57面もの中国鏡を副葬していた頃の奈良盆地には、鏡を重要視する価値観はなかったようで、見つかっているのは「唐古・鍵」に近い集落から出土した破片のみ。

・・・というか、奈良盆地で鏡の副葬が認められるのは「ホケノ山古墳」(80m)からの話で、図録によれば、その築造年代は庄内3式、つまり西暦270〜290年頃。

その年代になってようやく、奈良盆地の人たちも鏡の価値に気がついたというわけか。

纒向石塚古墳
(出典『ヤマトと伊都国』)

奈良盆地で最初につくられた「王墓」っぽい墳墓が「纒向石塚古墳」(94m)で、図録によれば庄内1式(210〜250年頃)の築造。もしも「纒向遺跡」が邪馬台国の都なら、年代的には卑弥呼のお墓はこれ、ってことになるんだろうか。

ただ、纒向遺跡ではその後、数十年の間に「勝山」(115m)「矢塚」(96m)「東田大塚」(118m)「ホケノ山」(80m)と立て続けに首長墓が築造されていて、あまり「石塚」を特別視していなかったような印象がある。

特別なのはやっぱり「箸墓(はしはか)古墳」(280m)ということになるが、こちらは図録によれば「布留0式期」(280〜290年頃)の築造ということで、少なくとも卑弥呼のお墓ではなさそうだ。

矢塚古墳
(出典『ヤマトと伊都国』)

なお、纒向遺跡の説明として「東西2km、南北1.5km」で遺跡面積300ha!が強調されることが多いが、これは卑弥呼が没して半世紀が過ぎたAD300年ごろの話で、卑弥呼の時代はまだ1kmx1kmの100haぐらいが、纒向遺跡の規模だったようだ。

100haというと、当時の「奴国」の国邑「比恵・那珂遺跡群」が同じぐらいの規模で、倭人伝によれば、その人口は「二万余戸」。倭人伝は邪馬台国の人口を「七万余戸」というので、卑弥呼の時代の纒向遺跡では少々、いや、かなり手狭な印象がぼくにはある。

空からみた泊大塚古墳
(出典『ヤマトと伊都国』)

ところで図録によれば「纒向石塚古墳」にはじまる「纒向型前方後円墳」を、「邪馬台国連合が採用した墓制であるとの見方」があるのだという。

ならば「連合」の最重要地域である伊都国には、早々にそれが造営されるのが自然な成り行きというものだろう。・・・とページをめくってみたところ、伊都国では「泊大塚古墳」(85m)が最古の前方後円墳だという記述を発見した。

が、その築造年代は「布留の古段階」とのことで、だいたい3世紀末から4世紀のはじめにかけてのことだという。

ん———、でもそれじゃ、卑弥呼を共立して成立した「邪馬台国連合」が「採用した墓制」というには余りにも遅すぎないか? つーか、「連合」ができた後に、伊都国じゃ「平原王墓」なんて方形周溝墓を作ってるわけで、まるで話が噛み合っていない・・・。

纒向遺跡の「想定復元図」
(出典『ヤマトと伊都国』)

実をいうと、この『ヤマトと伊都国』という図録は、編纂者のなかに「結論ありき」の人がいたみたいで、たまに記述が矛盾してしまうことがある。

たとえば「おわりに」では、奈良盆地からは北部九州の土器がほとんど出土しておらず(伊都国や奴国と)「あまり密接な交流が無い」と書きながら、全体としては纒向遺跡を「卑弥呼の居所」「邪馬台国の首都」と主張してしまうように。

図録によれば、纒向遺跡の特徴は以下。

(1)纒向遺跡のはじまりはAD180年ごろ
(2)270年頃の王の居館が見つかっている
(3)関東から「北部九州」までの土器が出土している
(4)纒向遺跡には農業生産に関する遺物が見られない
(5)290年頃に箸墓古墳が造営され、遺跡規模が拡大する
(6)300年頃には鉄器の生産が始まったようだ

———んで、以上から導き出された結論が、こう。

その後、奈良盆地の東南部に当時としては国内で最大級の前方後円墳が相次いで築造され、初期ヤマト王権が成立したものとみられている。
これらの考古学的事象を踏まえるならば、現段階では、纒向遺跡が邪馬台国の中心集落の最有力候補と考えられるのではないだろうか。

『ヤマトと伊都国』

・・・上の(1)から(6)の「考古学事象」からでは、纒向遺跡が邪馬台国であることは全く証明されていないと思われるが、要するに近畿地方の中心的集落であり、そこから前方後円墳をシンボルとする「ヤマト政権」が誕生したから、纒向遺跡が邪馬台国だとしか考えられない———と図録は主張しているように、ぼくには見える。

でもそれって、ただの印象論(または願望)なのでは??失礼ながら。

ちなみに「ホケノ山古墳」からは、「倭人」がつくらないという「槨」が出てきていて、「銅鏡百枚」の件も含めて、奈良盆地の風景と魏志倭人伝の風景は一致しない。それは奈良盆地が、魏使の知らない「倭種」の世界だったからなんじゃないだろうか。

邪馬台国(9)につづく

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