吉野ヶ里遺跡は邪馬台国の都か
はじめにお断りしておくと、ぼくも「吉野ヶ里遺跡」が邪馬台国の都だとは思っていない。ただ、奈良の「纒向(まきむく)遺跡」に比べれば、吉野ヶ里遺跡の方が魏志倭人伝が描く「倭国」の風景に近いんじゃないかと思っている。
先にザッと遺跡の規模の話をしておくと、邪馬台国時代(AD180~250年頃)の吉野ヶ里の環壕集落の面積は40ha超だそうだ。
同時代の伊都国「三雲・井原遺跡」が60ha、奴国の「須玖遺跡群」が200haとのことなので、倭人伝に名を残す両国よりも吉野ヶ里は見劣りする。ただし「須玖遺跡群」は「群」で、吉野ヶ里は単独のムラとしてのサイズではある。

ちなみに3世紀前半の「纒向遺跡」もまだ100haほどの規模で、それがMAXの300haにまで広がったのはAD300年頃の話らしい。100haというのは、ちょうど現在の「吉野ヶ里歴史公園」全体が106.9haとのことなので、現地に行ったことがある人なら、逆に3C前半の纒向遺跡の規模がイメージできるかと思われる。
※なお吉野ヶ里遺跡については、公式サイトがとても役に立つ「弥生人の声が聞こえる 吉野ヶ里歴史公園」
纒向遺跡 vs 吉野ヶ里遺跡
世間的には邪馬台国の都だと思われてそうな「纒向遺跡」だが、魏志倭人伝に描かれた「倭国」の都とはイメージが合わない「弱点」のようなものが何点かある。一方、纒向遺跡に欠けた「弱点」をすべて持っているのが、吉野ヶ里遺跡だ。
①纒向遺跡からは中国大陸の遺物が出土しない
纒向遺跡からは、卑弥呼が朝貢の使者を送ったという中国大陸の遺物がほとんど出土していない。3世紀前半だと「銅鏡」の出土もなければ、「楽浪系土器」の出土もない。
一方、吉野ヶ里では遺跡周辺の墳墓から、弥生後期に限っても大型1点、中型9点、小型9点などの「漢鏡」が出土しているし、「鉄製素環頭大刀」など中国王朝から下賜された武器類も出土している。
(『邪馬台国時代のクニの都・吉野ヶ里遺跡』七田忠昭/2017年)

②纒向遺跡は鉄器の出土がとても少ない
魏志倭人伝によれば、倭人は「やじり」には鉄か骨を使ったという。鉄器は倭人にとっては日用品だったのだろう(原文「竹箭或鐵鏃或骨鏃」)。
しかし纒向遺跡の発掘を担当した石野博信さんによれば、3C中葉までで纒向から出土した鉄器の数は、わずかに10点ちょいだという。一方、吉野ヶ里遺跡からは後期の集落を中心に、270点ほどの鉄器が出土している。

③纒向遺跡には「楼観・城柵」がない
魏志倭人伝によれば、邪馬台国の都には卑弥呼の「宮室」の他にも「楼観(物見櫓)」や「城柵」が厳しく設けられて、守備兵に守られていたという(「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人、持兵守衞」)。
しかし纒向遺跡には、そういった防御施設のようなものは見当たらない。というか、そもそも纒向遺跡には集落や拠点を囲む「環濠」がない。そこは天然の河川を区切りとした、開放的な立地だったそうだ(纒向遺跡の想定復元図はこちらに)。
一方、吉野ヶ里には「楼観」や「城柵」に加えて、「逆茂木」なんて殺伐とした防御施設があったことは御存知の通り。常に敵襲に備える必要でもあったんだろうか(例えば熊本の狗奴国とか)。

④倭人伝における地理の問題
魏志倭人伝によれば、邪馬台国の「北」には伊都国(糸島市)や奴国(福岡市)があり、「南」には狗奴国(熊本市か?)があったという(「其南有狗奴國」)。
また魏使は、女王国の「北」についてしか正確な情報を持っていないとも書いてある(「自女王國以北、其戶數道里可得略載」)。
この点、吉野ヶ里の場合は脊振山系を迂回する必要はあるものの、真北に福岡市があるので倭人伝の記述とおおむね一致する。だが纒向遺跡の北にあるのは京都市で、南には和歌山県新宮市と、残念ながら弥生時代後期の大集落があったとは言えない地域になる。

———といったかんじで、纒向遺跡に「邪馬台国」の痕跡を探すのは難しいが、吉野ヶ里になら何でも揃っているといった印象がある。
ただ、スケール的に伊都国や奴国の王都より見劣りするので、「倭国」連合で最大の人口を誇る「邪馬台国」の都とはみなし難い・・・てのが現在の評価のようだ。

首長を「共立」した吉野ヶ里遺跡
で、そんなかんじで吉野ヶ里は邪馬台国ではない———と聞くと、それ以上の興味を失ってしまうのが人の常?かも知れないが、実は吉野ヶ里はその先が面白い。名著の多い新泉社の「遺跡を学ぶ」シリーズでも、『吉野ヶ里遺跡』(七田忠昭/2017年)は個人的には3本の指に入る内容の濃さだと思っている。
まず吉野ヶ里では、首長は周辺集落から「共立」されていたというのが面白い。
魏志倭人伝によれば、「倭国」では70〜80年間の「男王」政権のあとに国が乱れ、何年も攻め合いがつづき、話し合いの末に一人の女性を選んで「女王」にしたという。
これは一般的には卑弥呼の「共立」というようだが、吉野ヶ里ではもっと古い段階から「共立」された首長による統治が行われていたらしい。

吉野ヶ里遺跡では、中期前半(BC200−BC100頃)にムラの北側に40mx30mx4.5mの「墳丘墓」がつくられたという。もちろん、この墳丘墓はまだ個人のものではなく、銅剣の副葬などから「身分の高い男性」と思われる人物14人が、それぞれの「甕棺墓」に収まって順番に埋葬されていった集団墓だったようだ。
ところがこの墳丘墓の造営がはじまると、吉野ヶ里の周辺集落からは、銅剣などを副葬したお墓がなくなったのだという。どうやら周辺集落のリーダー格の人物は、吉野ヶ里の墳丘墓に葬られる流れができていた可能性があったようだ。
そうしたFACTから、弥生中期(BC200−AD50頃)の吉野ヶ里は、周辺集落から「共立」された首長によって運営された、中心集落だったと考えられているわけ。
※後期になると「墳丘墓」は使われなくなり、周辺集落から吉野ヶ里の首長に「共立」された人物は、その役目を終えると出身集落に戻って葬られるようになったそうだ。漢鏡や鉄刀が副葬された墓地が、吉野ヶ里の墳丘墓から周辺地域に戻ったことがその根拠になっている。この件についてはまた別の記事にて。

「共立」でつながる吉野ヶ里と邪馬台国
ところで魏志倭人伝(三国志)を著した陳寿によると、3C前半の馬韓(のちに百済)の南部は「囚人や奴婢が集まった状態に過ぎない」というカオス的状況だったようだが、倭人の社会には一定の秩序があったようだ。
講談社学術文庫『倭国伝』の現代語訳から何点か挙げると、こう。
◯倭人の風俗には節度がある。
◯父子・男女の差別はない。
◯女性はつつましやかで、やきもちを焼かない。
◯追剥やこそ泥がなく、争いも少ない。
◯上下関係がはっきりしていて、目上の者は、目下の者を服従させるのに充分なだけの威厳がある。

もちろん倭国にだって「倭国大乱」もあれば、狗奴国との戦争もあるし、卑弥呼の没後には1000余人が死んだという内戦も起こっている。だがそれでも陳寿が記録する倭人の様子からは、秩序のある社会を善とする倭人たちの共通意識がうかがえると、ぼくは思う。
んでぼくには、そういった倭人たちの共通意識が吉野ヶ里で首長を「共立」したことに繋がるし、さらにはその吉野ヶ里を含めた30カ国が卑弥呼を女王に「共立」したことにも繋がるように思えている。
つまりどっちの「共立」にも、同じ倭人たちの共通意識を感じるわけで、ならば吉野ヶ里と邪馬台国は同じ意識を共有できるほど、近い場所に存在してたんじゃないかという気もしてくる。

といってもそれが日本列島全体の話ではなかったのは、当時の出雲(島根県)や吉備(岡山県)には絶対的な「王」がいて、巨大な「王墓」を造営していたというFACTから理解できるような気がする。
彼らの王の盛大な葬儀からは、王を中心においた地域間の交流は認められるそうだが、それらの王が地域社会の話し合いによる「共立」で立てられたかといえば、疑問がある。
たとえば出雲だと、王墓は今の出雲市と安来市の両方に並行して造営されていたわけで、ごく近い距離に二人の王がいたことになる。それが一つになったのは出雲人の意思ではなく、畿内ヤマトの軍事介入だったことは、日本書紀に書かれた通りなんだろうとぼくは思っている。

文化を共有する「クニ」
七田さんによると、弥生後期(AD50-250頃)の吉野ヶ里では「内郭の環壕各所に突出部をつくりだし、その内側に物見櫓(楼観)が設けられていた」そうだが、実は同じ「突出部」を持つ集落は、吉野ヶ里を中心に佐賀平野と筑後平野に、計14遺跡が確認されているんだそうだ。
ぼくはこれも文化の共有だと思うが、その分布が下の「図56」。

当時の倭人たちが「クニ」をどのように理解していたかは知る由もない。だが、もしも首長を「共立」したり、同じ設備を作ったりでつながった集合体を「クニ」だと感じていたとしたなら、吉野ヶ里遺跡の本当の規模は、環壕で囲まれた40haには収まらないことになるのかも知れない。
※なお念のため記しておくと、図56で佐賀平野の北部に集落が偏っているのは、当時の平野南部はまだ海中か、湿地帯だったかららしい(貝塚の分布から分かるそうだ)。むろん筑後平野も同様で、熊本平野との間を気軽に徒歩で行き来できる状態ではなかったようだ。

卑弥呼の没後に消えた吉野ヶ里遺跡
最後に、卑弥呼が死んだ後の時代の吉野ヶ里遺跡について。
七田さんによれば、3世紀後半に入ると吉野ヶ里の環壕は埋没し、人々の営みはすべて消えてしまったという。代わって現れたのがヤマト式の古墳で、しかもなぜか相次いで造営された4基すべてが前方後方墳(円ではない)だという。
そもそも前方後方墳は九州では珍しいお墓だそうだが、吉野ヶ里(の跡地)に4番目に築造されたものは全長40mで、九州の「方」では最大という話だ。
※前方後方墳については↓の記事を
それにしても、吉野ヶ里の人々はどこに行ってしまったんだろう。
プロの考古学者である七田さんは変な想像は交えずに、3世紀後半に新しく増えた「佐嘉」や「小城」といった西の集落への人々の移動をお考えだが、それは公式サイトをみた感じだと決定的とは言えなさそうだ。無人となった吉野ヶ里につくられた、ヤマト式の前方後方墳にも説明が必要だろう。
吉野ヶ里に集まって住んでいた人々は、どこに行ったのでしょうか?
(吉野ヶ里歴史公園 公式サイト)
弥生時代の終焉と共に、どこかへと移り住んでしまったのでしょうか?
東アジアという大きな視点でみれば、この時期に起こった最大の歴史的事件は(卑弥呼が朝貢していた)魏の滅亡だろう(AD265年)。
北部九州の人たちは中国大陸との距離も近いわけで、その衝撃は近畿あたりの住民とは比較にならない大きさだったことだと思う。
そんなショックに見舞われたとき、まじで可能な限り遠くに逃げようとする人が一定数いることを、ぼくは東日本大震災のときに知った。福島第一が水蒸気爆発を起こした翌日、友人の一人は家族を埼玉から長野に逃がしたし、知人の一人は横浜から大阪に一家で引っ越して、しばらく帰ってこなかった。
あくまで想像だが、魏の滅亡を聞いた吉野ヶ里の住民のなかには、できるかぎり中国大陸から離れた場所に移動したいと思った人もいたかも知れない。そんなとき安全地帯の畿内ヤマトから、住宅や開拓地のご提供〜♪なんて案内が届いたとしたら・・・。
邪馬台国(14)につづく


