魏志倭人伝はフィクション
邪馬台国関連の読書感想文シリーズ、その11回目は東北大学名誉教授・田中英道先生の『邪馬台国は存在しなかった』(2019年)。田中先生のご専門は西洋美術史だそうだが、2010年頃から日本古代史の論考を発表されるようになったそうだ。
ただ、ぼくら一般の古代史ファンには残念なことに、田中先生はわれらが『魏志倭人伝』は「多少の真実は書かれているにしても、学術用語でいう歴史資料には値しません」とおっしゃっている。その理由は「中国や韓国は歴史の捏造」を行うから。
なので「邪馬台国論争は無駄な議論」で、その裏側では「『古事記』『日本書紀』の否定」が続けられていて、同時にそれは「日本の歴史の根幹は天皇であることを否定するための論争」でもあるんだそうだ。

さらに田中先生は、そもそも魏志倭人伝は「すべて伝聞」で書かれていて、《七千里あまり》のような「距離の想像性(ママ)」からして、陳寿が「最初からフィクションを書くことを意図していた」と考えることは「常識」なのだという。
いくら発掘しても「邪馬台国」が出土しないのは、魏志倭人伝がもともとフィクションだからで、方法論としては「卑弥呼」にまつわる国内の伝説や、「卑弥呼」に関連する神社や仏閣を探すことから始める必要がある———というのが田中先生のお考えだ。
そして保守の論客としても知られる田中先生にとって、何より許せないことが「蔑称」である「邪馬台国」や「卑弥呼」という単語が、蔑称と知りながら「歴史用語」になって教科書にも載せられているという現実。
田中先生によれば、それは「日本の歴史家のレベルの低さを物語っている」んだそうだ。
・・・うーむ、ぼくはニワカで一般人の古代史ファンに過ぎないが、尊敬する「日本の歴史家」は少なからず、いる。そんな方々のレベルが低いと言われては黙ってはいられないところだが、まずは落ち着いて、冷静に田中先生の学説の紹介をしたいと思う。

卑弥呼は存在しなかった
田中先生の結論は、邪馬台国も卑弥呼も存在しなかったというものだ。その根拠の一つが、卑弥呼を祀った「卑弥呼神社」が日本には一つもないというもの(鹿児島県のインチキ神社は除く)。
ヤマトに抵抗した地方神(カガセオやイセツヒコ、タケミナカタなど)を「まつろわぬ神々」というけれど、卑弥呼こそがその「筆頭」ではなかったか、と田中先生はいわれる。しかし日本のどこにも卑弥呼の伝説も神社も祠もないんだから、これこそ「邪馬台国」が存在しないことの証しなのではないのかと。

でも、卑弥呼を「まつろわぬ神」だと田中先生はいわれるが、そもそも卑弥呼(邪馬台国)がヤマトと戦ったとは、魏志倭人伝には書かれていない。ヤマトが滅ぼしたわけでもない「神」を、ヤマトが祀る理由はないんじゃないだろうか。
それに卑弥呼の神社がないから実在しないというのなら、例えば長浜浩明さんの計算で在位241−290年頃となる第11代垂仁天皇。この天皇は卑弥呼と同時代人になるが、主祭神として祀る神社は特にない。
田中先生の学説だと、祀る神社のない垂仁天皇も実在しなかったことになってしまうが、それでは田中先生が尊重する『記紀』の否定にならないだろうか。

というのは難クセだとしても、垂仁天皇を祀る神社がないのは当たり前といえば当たり前のことで、古墳時代の天皇は神社じゃなく「前方後円墳」で祀られたというのが、現在の通説だと思う。
考古学者の広瀬和雄さんによれば、前方後円墳は「亡き首長がカミと化して共同体を守護するという共同観念」にもとづいて、全国に5000基以上が造営されたお墓だという。あの時代は「カミ」になった人間が、少なくともそれだけいた、ということなんだろう。
(『前方後円墳とはなにか』2019年)
なのでもしも「卑弥呼」が実在したのなら、その人は神社でなく「墳墓」の形で祀られた可能性はあると思う。

それに、田中先生のいうように卑弥呼が「まつろわぬ神」だった場合、ヤマトの支配が進んでいくという歴史の中で、それを堂々と祀ることなんて難しかったんじゃないだろうか。
だいいち、そもそも「卑弥呼」ってのは本名じゃなくて、田中先生も書かれているように「日皇子」の蔑視用語———つまり役職とか位とかを中国人が侮蔑的な漢字で表したものだとしたら、「卑弥呼」の名前の神社を探すことには意味がない。
「卑弥呼」は全く異なる呼び方で、「神」として祀られた可能性もあると思う。

日本書紀によると、第12代景行天皇はその12年(長浜浩明さんの計算でAD296年頃)、朝貢を怠った「熊襲」を討つべく、大規模な親征を行っている。
無事に熊襲を平定した景行天皇はそのまま九州を巡幸し、福岡県の「八女県(やめのあがた)」に至ったとき、山々の美しさに「神」を感じて感銘の声をあげたという。すると道案内の「水沼県主(猿大海)」が御前に進み出て、そこには「八女津媛」が鎮座していると奏上している。
同じような話は『住吉大社神代記』にも載せられていて、そこではヤメツヒメの名前には「八神女津媛」と「神」の一字が加えられている。

古墳時代の神社にはまだ「社殿」がなく、上の霧島神宮の「古宮址」の写真のような、神籬(ひもろぎ)が斎場とされていたそうだ。
もしも邪馬台国が筑紫平野にあったとしたら、卑弥呼はその死後、ヒミコという役職から離れて本名のヤメツヒメに戻り、懐かしい故郷の山中で、静かに眠っていた可能性もあるんじゃないだろうか。

また田中先生は、卑弥呼の後を継いだ「台与(トヨ)」も祀られた痕跡がないと断言されるが、こちらも候補はあると思う。
それは福岡県久留米市の「高良山」の山中に鎮座する「高良(こうら)大社」。筑後国一宮にして、名神大社、国幣大社という、筑紫平野の総鎮守だ。
こちらの本殿には「御客座」があり、主祭神と同じように「名神大社」に格付けされた「豊比咩神社(とよひめじんじゃ)」が合祀されている。主祭神と同じ祭祀を受けているということだ。

その高良大社の主祭神は「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」という謎の神。
ただ『日本の神々 神社と聖地 1 九州』(1984年)では、その神名が景行天皇のイミナ「大足彦(おおたらしひこ)尊」の「タレ」と通じることから、景行天皇その人だという説が紹介されている。
なんでも古代に当地を支配した豪族、「水沼君(水間君)」がその先祖を景行天皇だと主張していたそうで(つまりご落胤)、実際に『肥前国風土記』には景行天皇が高良山の「行宮(かりみや)」で「国見」をしている記事などもある。

ヤマトをはばかって大っぴらには「トヨ」を祀ることはできないが、主祭神が景行天皇なら話は別だ。ヤマトには景行天皇に頭を下げているように見せながら、その実、合祀されている「豊比咩」を拝んでいる———高良大社の本殿の配置からは、そんな可能性も見えてくると思う。
なお、日本で最古の神社は、第10代崇神天皇(在位207−241年頃)の御世に「疫病」を蔓延させたタタリ神、「大物主神」を鎮めた三輪山麓の「大神(おおみわ)神社」だとされている。神社の縁起には、祟り神の封印というケースもあったってことだ。
倭人伝を読む限りでは、寿命で死んだと思われる卑弥呼と違ってトヨの場合は死因が分からず、ヤマト側に寝返った人たちに殺害された可能性もあるとぼくは思っている。でもそんな場合でも、合祀されたのが霊力の王者、天皇であれば、トヨも素直に鎮められたんじゃないだろうか(むろん想像)。

田中先生は「卑弥呼」の非実在の根拠として、卑弥呼にはその伝説にまつわる歌(和歌)などが残されていない、といわれるが、それだって同時代の崇神天皇や垂仁天皇でも同じこと。
というか、歌に歌われた最初の天皇は、5世紀前半の第16代仁徳天皇だという、
また田中先生は、神道とは何の関係もない中国人の「徐福」でさえ、熊野では祀られてる!とおっしゃっていて、ぼくも新宮市の「阿須賀神社」を参詣した時には、境内の「徐福の宮」にも手を合わせてきた。
でも記録では江戸時代から存在していたとはいうものの、あの宮(祠)自体は昭和60年に作られたものだと聞いている。JR新宮駅前には「徐福の墓」もあったけど、これは江戸時代の製作と明記されていた。どちらも同じ頃に創作されたのかも知れない。
ま、確かなことは不明だとしても、徐福が来日した紀元前から祀られてた可能性はゼロだろう。
【関連記事】富士吉田と新宮の徐福

弥生時代の人物埴輪
卑弥呼の和歌の件もそうだが、田中先生の年代観はときどき大きくズレていると感じることがある。
例えば、田中先生は「倭人伝に記述された時代は古墳時代」だといわれて、倭人伝の描写と「人物埴輪」の姿が一致しないことから、倭人伝には「本来の日本とは異なる地域」のことが書かれている、と結論づけていたりする。
でも古代史の初心者でもわかるように、卑弥呼の時代に「人物埴輪」はまだ存在していない。
ハニワの専門家・若狭徹さんによれば、「人物埴輪」で最古のものは「大山古墳(仁徳陵)」出土品で、もしかしたら「誉田御廟山古墳(応神陵)」の陪塚の方が早いかも…で、いずれにせよ5世紀前半のもの。
地方だと島根県松江市「石屋古墳」が最古で、年代はやはり5世紀の中頃ということで、卑弥呼の時代より150〜200年は後の話になる。(『埴輪は語る』2021年)

もうちょっと詳しく書くと、田中先生が問題にしているのは倭人伝がいう「男子は、大小に関わりなく、みな顔や身体に刺青をしている(男子無大小皆黥面文身)」の箇所で、これを陳寿が日本人を侮蔑して書いたウソだと、田中先生は主張しているわけだ。
『魏志倭人伝』に記述された時代は古墳時代です。刺青について言えば、当然、人物埴輪にその可能性を期待するかもしれません。
(『邪馬台国は存在しなかった』)
しかし、埴輪は文様をもちませんし、色彩表現が消えています。その可能性を探ることはできません。
(中略)
畿内地方にのみ出土する人物埴輪に、『魏志倭人伝』が書いている通り、男子「みな」が刺青をしていた可能性を見る研究者もいます。
しかし、彼らが研究対象としている人物埴輪は、畿内に来た外来者の像であると考えるべきです。
そういって田中先生は、神武記や景行紀を引用して畿内に刺青の習慣がなかったことを説明するわけだが、確かにそれは正しいようだ。だが魏志倭人伝もウソはついていなくて、弥生時代の日本には「黥面文身」の地域もあった。
それは田中先生のいう古墳時代の「人物埴輪」ではなくて、弥生時代の「人面文壺」と呼ばれる絵画土器の分布が証明している。

上の「図4 人面文の全国分布と形態の違い」で分かるように、弥生時代の北部九州や瀬戸内海、関東の人々には刺青の習慣があった。
たしかに田中先生がいわれるように、畿内にはその習慣がなかったようだが、それは邪馬台国が畿内になかったことを証明するだけで、「倭人」全体の刺青が否定されるわけじゃない。
他にも田中先生は、魏志倭人伝がいう男子の「かぶりもの」や衣類、裸足の生活は「人物埴輪」には見られないから、日本人への「蔑視」から来る作り話だと言われるわけだが、そりゃー3世紀半ばのナマの「倭人」と、5世紀半ばの「人物埴輪」では、ファッションだって様変わりしてて当然だと、ぼくは思う。

また田中先生は、倭人伝がいう倭人のお墓の描写は、日本列島ではなく中国のものだという。
『魏志倭人伝』には、次のように書かれています。
「死んだときには、棺はあるが、槨はない。土を積み上げて冢を作る。」
(前掲書『倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本』)これは古墳時代と対応しません。この記述は、道教の習慣に拠っています。
(『邪馬台国は存在しなかった』)
道教という信仰が、形式主義を排除するもので、倹約を尊ぶという建前にのっとって、埋葬についても薄葬主義を主張するものである、ということに拠っているのです。
「鬼道」はそもそも、前方後円墳などといった巨大文化とは矛盾する考え方です。
しかし実際には、邪馬台国時代の九州では「棺はあるが、槨はない」というスタイルのお墓(箱式石棺)が普及していたし、一方で「槨」つまり棺の外箱を備えるお墓も、吉備や出雲、讃岐などでつくられている(上の図32は吉備の「楯築遺跡」の木棺木槨構造)。
つまり引用された倭人伝の一文で歴史家が問題にすべきは、当時の西日本には二つの異なる墓制が存在していたという点であって、「道教の習慣」やら「形式主義」やら「薄葬主義」やらは、本質から外れた田中先生の個人の感想に過ぎないということだ。
それに「鬼道」でわかっていることだって、それが氏名と罪を書いた三通の紙を天・地・水の神に捧げ、符水を飲んでから祈祷を受ける———ことだけなのに、それと前方後円墳がどう矛盾するのか、まったく意味がわからない。
とぼくは思う。

あと気になったのは、田中先生は倭人伝で卑弥呼の没年だとされる247−248年頃には日本に大型古墳がたくさん造られているといって、地元・奈良の考古学者が3世紀後葉だという「纒向勝山古墳」の築造年代を203〜211年、同じく3世紀半ばから後半だという「ホケノ山古墳」を235年までには造られたと決めつけて、「これらのことは魏志倭人伝では全く語られていません」と、魏の使節団が「邪馬台国」には来ていないと誘導している点。
これ、田中先生は3世紀後半の奈良の古墳の築造年代を卑弥呼の時代に遡らせれば、倭人伝を否定できるとお考えになったのかも知れないが、もしも邪馬台国が九州にあったとしたら、まったく意味のない作業になると思う。
九州説だと魏の使者、帯方郡の役人「梯儁(ていしゅん)」の一行は、北部九州の邪馬台国で卑弥呼に「親魏倭王」の金印を授けたあと、そのまま帰国して「復命報告書」を提出したことになるんだから、畿内の「纒向古墳群」なんて見てもいないし、知るはずもない。
当然、その報告書をもとに作成された陳寿の『三国志』「烏丸鮮卑東夷伝」に、奈良の巨大古墳の話は出てこないだろう。
ぼくは趣味の古代史の本を読む時は、どんな本からも学ぶべきものはあると信じて、ページをめくっている。最近だと、関裕二さんの本では「比恵・那珂遺跡」の外来系土器について学んだし、井沢元彦さんの本では古代の「日食」について、おさらいができた。
でも田中先生のこの本は、偏見と事実誤認が気になるばかりで、何も学ぶものがないという珍しいものだった。
というか、一体どういった読者層がこの本を手に取るのか、全然イメージが湧いてこない。田中先生は多くの古代史本を世に問うておられるんだから、一定のファン層があるはずなんだが・・・。
良くわからないが、古代史そのものの知識を得たいわけじゃなくて、田中先生の書いたものだから買う———そんな感じになるんだろうか。


