魏使はなぜ上陸したのか
この春ぼくは、邪馬台国について書かれた本を25冊ほど読み、そのうち18冊の読書感想文を書いた。どれも示唆に富んだ本ばかりで、ぼくの知見はわりとパワーアップされたかと思っている。
今回はそのまとめ記事。
※「読書」前の知見は(17)にまとめてあるので、合わせて読んでいただけると話の流れが掴めるかと思います。
さて、今回いろいろ読んでみたところ、識者の間でまず問題点にあがるのは「なぜ魏の使節団は上陸したのか」のようだった。
仮に邪馬台国が奈良盆地にあった場合、魏使は彼らの乗ってきた大型の外洋船を一度降りて、「末盧国」から「不弥国」まで陸上を移動した後、また外洋船に乗って瀬戸内海か日本海を東に進んだことになる。
もしも金印を与える側の超大国でさえ「一大率」の監察を受けなければならないとしても、それなら「伊都国」にだけ寄港すれば十分だったはず。なぜ魏使は、わざわざ陸路を行く必要があったんだろう。

海の難所「関門海峡」を避けて、陸路で瀬戸内海側の「行橋市」あたりに出た———という説もあった。だがそれだと魏使は瀬戸内海を、彼らが軽く土人扱いしている「倭人」の手漕ぎの刳り船で航海したことになる。
日本海を進んで「丹後」で上陸する説もあったが、それならそもそも「奴国」や「不弥国」を陸路で進んだ理由が分からない。
となると、一つの可能性として考えられるのが、魏使は海からでは直接アクセスできない、内陸を目的地にしていたという場合だ。

例えばそれが「筑紫平野」だった場合、魏使は自分たちが乗ってきた「V字船底」の外洋船から、河川の移動に適した「U字船底」の小型船に乗り換える必要が出てくる。それで「御笠川」を遡上して(南下して)、途中で「宝満川」に乗り継ぐとしたら、船を陸に上げて引いていく場面も出てくる。
そういった河川に慣れた地元のクルーや、船を引く際の人員、彼らの水や食料の調達をしようと思えば、大きな街へ行って自分で交渉するのが話が早い。
「魏使」というとふんぞり返った役人に思えるが、実際は帯方郡の軍人「梯儁(ていしゅん)」がリーダーなので、大事なことは人任せにはしないだろう。
んで、あの時代、玄界灘沿岸の大きな街というと「伊都国」と「奴国」だ。
物資を調達するのに「王都」に出向く必要はないので、魏使は伊都国は「今宿五郎江」、奴国は「西新町」という交易で知られる集落に立ち寄ったのち、御笠川に面した不弥国の「雀居(ささい)」から川船に乗って、内陸を目指したんじゃないかと思っている。

上のGoogleマップは、それらの集落の位置になる。上陸した地点を東松浦半島の「呼子」とすると、伊都国「今宿五郎江」までは約40km。「今宿五郎江」から奴国「西新町」までは約7.5km。「西新町」から不弥国「雀居」までも約7.5km———ということで、一里を70〜80mで計算すると、倭人伝の記述とだいたい一致するかと思う。
「呼子」から「今宿五郎江」までは地図上では「東」になるが、まず南に進んだのち東に(あわせて東南?)、あるいは唐津湾の対岸は東南方向にあるので、「東南陸行500里」の説明もギリギリ可能かと思われる。
ただ「壱岐」から「呼子」までが「1000里」では長すぎる件については、今のところお手上げだ。方角については、何も書いてなければ前(南)を引き継ぐのが中国流だと思う。
周旋5000里とは何か
今回の「読書」で一番の収穫だったのが「周旋5000里」の解釈。
岩波文庫や講談社学術文庫では「周囲」「一周」が5000里だと訳されているけど、歴史研究家の伊藤雅文さんによれば、『三国志』全65巻中で倭人伝以外に22か所出てくる「周旋」の意味を調べると、「めぐり歩く」「転々とする」なんだそうだ。
なので倭人伝での「周旋」の訳は、こうなる。
(原文)倭地絶在 海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千余里
(訳)倭の地は、遠く離れた海の中の洲島の上にあり、あるいは海で隔てられたり、あるいは陸続きであった。巡り歩いた距離は5000余里ばかりである。
(『検証・新解釈・新説で魏志倭人伝の全文を読み解く』伊藤雅文/2023年)
んで「倭」の北岸は「狗邪韓国」なので、そこから魏使が5000里を「めぐり歩く」「転々とする」をしたイメージ図が、こう。

図を作成された伊藤さんは、一里を70mで計算されているので上のようになるが、これを80mや90mにしたところで魏使が「丹後」や「阿波」や「大和」までは行けなかったことが、容易に理解できると思う。
「水行」「陸行」とは何か
『三国志』を専門とされる歴史学者の渡邉義浩さんによれば、中国史家が「水行」「陸行」という表現ですぐさま思い出すのが、司馬遷『史記』の「夏(か)本紀」だという。
渡邉さんが確認したところ、陳寿が可能だった読書の範囲で「水行」と「陸行」が併用されている事例は、「夏」の初代王「禹(う)」に関するものだけだそうだ。
では、その部分を引用してみる。
〈原文〉禹乃遂與益、后稷奉帝命,命諸侯百姓興人徒以傅土,行山表木,定高山大川。禹傷先人父鯀功之不成受誅,乃勞身焦思,居外十三年,過家門不敢入。薄衣食,致孝于鬼神。卑宮室,致費於溝淢。陸行乘車,水行乘船,泥行乘橇,山行乘檋。左準繩,右規矩,載四時,以開九州,通九道,陂九澤,度九山。
〈訳〉禹は、 ついに益(※人名)や后稜(※人名)と帝命を奉じ、諸侯・群臣に命じて人夫を徴発し、担当を分けて天下の土を治め、山をめぐって表識を立て、高山大川の秩次(位を贈って祭る順序)を定めた。
父の縣が失敗したため放逐されたのをいたんで、みずから身を労し、思いを焦がし、外におること十三年、自分の家の前を通っても入らず、衣食を節して鬼神の供えを豊かにし、宮室を質素にして、その費用で溝をつくった。
陸を行くには車に乗り、川を行くには船に乗り、泥の中を行くには橇(板で作った小さい舟形の履物)、山の中を行くには檋(裏に釘を打った履物)を用いた。
いつも左手には準と墨縄を、右手には規と矩をもち、指南器を載せて、九州を開き九道を通じ、九沢に堤防をつくり九川を渡れるようにした。
(『史記Ⅰ本紀』ちくま学芸文庫)

「禹」は先帝の「舜」に命じられた「治水工事」をしてるんだから、海は関係ない。
また「禹」の「水行」「陸行」は直線的に移動する意味ではなく、「九州・九道・九沢・九川」の各地を巡り歩いた、多方面への移動を意味していると思われる。
中国の史家は「前史を継ぐ」のが基本らしいので、陳寿が司馬遷の『史記』と同じ意味を「水行」「陸行」に与えたのだとしたら、それは魏使が「投馬国」や「邪馬台国」の内部を、東西南北あっちこっちに移動したことを伝えているんじゃないだろうか。
それと『史記』の「禹」は13年という期間、「水行」「陸行」を続けているわけで、陳寿と同時代の知識人が「水行20日」を目にすれば、ただちにそれは行動期間、行動日数を表していると受け取ったんじゃないだろうか。
瀬戸内海や日本海を20日間、ひたすら東に移動した———という理解は、チト違うような印象がある。
魏使は「朱」を探したか
古代史研究家の蒲池明弘さんによると、邪馬台国時代の九州には「西部」と「南部」に広大な「朱」の産地があったという。
「朱」は水銀と硫黄の化合物(硫化水銀)のことで、赤色の染料であり、薬品の素材であり、防腐剤、防虫剤としても重宝された希少品だったそうだ。
中国の朱の鉱床は南方の内陸部だったので、魏が日本との交易を望んだ動機の一つには、朱・水銀の入手が考えられるんだそうだ。
倭人での「水行10日陸行30日」は、河川と山の両方を調べる必要がある「朱産地」を求めて、魏の使節団があっちこっちウロウロしていた日数である可能性もあるのだとか。
卑弥呼のお墓はどこか
倭人伝によれば、倭女王・卑弥呼の墓は「径百余歩」で、当時の魏の尺度だと145m。こんな大きな円墳は日本には存在していないので、全長280mの「箸墓(はしはか)古墳」の「後円部」のことを指している———というのが、邪馬台国「大和説」の一つの論拠になっている。

これに対し、卑弥呼の「径百余歩」は15m程度のお墓だというのが、作家の孫栄健さんだ。孫さんによれば、三国時代の政府発表(特に軍事文書)では、数字を10倍に盛るのが「慣例」だったそうだ。
倭人伝は、魏を継承(簒奪?)した晋の皇帝「司馬炎」に仕える官僚の陳寿が書いたわけで、そこには魏の東方政策を成功させた(炎の祖父)「司馬懿」への顕彰が含まれているという。
功績を称えてるんだから、数字は大きければ大きい方がいい。かくして1200里(520km)は「万二千余里」に10倍化され、卑弥呼の侍女100人は1000人に、殉葬者10人は100人に、卑弥呼の墓14.5mは145mに———というわけだ。
同じようなことを前出の伊藤さんも書かれていて、魏の時代の一里は300歩。倭人伝と韓伝は一里が約70mで計算されるので、一歩は23.3cm。「径百余歩」は約23mになるという。
そのぐらいのサイズなら、卑弥呼が下賜された「銅鏡百枚」の候補になりうる漢鏡40面が副葬された、伊都国の「平原王墓」が東西13m、南北9.5mで丁度いい感じだ。
「割竹形木棺」を使っている点も、3世紀なかばの卑弥呼のお墓にはマッチしている印象がある。
瀬戸内海は使えない
「大和説」の論者の中には、魏の船団はやすやすと「関門海峡」を通過して、瀬戸内海を優雅に旅したようなイメージで語る人もいるが、国土交通省で港湾や運河の計画・建設に携わられた、海や船のプロフェッショナル、長野正孝さんに言わせれば、当時の瀬戸内海は「難所」だらけの苦難の道だったそうだ。
まず海面が今より数mから10m近く高かったので、岡山や広島の平地は海の底。寄港地が全然なく、食料や水の補給が難しかったという。

また、干満差は3m以上、時速20キロという激しい流れや多くの岩礁があり、全体としては東に流れつつも、一日二回ずつ東西に強い流れが発生する。
具体的には関門海峡で時速17.4キロ、来島海峡で19.1キロ、鳴門海峡で19.4キロの潮流があって、ここに時速5キロ程度の手漕ぎの刳り船で突っ込めば、船団はバラバラになってしまうだろう———とのことだ。
纒向遺跡は邪馬台国か
記事としては取り上げなかったが、『歴史人』という雑誌の2025年10月号で、邪馬台国の特集を組んでいたので買ってみた。
「北部九州説」の論者としては、NHK『光る君へ』の時代考証を担当された歴史学者の倉本一宏さんが登場。「近畿説」は元大阪府教育委員会の西川寿勝さんが、「纒向(まきむく)遺跡」が邪馬台国だという論陣を張っていた。
西川さんが挙げる根拠は、箸墓古墳の築造年代が240〜260年に下げられたことで、卑弥呼の墓の可能性が強まったこと。箸墓古墳より古い「石塚古墳」「勝山古墳」の周濠から出土した木製品の年代がAD200前後で、その時代から大型古墳を造営する文化があった可能性があること。それと卑弥呼の「鬼道」を中国思想の「道教」とみて、道教で使う「桃の種」がAD230年の年代を出して出土したこと———が大きな3点。
それと、箸墓古墳の後円部が「径百余歩」の150mであることも挙げられていた・・・。

ただそれを聞いてぼくが思うのは、それらはAD200〜250年に大きな古墳を作る実力を持った「ヤマト王権」が生まれていた事実は示しているが、それが魏志倭人伝の「邪馬台国」である証拠にはなっていないということ。
そこが魏志倭人伝の「邪馬台国」なら「一大率」を置いた「伊都国」やその隣の「奴国」との深い関係が想定されるが、纒向遺跡がそれらと繋がったのは3世紀も終わり頃だという(関川尚功)。
また何度も使者を送った魏からの遺物が何も出てこない。倭人伝に書かれた「鉄鏃(やじり)」や「矛」も出土しない。それと、卑弥呼から台与に引き継がれた中国王朝への朝貢外交を、3〜4世紀の「ヤマト」は行っていない。それは150年後の「倭の五王」まで飛んでしまう。

北部九州と奈良盆地ではいろんな文化が違いすぎて、それらをひとかたまりの「倭国」と見なすのは難しいように、ぼくには思えている。『魏志倭人伝』の邪馬台国と『日本書紀』のヤマトは同じ時代に並立していた別の政権———と考えたほうが、その前後左右四方八方がすっきり説明できるような気がしている。
といったところで、今回で邪馬台国カテゴリーはいったん終了。次回からは日本書紀に戻って、第12代景行天皇を読んでいく予定です。
GWのあいだは休みます。








