古事記と日本書紀で異なるヤマトタケル
一般的には「記紀」と呼ばれ、ひとつの歴史を別の言葉で語っている兄弟のように思われている古事記と日本書紀。しかし、その成立や立ち位置をはじめ、異なる部分はかなり多い。
ぼくが、特に違いが目立つと感じるのが、第12代景行天皇とヤマトタケルの親子だ。
簡単にまとめれば、正史・日本書紀の景行天皇は、自ら軍勢を率いて九州の大半を平定した英雄で、ヤマトタケルもまた、父の偉業を引き継いで東国を平定した英雄。
一方、古事記の景行天皇は息子を疎んで各地を転戦させ、早死させた愚蒙な人間。ヤマトタケルはそんな父に遠ざけられた悲しみに耐え、それでも無理な命令に従って戦い続け、全てを成し遂げてようやく故郷に帰れるというときに急死してしまった悲劇の人・・・。

といっても、ヤマトタケルが蝦夷を討つべく東国に出征したところからは大きな違いはない。そのころには、それぞれの親子関係はすでに確立されていた。
記紀の決定的な違いとは、古事記のヤマトタケル(倭建命)が実の兄のオオウス(大碓命)を殺害したことだ。それは天皇の命令を勘違いしたことによる悲劇だったが、それ以来、天皇は息子を恐れ、遠ざけるための口実として遠征を繰り返させた———と古事記は描く。

一方、日本書紀のヤマトタケル(日本武尊)は、兄のオオウス(大碓皇子)を殺してはいない。オオウスは、景行天皇40年(長浜浩明さんの計算で310年頃)に戦争に行くのが怖くて逃亡し、呆れた天皇から美濃に領地をもらい、そこで暮らしたという。
そのときオオウスは28歳で、日本書紀だと2、古事記だと5、新撰姓氏録だと6氏の後裔氏族が載せられているんだから、これは日本書紀の記述が正しいというしかない。ヤマトタケルが兄を殺したというのは、古事記の作り話だとぼくは思う。

もう一点、記紀の大きな違いが、古事記が景行天皇が7年間に渡って行った、九州平定の大事業を完全にスルーしていること。そのせいで古事記の景行天皇は、自分の手は汚さずに、息子を酷使しまくった卑劣な人物に見えてしまう。
しかし、日本書紀のヤマトタケルが僅かな手勢で熊襲の首領を倒せたのは、事前に父が九州をあらかた平定し終わっていたからだ。ヤマトタケルにとっては、鹿児島県以外は最初から安全地帯だったというわけだ。

古事記のヤマトタケルは、西征から帰るとすぐに東征を命じられている。旅立ちに際して立ち寄った伊勢で、神宮の斎王をつとめる叔母・ヤマトヒメに面会したヤマトタケルは、思わず「天皇はもはや私に死ねと思っていらっしゃる(天皇既所以思吾死乎)」と涙を流し、嘆きの声をあげてしまう。
古事記フリークの本居宣長は、この人間味あふれるヤマトタケルに「やまとごころ」をみて、古事記を絶賛。一方、日本書紀のヤマトタケルは上辺を飾った「漢意(からごころ)」だといって、まったく認めなかったそうだ。
だが古事記のヤマトタケルが父から疎まれたのは、実の兄のオオウスを殺したことに始まるわけで、それってただの自業自得だろう。でも、もしもそれが古事記だけの作り話だとしたなら、その意図は一体何なんだろうか。

常陸国風土記のヤマトタケル
ヤマトタケルの物語は、記紀だけのものではない。同時期に編纂された「常陸国風土記」にも、ヤマトタケルは登場する。しかもそこではヤマトタケルは即位していて、「倭武天皇」と呼ばれて皇后のオトタチバナと幸せに暮らしているのだった。
上代文学を専門にされる三浦佑之さんは、常陸国風土記を撰録したのが中央から赴任してきた国司であることから、「倭武天皇」は日本書紀が皇統譜を確定させる以前には存在を許された、ひとつの「歴史」だと書かれている。
「歴史」はひとつではなく、いくつも並行して存在したってことだろうか。
すでに、ヤマトタケルの死と天皇位からの離脱は優勢であったが、常陸国においては、悲劇的な死が語り出される以前の、天皇として巡行するヤマトタケルが生きており、常陸国風土記にはそれが採用された。
中央から赴任していた国司層が、そうした「倭武天皇」を採用できたのは、中央の歴史において、まだ悲劇の御子像が定着するところまでは固まっていなかったからであろう。
(『古事記のひみつ』三浦佑之/2007年)

ヤマトタケルと中国思想(孝)
日本書紀のヤマトタケル像は、『礼記』や『孝経』といった中国思想の「孝」の観念から構築された、という説がある。ヤマトタケルは皇統譜では初めて、自分は天皇ではないのに、天皇の父(仲哀天皇の父)になった皇族なので、本人も皇位継承の有資格者であったことを示すために、「孝」の側面が強調されたという話だ。
天子の資質・そして政策として「孝」を重視する考え方は、漢代において盛んであったものである。
『続日本紀』には、中国にならい国家の方針として「孝」を重視した勅が多数確認できる。『紀』編纂当時の奈良朝が中国の影響を受け「孝」を重要視していたことが理解できる。
(『ここまでわかった!日本書紀と古代天皇の謎』大館真晴/2014年)

神話の英雄は肉親を殺す
古事記だけが描くオオウス殺しには、世界に共通する英雄の条件という見方もあるようだ。ぼくは印欧の神話には何の知識も持たないので、まずは丸っと引用から。
「肉親を殺す行為は、世界の神話的英雄に共通してみられます」
学習院大の吉田敦彦名誉教授はそう話す。ギリシャ神話のヘラクレス、北欧神話のスタルカテルス、インド神話のインドラ、そしてヤマトタケル。苦難の旅を続ける英雄たちには、宗教的冒涜である肉親殺し、戦士のモラルに反する騙し討ち、不当な形での愛欲への耽溺——この三つの罪を犯す共通点があるという。
「王でさえ制御不能で、秩序に収まることのない戦士でなければ、敵を圧倒する英雄にはなれないと、古代人は考えたのでしょう」
(『日本人なら知っておきたい英雄ヤマトタケル』産経新聞取材班/2017年)
ただちょっと気になるのが、そういった印欧の英雄神話はどこから入ってきたのか———という点だ。
それでなくとも古事記は日本書紀に比べると、朝鮮神話との親和性が高い。そこには当然、7世紀頃の渡来人の影響があると思われるが、「肉親殺し」も同じルートで汲み上げられ、取り入れられたものなんだろうか。
で、あの時代の渡来人を取りまとめていた人物といえば・・・、蘇我馬子か?
伊勢のヤマトタケル

伊勢の地でヤマトタケルが「われ死ねと」と流した涙を、実際に当の伊勢の人々が流した涙が仮託されたものだとする説もある。
在野の歴史学者・筑紫申真さんによると、伊勢の海部である「度会(わたらい)氏」や「宇治土公(うじとこ)氏」は、ヤマトが企てる征服戦争に幾度となく参加させられ、またその持てる神話も「天語部」や「猿女」の出仕を通じて提供を強いられ、それらは宮廷神話に取り込まれていったそうだ(天岩戸や猿田彦など)。
ところが律令国家の建設に邁進する持統天皇の時代になると、伊勢の海部の神話や呪術、祭祀などは時代遅れの不要なもの、邪魔なものとして排除されつつあったという。
散々利用されたあげく、用済みにされた伊勢の嘆きをヤマトタケルの涙に託し、後世に残そうとしたのが、猿女君に出自のある女性「稗田阿礼」だったと、筑紫さんはいわれるわけだ。

となると、古事記は部分的に稗田阿礼に改変されたという話になると思われるが、一方で、そもそも稗田阿礼なんて人は実在しないという説もある。
稗田阿礼は、勅命を受けた「舎人」だという割りには「姓(かばね)」もなく、古事記の序文以外にその実在を証明するものが存在しない。
それに、稗田阿礼が誦習した「帝紀」「旧辞」を耳で聞いて書き起こしたとされる「太安万侶」にも疑惑がある。太安万侶は『続日本紀』に5回も名前が出てくる実在の高級官僚であるにも関わらず、その一世一代の功績であるはずの『古事記』編纂の記録が公文書にないのだ。
その理由について、古事記は天武天皇の個人的な史書だから———という説明を見かけるが、天武天皇が崩御してから26年も経っているんだから、完成の記録ぐらい公文書に残っていてもいいはずだ。
だが、それら全ては古事記の序文にしか載っていない・・・。
つまり、古事記から序文を取ってしまえば、それがいつ、誰の手で編纂されたのかは全くの謎になってしまうわけだ。編纂のプロセスが、一から百まで記録されている正史・日本書紀とは、立ち位置が全く異なっているのが古事記だ。

ただ、古事記の「本文」が、7世紀までの古い日本語を多く含んでいることは、たくさんの専門家が認めている事実だ。
しかし「序文」は文体からして、本文の「倭様」とは異なる「唐様」だし、平安初期に現れた「上表文」の体裁をとっている。なので、古事記の序文は平安初期に太安万侶の子孫(多人長)が執筆して、あたかも奈良時代初期のものであるかのように偽った、ニセモノだという説もある。
つまり稗田阿礼の誦習も、太安万侶の筆録も、平安初期に吐かれたUSO800ということだ。
だが繰り返しになるけど、古事記の本文は7世紀に編纂された本物だという。それじゃ、そのオリジナル古事記をつくったのはどこの誰なんだろうか。

古事記は蘇我氏の帝紀(天皇記)か
皇室の血縁関係を記した系譜を中心に、それに関する出来事を加えたものを「帝紀」という。
『六国史以前』(2020年)を著した関根淳さんによれば、それは皇室に限らず、皇族や豪族もそれぞれに作成していて、7世紀にはいくつもの帝紀が存在していたことが分かっているんだそうだ。
そんな数ある帝紀の一つが、乙巳の変で蘇我蝦夷とともに焼けてしまったとされる「天皇記」。推古天皇28年に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したと、日本書紀がいう歴史書だ。
んで、この天皇記こそが古事記のオリジナルだという説は、田中嗣人、西條勉、藤井信男、榎英一、荻原千鶴など、多くの識者が提唱してきたことらしい。

この天皇記について、日本書紀は聖徳太子も関与したと書くが、当の太子の業績にはまったく言及がない。なので実際には、蘇我馬子が単独で編纂した蘇我氏の帝紀であろうと、『六国史以前』で関根さんは論じられている。
古事記が、712年に成立したと自称する割りには、なぜか100年前の推古朝(593〜628)で終わっているのも、編者の蘇我馬子が626年に亡くなっているから———と言われればヨユーで納得できる話だろう。
蘇我馬子と古事記

ぼくなりに、古事記のオリジナルは蘇我氏の天皇記(帝紀)だ!という説に賛同する根拠は三つ。
①物部氏の排除
古事記は、日本書紀では大活躍する経津主命(ふつぬし)、饒速日命(にぎはやひ)、物部十千根の業績を消去、もしくは矮小化している。物部守屋を宿敵とした蘇我馬子なら、ありえる措置だと思われる。
②出雲神話が多い
蘇我馬子と物部守屋の政争は地方にも波及していて、出雲でも蘇我氏には出雲国造家がつき、物部氏には神門臣がついて、古墳の形状や飾りつき大刀のスタイルなどで張り合っていた。
そんな関係なので、馬子が要求すれば出雲国造家は喜んで、自家に伝わる神話群を提供しただろうと、ぼくは思う。
③国つ神の排除
古事記は「高天原」と「葦原中つ国」に明確な線引きを行い、大国主ら国つ神が高天原に入ってこないように徹底して管理している。一方、日本書紀の大己貴神らは、自由に天と地を移動している。
あくまで個人的な意見だが、ぼくは「崇仏派」の蘇我氏だからこそ、飛鳥には「仏」を置き、旧来の「神」はその外部に置こうという線引きが、古事記に込められたような気がしている。

ヤマトタケルと縁起・因果・因縁
古代の三大豪族といえば「葛城」「蘇我」「藤原」だろう。ただ、皇室との距離は異なっていて、葛城氏は「独立」、藤原氏は「寄生」、蘇我氏は「同格」ってかんじだろうか。
崇峻天皇の暗殺事件などは、馬子が自分を「臣下」だと思っていたら、起こり得なかった事件だろう。無論、天皇暗殺の件は古事記には載っていない。
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んで、もしもそんな馬子が自分の裁量で好き勝手に編纂できたのが「天皇記」だとしたら、そこに源流のある古事記にも、馬子の思想や都合が織り込まれているんじゃないだろうか。

馬子が推進した「仏教」。
その教義の核となるのが「縁起(因果・因縁)」で、結果には原因があるという考え方だ。これはのちの自然科学や社会科学のベースとなった思想なわけで、馬子を含めた飛鳥の人々には、大いなるパラダイムシフトとして捉えられたことだろう。
釈迦の思想の核、すなわち仏教の核となるものを阿含経典から見ておこう。
最重要なものは「縁起」である。物事には、原因があり条件があり、その結果が起きる、という思想である。これは仏教哲学の中で最重要のものであり、それ故に民衆の間に広められるうちに、 土俗的な迷信と混活して本義が分からなくなっていった。
「縁起」は「因果」「因縁」と類義語である。共通の字を含むことからもそれは分かるだろう。この三語は次のような俗信として同じような意味合いで使われている。
(中略)
しかし、因果という言葉は迷信とは対極的な自然科学、社会科学でも使われる。自然科学にしろ社会科学にしろ、多くの研究目的は因果関係の発見である。
(『つぎはぎ仏教入門』呉智英/2011年)
引用で(中略)にした「俗言」について、呉智英さんは「鼻緒が切れるなんて縁起が悪い」「親の因果が子に報い」「この人形には不思議な因縁話がある」などの例を挙げられていて、仏教の核心理論が歪んだ理解をされている点を論じられている。
現代においてさえそうなんだから、古代人の理解にも限界はあったことだろう。あるいは奈良時代に始まる「怨霊信仰」なども、因果律の勘違いに始まったものなのかも知れない。

ま、それはそうと、話を古事記のヤマトタケルに戻すと、父に疎まれて遠征に出されたことも、皇太子にもなれずに野垂れ死んだことも、全てはヤマトタケルが実の兄のオオウスを殺害したことに始まっている。これが「因」だ。
つまりここには、「土俗的な迷信」としての、因果(縁起)の思想がある。「孝」を重んじる日本書紀とは異なる、仏教ベースの発想がある、とぼくには思える。
そんな思考回路を持ち、なおかつ皇室の祖を兄殺しの息子と愚蒙な父———と表現して平気でいられるのは、自分を天皇と「同格」だと考えている蘇我馬子しか考えにくい印象が、ぼくにはある。
蘇我馬子からしたら、天皇の祖に肉親殺しを置くことで、その後の皇統全体に呪いをかけたつもりだったのかも知れない・・・。
というわけで、ぼくは古事記のヤマトタケル像は蘇我馬子が創作したものではないかと思っている。それは本来、蘇我氏だけの帝紀だったので、蘇我氏だけが密かに読むものだったのだろう。
ただ、いろいろな偶然が重なって、それは平安初期の世界に「古事記」という名で世に出てしまった。おかげで景行天皇と息子たちは二つの人格に分裂してしまい、現代の歴史家を悩ませることになったのではなかったか・・・と想像している次第。
景行天皇(5)につづく




