邪馬台国の人名と宮崎市の地名
邪馬台国関連の読書感想文シリーズ、その7回目は『邪馬台国は宮崎市にあった』(2021年)。著者は、歴史研究家の土田章夫さん。東京大学卒業後、三菱商事に入社というエリートさんだ。
本のタイトルにあるように、土田さんが主張する邪馬台国の所在地は宮崎県宮崎市。
土田さんによると、宮崎市周辺には、魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の高官10人の名前が転じた地名が残るのだという。土田さんはこれを「邪馬台国研究上の大発見」だと誇られているわけだが・・・。

正直、ぼくはこの大発見にはあまり賛同できなかった。
一例をあげると、宮崎市内に「新名爪(にいなづめ)」という地名がある。郵便番号は880−0124。土田さんによると、新名爪は倭人伝の「難升米」から来た地名だという。
でも難升米には「なしめ」以外にも「なんしょうまい」と読む研究者もいるし、倭人伝の最古の写本より古いとされる『日本書紀』では「難斗米(なとめ)」と記されていたりする。
狗奴国の王「卑弥弓呼」を土田さんは「ひみここ」と読むが、講談社学術文庫では「ひめくこ」と読み、岩波文庫はそもそも「ひこみこ(卑弓弥呼=彦尊)」の誤りだと主張している。

三国時代の中国人が、本当はどう読んだのか、本当はどう書いたのかさえ定かでない人名は、地名に限らず何かの根拠にするのは難しいように、ぼくには感じられる。
なお、倭人伝には邪馬台国以外にも高官の名前(役職名?)が記されているが、土田さんによれば対馬、壱岐には比定できる地名は見いだせなかったとのこと。伊都国の「しまこ」、不弥国の「ひなもり」なども見当たらないそうだ。

12000里は宮崎市までの直線距離
魏志倭人伝には、帯方郡から女王国までは12000里だと書いてある。「不弥国」までを足していくと10700里なので、その先1300里の地点に邪馬台国があったという計算になる。
土田さんは一里を75〜100mとするので、土田さんが「不弥国」があったと考える「福津市」から邪馬台国までは、現在の距離で105〜140mだ。
しかし実際には福津市から宮崎市は、広大な九州山地を貫く「直線距離」でも200kmと、とても1300里で到達できるような距離ではない。
それで土田さんが主張されるのが、帯方郡からの総距離12000里は「移動距離」ではなく「直線距離」だというもの。
当時の中国にはすでに「緯度」の概念があり、それを計測する方法も分かっていた。邪馬台国で緯度を計測すれば、南北の距離については把握できる。帯方郡(平壌)から宮崎市までの「直線距離」は約1000kmなので、12000里の中に収まるというわけだ。

ただ、土田さんが見逃していると思われるのが、邪馬台国までのもうひとつの距離「周旋可五千余里」だ。
「周旋」はしばしば一周とか周囲のように訳されていて、岩波文庫だと「一周5千余里」、講談社学術文庫でも「周囲5千里ほど」と書いてある。
だが邪馬台国「熊本説」の記事でみたように、歴史研究家の伊藤雅文さんによれば『三国志』全体で23回出てくる「周旋」の意味は「めぐり歩く」「転々とする」であって、一周や周囲ではないそうだ。
なので「周旋可五千余里」は、倭の北岸である「狗邪韓国」から邪馬台国までの「移動距離」が5000里だといってることになり、土田さんがいうような「直線距離」での計算とは整合しない。
不弥国から邪馬台国までの1300里は、あくまで「めぐり歩く」「転々とする」といった「移動距離」での1300里(105〜140km)なので、瀬戸内海まわりで宮崎市に進む土田説の場合だと、120kmの宇佐あたりまでしか到達できないことになる。
※ちなみに博多から奈良盆地の纒向遺跡までは「直線距離」でも500km以上ある。

邪馬台国までの行程
ところで「不弥国」からは「南」に「水行二十日」のはずだが、土田さんは細かい方角については頓着されないようで、不弥国は博多の「北東」にある福津市にあったという。ここから関門海峡までも「北東」に進む。
土田さんによれば、邪馬台国は福津市から20kmごとに港を整備して、邪馬台国の軍隊・兵士・輸送部隊・商船などが利用する宿泊所を設営していたそうだ。
まぁそんな便利なものがあるなら、魏の使節団も苦労してわざわざ一旦上陸したりせず、壱岐島から直で福津市まで「水行」すればいいような気もするが、それは脇に置く。
それよりもぼくが気になるのは、土田さんが20kmごとに設置されていたという寄港地には、魏使が「復命報告書」に記録せずにはおれないような、立派な「クニ」が存在したという点だ。

上の「図25」は邪馬台国時代を含む弥生後期後半の「鏡」の出土地を表したもの。
土田さんが寄港地に想定する「北九州」と「行橋」には、間違いなく「不弥国」よりも大きな「クニ」があったと思われるが、魏志倭人伝には載ってない。寄港したはずの魏使からは、何も報告がなかったんだろうか。
あるいは魏使は、北九州や行橋には寄港しなかった、そもそもその方面には行かなかった、って可能性もありそうだが、それも脇に置く。
そして、福津市から数えて11番目の寄港地が「大分」で、そこが土田さんの考える「投馬国」だ。
なんで寄港地が10か所なのに、土田さんが「水行二十日」と一致している!と主張してるかというと、当時の航海は一日おきに行われたからだそうだ。魏の使節団は、海に出ない日には衣服や体を洗っていたことが、倭人伝の「持衰(じさい)」の記述から分かるんだそうだ。

「投馬国」から邪馬台国までは「水行十日陸行一月」。
魏使の一行は「佐賀関」から「佐伯」までの5つの寄港地を一日置きに進んで「水行十日」。佐伯で上陸してからは、160kmの陸路にある十数か所の宿泊地で一泊から三泊しながら、一日平均10〜20km進んで、約一ヶ月で邪馬台国に到着したそうだ。
土田さんの考える行程が、上の地図になる。

そうして土田さんが考える、当時の九州の「国々の範囲」が上の図。
倭人伝には「女王国から北は、その戸数や道里はほぼ記載できるが、それ以外の辺傍の国は遠くへだたり、詳しく知ることができない」という文がある。(自女王国以北其戸数道里可得略載其余旁国遠絶不可得詳)
この魏使がよく知る「北」の国々を、土田さんは対馬〜投馬国だとし、「それ以外の辺傍の国」を上の図①〜⑪にある筑紫平野や佐賀平野のクニだとする。
倭人伝は「それ以外の辺傍の国」として「斯馬国」以下20カ国の名前を羅列したあと、「これが女王国の境界の尽きるところ」(此女王境界所盡)だといって、つづけて「その南に狗奴国がある」(其南有狗奴国)と書く。
これを土田さんは、「女王国の境界」には女王国は含まれないと読んで、①〜⑪の「辺傍の国」の「その南に狗奴国がある」と解釈する。
そうしてできたのが、東西南北から狗奴国が包囲されているという、上の不思議な地図。この状況なら、狗奴国は筑紫平野に進出したほうが有利な気がするが、なぜか険しい九州山地を越えて、宮崎市の邪馬台国と戦っていたということになる。

なお土田さんは、邪馬台国の南には「侏儒国」があり、その東南に「裸国・黒歯国」があるというのは、その南に種子島や奄美大島、沖縄がある宮崎市こそが邪馬台国である証拠だ!と書かれているが、失礼ながらそれは誤読ではないかという気がしている。
倭人伝は「東の倭種」につづけて「その南」に「侏儒国」、「その東南」に「裸国・黒歯国」と書いてるんだから、「東の倭種」が土田さんの言われる「四国」なら、その南部に「侏儒国」と「裸国・黒歯国」があることになるんじゃないだろうか。
例えば「東の倭種」は伊予、「侏儒国」が土佐、「裸国・黒歯黒」が阿波、みたいに。
念のため岩波文庫と講談社学術文庫の訳を引用。
(岩波文庫)
女王国の東、海を渡ること千余里、また国があり、みな倭種である。また株儒(こびと)国がその南にある。人のたけ三、四尺、女王を去ること四千余里。また裸国・黒歯国がその東南にある。(講談社学術文庫)
女王国の東へ、海を渡って千余里のところにまた、国がある。みな、倭の種族である。また、侏儒国がその南にある。この国の人の背丈は三、四尺で、女王国からの距離は四千里余りである。また、裸国や黒歯国が更にその東南にある。(原文)
女王国東渡海千余里復有国皆倭種又有侏儒国在其南人長三四尺去女王四千余里又有裸国黒歯国復在其東南

卑弥呼のお墓は「生目一号墳」か
土田さんによれば、247年か248年に死んだ卑弥呼のお墓は、3世紀後半から少し広く見て4世紀前半に築造されていて、「径100余歩」は前方後円墳の全長を記した可能性があるという。
すると宮崎市内にある「生目(いきめ)古墳群」では最も古い前方後円墳「生目一号墳」は、全長136mで「径100余歩」と一致しているし、築造年代も4世紀初頭。しかもこの古墳の軸線はアマテラスが生まれた「みそぎ池」を通過して「高千穂峰」に至る「聖なる直線上」にある。
生目一号墳が将来、本格的に発掘されたら「親魏倭王」の金印も出土するのではないか———と土田さんは期待されているわけだが・・・。

残念ながら、宮崎市教育委員会が2020年に発行したパンフレット『活き!行き!生目古墳群Vol.3』によると、生目一号墳の築造年代は、現在「4世紀後半頃」に引き下げられているようだ。生目古墳群では3番目に造営された100m級ということで、さすがに100年前に死んだ卑弥呼のお墓だとは考えにくい。
また土田さんは、倭人伝がいう「殉葬者奴婢百余人」は宮崎南部と大隅半島で営まれた「地下式横穴墓」(上の方に概念図あり)のことを指していて、生目古墳群の50基のそれが卑弥呼に殉葬した奴婢の墓だと言われるが、同じくパンフレットによれば、生目古墳群の地下式横穴墓は最古のものでも5世紀初頭の造営だとある。
5世紀初頭といえば、(長浜浩明さんの計算によれば)応神天皇から仁徳天皇の時代になるので、卑弥呼に殉死するにはチト遅すぎるタイミングかと思われる。

宮崎県の考古学
土田さんは、福岡市「奴国」の2万戸を基準に考えると、大分県+宮崎北部の「投馬国」が5万戸、宮崎南部+鹿児島県の邪馬台国が7万戸、というのは「想定される範囲にある」と書かれている。
おそらく、現在の福岡市が164万人、大分県100万人、宮崎県100万人、鹿児島県150万人をイメージして書かれてるように思われるが、正直なところ、ぼくには机上の空論のような印象がある。
というのも、宮崎市には有力な弥生集落の痕跡がないから。ぼくの知る限りでは、宮崎市佐土原町の「下那珂遺跡」は県内でも最大級という話を聞くが、見つかった住居跡は120軒ほどだという。
※下那珂遺跡の報告書はコチラからダウンロードを(PDF)
一方、福岡県の「平塚川添/平塚山の上遺跡」だと20haの調査で500軒以上、熊本県「方保田東原遺跡」では35ha中の5%の調査で400軒以上、同「新御堂遺跡」も500軒以上と、筑紫平野や熊本平野からはこんなのがゴロゴロと見つかっていて、しかも広範囲につながっていたりもする。

また、土田さんが邪馬台国の卑弥呼が独占したものに「鉄」があるというが、倭人伝が倭人が使っていたものとして挙げている「鉄鏃(鉄のやじり)」の出土数が上の「図5」。宮崎県が独占していたとは、チト言い難い印象がある。

それと、もうひとつ卑弥呼が独占したというのが「青銅器」。
土田さんは、宮崎市には「鏡洲」という地名があり、「邪馬台国でも鏡が製造され卑弥呼の神秘性を付加して、本州並びに四国へ販売されていた」と書かれているが、上の「図26」をみると、邪馬台国時代の銅鏡の出土数・・・宮崎県はゼロのように、ぼくには見える。
【追記】卑弥呼の「宮殿」は、邪馬台国が宮崎にあったとすると「宮崎神宮」の可能性が高いそうだ。ネックは宮崎神宮の本殿の裏手に「舟塚古墳」という5〜6世紀の前方後円墳があることで、参拝者はみな、この古墳を拝んでいることになる点。そんな場所が卑弥呼の聖地とは、チト考えにくい気がしないでもない・・・。
