(2)景行天皇と五十瓊敷入彦命 〜メスリ山古墳の被葬者は〜

五十瓊敷入彦命を祀る伊奈波神社 景行天皇

景行天皇はなぜ都を空けられたのか

播磨国風土記の「賀古郡」の記事に、景行天皇が「印南の別嬢(わきいらつめ)」に求婚したエピーソードが出ている。天皇は摂津から明石、そして「別嬢」が住む島にまで自分の足で旅をして、めでたく結婚に持ち込んだというが・・・天皇の身に危険はなかったのだろうか。

どうやらその当時の播磨国が、天皇にとって「安全圏」だったことを表していそうなのが、姫路市の「丁瓢塚古墳」の存在か。3世紀末につくられた100mほどの前方後円墳で、考古学者の石野博信さんによれば、あの「箸墓古墳」の約3分の一「同型」だそうだ。

丁瓢塚古墳 Google Earth
(丁瓢塚古墳 Google Earth)

景行天皇の旅好き?は、近隣国での女漁りには留まらない。日本書紀によれば、天皇はその12年の8月から19年9月まで、約7年もの期間、九州の巡幸を行っている。

それは長浜浩明さんの計算だとAD296〜299年という期間で、その間、天皇は一度も「纒向」の都に戻っていない。その留守は、いったいどこの誰が預かっていたのだろう。

(五十瓊敷入彦を祀る「伊奈波神社」2021年春参詣)

第一にその候補にあがるのは、景行天皇の「全兄」にあたる「五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)」だろう。垂仁天皇と日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の間に生まれた皇子で、河内や大和の溜池の造営や、武器の製造・管理などの事績が伝えられている。

何よりうってつけなのが、この皇子は「皇位」には関心がないことだ。

垂仁天皇30年(256年頃)、父に欲しいものを聞かれたとき、弟の大足彦尊が「皇位」と答えたのに対し、兄の五十瓊敷入彦は「弓矢」を望んだという。朝廷の武器庫として知られるのが「石上神宮」だが、ここに剣1000本を納めて、初代の管理人になったのが五十瓊敷入彦だった。

要は今で言う防衛大臣なわけで、景行天皇の留守を預かるのは五十瓊敷入彦を置いて他にはいない———という印象あり。

この「天下の副将軍」のような立場の人は五十瓊敷入彦が初めてではなく、父の垂仁天皇にも「夢占い」で皇位よりも「東国」の統治を望んだ兄、「豊城入彦命」がいた。

さらに遡れば、第9代開化天皇の第三皇子で、第10代崇神天皇の異母弟にあたる「彦坐王(ひこいますのみこ)」も、それに該当するとぼくは思う。

ぼくはこの彦坐王は、記紀がいうような開化天皇の皇子ではなく、「近江王朝」を率いた”もう一人の天皇”だと思っていて、ヤクザ社会的な「盃」を受けることで開化天皇の義理の「子」になった関係———だと思っているのだった。

「伊勢遺跡」の案内板
(「伊勢遺跡」の案内板/2022年夏訪問)

彦坐王と伊勢遺跡

ヤマトの都「纒向遺跡」というと、農耕に関わる出土品がほとんどないことから、「政治都市」とか「宗教都市」として語られることが多い集落だ。そしてその先輩ともいえる存在が、滋賀県守山市にある近江の弥生集落「伊勢遺跡」だ。

30haほどの遺跡面積には「祭殿」とみられる大型建物が13棟も並んでいて、一方、居住用の竪穴建物や穀物蔵が見られない。なので地元の研究者の間では、人が生活した気配のない「巨大な祭祀空間」だけがあったムラだと考えられているようだ。

※詳しくは「弥生近江の大型建物」守山弥生遺跡研究会

彦坐王を祀る「粟鹿神社」
(彦坐王を祀る「粟鹿神社」2021年夏参詣)

彦坐王は一介の皇子の身分でありながら、天皇と同じように妃や子女の系譜が記載されている。そんな厚遇を受けたのは、彦坐王とヤマトタケルだけだという。

また彦坐王を祖とする「国造」は多数いて、甲斐・本巣(岐阜)・但馬・淡海(滋賀)・三野前(岐阜)・因幡(鳥取)が挙げられる。彦坐王を祖とする「氏族」も多数いて、古記事で14氏、新撰姓氏録で17氏が記載されている。

彦坐王の母方は「春日(奈良市)」を拠点にした「和珥(わに)」で、その同族には春日臣、小野臣、柿本臣など16氏。彼らは大和北部、山城南部、近江、丹波、尾張などに広く分布していたようだ。

彦坐王を祀る「石坐神社」
(彦坐王を祀る「石坐神社」2022年夏参詣)

と、以上を聞いて、さすがに彦坐王をただの皇子だと思う人は少ないだろう。

ぼくは、元々は彦坐王は「伊勢遺跡」を政治・宗教的な首都とした「和珥氏グループ」の総帥で、”もう一人の天皇”と呼んでも過言ではない地位にあったが、何らかの事情で”大和組”の「親分」である開化天皇の「盃」を受けて「子分」となり、グループ丸ごとをヤマトと合併させた———という大人物だと想像している。

そのとき、開化天皇が彦坐王の「伊勢遺跡」をモデルにして構想したのが、政治都市「纒向」だったんじゃないだろうか。

考古学者の石野博信さんによれば、纒向遺跡の造営が始まったのはAD180年代だという。開化天皇の在位は長浜さんの計算だと)AD177−207年頃なので、ちょうどいいタイミングだ。

一方「伊勢遺跡」は2世紀の終わりまでには終焉を迎えていたというから、纒向遺跡の発展とはクロスフェードの歴史を辿ったのかも知れない。

※詳しくは「伊勢遺跡ってどんな遺跡?」守山弥生遺跡研究会

奈良市の風景 写真AC
(春日の風景 写真AC)

景行天皇は大和と近江の統合の象徴

ところで、ぼくが”近江の天皇”だという彦坐王には、ふたりの有名な腹違いの息子がいた。一人は四道将軍の「丹波道主」で、もうひとりが「狭穂彦王」だ。

サホヒコの妹の「狭穂姫」は、第11代垂仁天皇の最初の皇后だ。

だがこのサホヒコは、自分にも皇位継承権があると勘違いしたか、妹をそそのかして天皇の暗殺を計画する。幸いその計画は兄と夫の板挟みに苦しんだ皇后の涙で発覚し、天皇の軍がサホヒコを囲んだ。すると皇后は兄を選び、サホヒコの城に立て籠もってしまう。

このとき、死にゆく狭穂姫が「後宮」の今後を託したのが、イトコの丹波道主の5人の娘たちだ(つまり姪っ子)。垂仁天皇がこれを受けると、彦坐王が春日(奈良市)のお妃に産ませた兄と妹は、炎の中に消えていったという。

丹波道主を祀る「神谷太刀宮神社」
(丹波道主を祀る「神谷太刀宮神社」2021年夏参詣)

古事記によると、開化天皇は丹波大県主「由碁理(ゆごり)」の娘「竹野媛」を妃に娶っている。これは日本海航路の中心地「丹後」を支配する、ユゴリと手を組むための政略結婚だろう。

京丹後市にはAD200年頃に築造されたという、日本屈指の規模を誇る弥生墳丘墓「赤坂今井墳墓」が存在する。タイミング的には、ユゴリのお墓にふさわしいとぼくは思う。

その後、長浜さんの計算だとAD212年頃、崇神天皇の命令で四道将軍「丹波道主」が北近畿の攻略に向かう。おそらくは、ユゴリ亡き後の日本海航路の掌握(奪取?)が目的だったんじゃないだろうか。それと、アメノヒボコに代表されるような、日本海を渡ってくる外国人の差配にも関わったのかも知れない。

そんな崇神天皇の信任厚い、丹波道主の娘を5人も後宮に入れたのが垂仁天皇だ。そしてそのうちの長女「日葉酢媛」が二代目の皇后に立てられた。

つまり垂仁天皇の皇后は、前任も後任も彦坐王の血を継いでいて、そこから産まれたのが景行天皇と五十瓊敷入彦。大和の皇室と、近江の”もう一人の天皇”の血が完全に合体したのが、日葉酢媛の息子たち———ということだろう。

この頃、畿内の一帯から広がって、その周辺の近江、美濃、丹波、但馬、因幡あたりまでが「ヤマト」になったのだった。

養父神社の拝殿
(丹波道主を祀る「養父神社」2021年夏参詣)

こうして近江勢力と合体したヤマトの中心地、「纒向」は安全地帯となった。留守を預かるのは彦坐王の血を受け継いだ五十瓊敷入彦なんだから、敵意を持つ者もいなかったのだろう。

景行天皇が、九州制覇を目指して大規模な軍を起こす準備は、すでに整っていたというわけか。

『ヤマトの王墓・桜井茶臼山古墳』

五十瓊敷入彦のお墓はメスリ山古墳か

ここまでの流れを整理すると、3世紀の天皇にはそれぞれ「副天皇」のような存在がいて、天皇の右腕として働いていたようだ。

第9代開化天皇(在位177−207頃)には彦坐王、第10代崇神天皇(在位207−241頃)には丹波道主、第11代垂仁天皇(在位241−290頃)には豊城入彦、そして第12代景行天皇(在位290−320頃)には五十瓊敷入彦だ。

椿井大塚山古墳 写真AC
(椿井大塚山古墳 写真AC)

それでこの人たちのお墓を考えてみると、まず国立歴史民俗博物館がAD240−260頃の築造だと主張する「箸墓古墳」については、タイミング的には崇神天皇が丁度いい。長浜さんの計算だけではなく、古事記の「崩年干支」でも258年崩御と、歴博の想定内に収まっている。

んで、その右腕である丹波道主には、箸墓古墳のあとに造られた京都府木津川市の「椿井大塚山古墳」がふさわしい気がする。大量の三角縁神獣鏡が出土したことで知られる175mの前方後円墳で、なにより母方の和珥氏が勢力下に置いた、山城南部という立地がそれっぽい。

考古学者の広瀬和雄さんも、椿井大塚山古墳の被葬者は「奈良盆地の北方出入り口でにらみをきかせた、大和政権の一角をになう有力首長」だといい、「奈良盆地への北方の要衝で、その勢威を見せつける役割を果たした」と書かれている。
(『前方後円墳とはなにか』2019年)

四道将軍として、奈良盆地の「北方」を担当した丹波道主以外の誰が該当するか、というかんじだ。

山辺・磯城古墳群と佐紀古墳群、百舌鳥・古市古墳群の展開と消長
(出典『ヤマト政権の一大勢力・佐紀古墳群』今尾文昭/2014年)

箸墓古墳につづく天皇陵が、3世紀末に築造された「西殿塚古墳(225m)だというので、単純に考えれば垂仁天皇のお墓だろう。それにつづく4世紀前半の「行燈山古墳(242m)が、景行天皇陵だ。

実はこの二つの古墳には、同時期に造られた200m級の前方後円墳があって、それが「桜井茶臼山古墳(200m)と「メスリ山古墳(224m)。ただ、この二基はどういうわけか、箸墓古墳から4〜5kmも南に離れた場所に造営されている。

奈良盆地東南部の古墳群
(出典『ヤマトの王墓 桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳』千賀久/2008年)

広瀬さんは、桜井茶臼山もメスリ山も、墳丘の規模だけなら「大王墓に遜色はない」が、墳丘が箸墓のような「ばち形」ではない「柄鏡式」で、墳丘を囲む「周濠」もないし、まわりに古墳群を形成しない単立墳である点などから「大王とほぼ同格だが、それに準ずる親縁的な有力首長」のお墓だろうと書かれている。

「大王とほぼ同格」というと、フツーに考えればその兄弟になるだろう。

上の「図5」で分かるように、桜井茶臼山古墳は「東」から来る人にその威容を見せつけている。これは皇位を垂仁天皇に譲って、自分は東国政策を担当した豊城入彦のお墓にふさわしいと思う。

そしてメスリ山古墳からは、銅鏃236本、槍先212本以上など大量の武器が出土していて、中には日本で唯一かといわれる「鉄弓」が含まれていたそうだ。

これは皇位を景行天皇に譲って、自分は「弓矢」を望んだ五十瓊敷入彦のお墓に間違いないようにぼくには思えるが、何しろわが国の巨大墳墓の副葬品には、被葬者の名前がまったく書かれてないわけで・・・。

箸墓古墳墳丘の段築想定復元図
(出典『最初の巨大古墳・箸墓古墳』清水眞一/2007年)

箸墓古墳以前

ここからは雑談。

上の「図9」は、ぼくが崇神天皇陵だと思っている「箸墓古墳」の想定復元図。前方部と後円部の比率が1:1で、前方部の先端が「ばち形」に開いているのが墳丘の特徴だという。

この箸墓古墳をもってヤマトの前方後円墳は「定型」したとされていて、この平面図をそのまま1/3や1/6に縮小した首長墓が、日本各地に造られたんだそうだ。

ところで3世紀の奈良盆地の古墳を調べていると、築造年代が識者によって何十年も違うケースが結構ある。その理由は、周濠などから出土した土器の年代観に違いがあるからだという。

だったら一度、土器の年代は全く考慮せず、単に墳丘が「定型」に近いかどうかで並べ直してみればいい、と思ってやってみたのが、以下。

①纒向石塚古墳(96m)

前方部と後円部の比率が2:1で、後円部の形もブサイク。埋葬施設は石を使わない素掘りのもので、奈良盆地で最古の古墳であるのは多くの識者が認めるところ。ただし、古墳ではなく弥生墳丘墓だという説もある。

纒向石塚古墳
(出典『ヤマトと伊都国』伊都国歴史博物館/2023年)

纒向矢塚古墳(96m)

石塚よりは整ってきているものの、やはりブサイク。ぼくは石塚と矢塚は、開化天皇とその皇后(崇神天皇の母)のお墓かと思っている。

纒向矢塚古墳

ホケノ山古墳(80m)

まだまだ前方部が短く、後円部もブサイク。ただ埋葬施設に独自性があるし、貴重な「画文帯神獣鏡」を副葬していることから、ぼくは我らが彦坐王のお墓かと思っている。

ホケノ山古墳
(出典『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』石野博信/2008年)

纒向勝山古墳(110m)

方と円の比率がかなり1:1に近くなってきた。福岡県で最古の前方後円墳といわれる「那珂八幡古墳」は、こちら勝山古墳の3/4相似形だそうだ。

纒向勝山古墳

東田大塚古墳(120m)

これは完全に1:1で、「定型化」したあとの「箸墓型」だと評価する識者も多い。ぼくは勝山と東田大塚は、四道将軍「吉備津彦」と「大彦」のお墓だと思っている。または崇神天皇の兄弟か、皇后。

東田大塚古墳

黒塚古墳(130m)

方と円が1:1のうえ、前方部が「ばち形」に開いていて、箸墓古墳にかなり近いデザイン。ただ、箸墓古墳が採用した「葺石」もなければ「特殊器台」も出土していないので、箸墓古墳よりやや古いと見るのが妥当なんだろうか。

ぼくは四道将軍「武渟川別」のお墓かと思っていたが、武渟川別は垂仁天皇の「五大夫」の一人なので、箸墓古墳より古いお墓には入れないか・・・。

黒塚古墳
(現地の案内板)

箸墓古墳以後

そしていよいよ箸墓古墳の登場。歴博が主張するAD240ー260年頃という築造年代は、こちらを崇神天皇陵に推すぼくにとっては誠に都合がいい数字だ。

一方、奈良盆地最古の古墳?の「①纒向石塚」は、考古学者の石野博信さんがAD210年頃の築造を主張していて、それに従えばざっと50年間に上記の6基が造営されていったことになる。

四隅突出型墳丘墓
(四隅突出型墳丘墓)

箸墓古墳の新機軸は二点あって、まずは墳丘を覆う「葺石」。こちらは出雲の王墓、「四隅突出型墳丘墓」にルーツがあるという。長浜さんの計算だと、AD237年頃と254年頃に出雲はヤマトの侵攻を受けているので、現地で葺石をみたヤマトの将軍が、その築造技術を持ち帰ったものかも知れない。

というわけで、「葺石」を備えている前方後円墳は、箸墓古墳以後と考えることにする(上の①から⑥には葺石がない)。

吉備の特殊器台
(吉備の特殊器台)

箸墓古墳のもう一つの新機軸が、のちに「埴輪」に発展する「特殊器台」を墳丘上に並べたこと。こちらは吉備にルーツがあるという。ただそれは、「葺石」ほど一斉に導入されたわけじゃなかったようだ。

日本書紀によれば、垂仁天皇28年(長浜さんの計算でAD255年頃)、天皇の同母弟「倭彦命」が薨去したとき、天皇は「殉死」の風習に心を痛め、今後の中止を宣言している。

その勅命を受けてAD257年頃、皇后「日葉酢媛」の薨去に際し、天皇は出雲の野見宿禰に命じて殉死に代わる「埴輪」の製作を命じている。つまり、倭彦命の段階ではまだ埴輪はなかったが、日葉酢媛のお墓には埴輪がある・・・。

すると3世紀後半に造られた130m級のうち、「ヒエ塚古墳(ばち形)には埴輪がなく、「中山大塚古墳(ばち形)には埴輪があると分かる。後者の中山大塚古墳は、ぼくが垂仁天皇陵に推す「西殿塚古墳」とは100mも離れていない。

というわけで、「葺石」を貼りながら埴輪(または特殊器台)のない前方後円墳は、箸墓以後で中山大塚以前ということになりそうな気がする。

景行天皇(3)につづく

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