神功皇后が山門県の邪馬台国を滅ぼした 〜『邪馬台国とヤマト建国の謎』関裕二

『邪馬台国とヤマト建国の謎』表紙の抜粋 邪馬台国

邪馬台国は北部九州、ヤマトは畿内・纒向

邪馬台国関連の読書感想文シリーズ、その10回目は関裕二『邪馬台国とヤマト建国の謎』(2021年)。

Amazonで古代史関連を検索すると、必ずヒットするのが関さんの本だ。そんな人気作家の関さんによれば、邪馬台国の所在地は北部九州の「山門県(やまとのあがた)」(現みやま市)。

ただし、その「邪馬台国」の卑弥呼は”倭国王”を詐称して「親魏倭王」の金印を手に入れたものの、畿内・纒向にあった本物の「ヤマト」によって、武力で滅ぼされたのだという。

日本書紀には、神功皇后に滅ぼされた「山門県」の土蜘蛛「田油津媛(たぶらつひめ)」が登場するが、この女酋こそが「卑弥呼」の正体だと関さんはいう。

『邪馬台国とヤマト建国の謎』表紙

ところで、関さんの本を一冊でも読んだことがある人ならご存知のとおり、関さんの議論はポンポンと小気味よく飛躍するので、なかなか論旨が掴みづらいところがある。

そこで今回は、関さんご自身が折にふれて自説を要約してる部分をまず引用して、つづけてぼくの感想文を付け加える形でいこうと思う。

関門海峡 写真AC
(関門海峡 写真AC)

ヤマト建国までのいきさつ

ほいじゃー順番に、まずは「ヤマト建国」までの経緯を、関さんご本人による要約から。

弥生時代後期にもっとも栄えていたのは北部九州で、日本海側にも鉄器は流れていた。

北部九州は畿内から東に鉄が流れることを嫌い、出雲と手を組み、関門海峡と明石海峡を封鎖したが、出雲の圧力を嫌ったタニハが、近江東海と交易を始め、ふたつの地域は力をつけ、ヤマト(奈良)の盆地に進出した。

これでパワーバランスが崩れ、吉備と出雲がヤマト建国に参画する。

『邪馬台国とヤマト建国の謎』

さて、読んで真っ先に持った違和感は、弥生時代後期(AD1世紀〜2世紀末頃)の西日本が、あたかも戦国時代のように「北部九州」「出雲」「吉備」「タニハ」といった集団にまとまっていて、統一された意思を持って自己の権益の拡大に励んでいる、という図式だ。

北部九州が出雲と組んで「関門海峡」や「明石海峡」を封鎖———なんて口で言うのは簡単だけど、手漕ぎの丸木舟しかない時代に、それはどんな方法で実現されたものなのか、想像もつかない。

明石海峡 写真AC
(明石海峡 写真AC)

また、2世紀後半の出雲だと、彼らの王墓「四隅突出型墳丘墓」は東の出雲平野と西の安来(やすぎ)の二か所に造営されていて、まだ「出雲国」としてのまとまりがない段階だったという。

北部九州と手を組んだという「出雲」は、東西どっちの出雲だったんだろうか。

それと、「出雲」の圧力を嫌った「タニハ(旦波)」と関さんは書かれているけれど、AD180年頃に築造された出雲の王墓「西谷三号墓」から出土した土器には、60%の地元・出雲製に混じって、「丹越系」といわれる北近畿から北陸にかけての土器も、21%含まれている。

これは、関さんが出雲が手を組んだと言われる「吉備」の土器、14%を上回る数字になる。

しかもそれら「丹越系」の土器は山陰の土で作られたもので、丹後や越から実際に人間がやってきて、出雲で作ったものだと考えられているようだ。タニハと出雲が対立していたら、こういう展開にはならないような気がする。
(『出雲王と四隅突出型墳丘墓・西谷墳墓群』渡邉貞幸/2018年)

四隅突出型墳丘墓「西谷二号墓」
(四隅突出型墳丘墓 2019年秋見学)

関さんが出雲とタニハが対立していたという根拠には、タニハが出雲の四隅突出型墳丘墓を採用せず、北近畿オリジナルの「台状墓」をつくり続けたことがあるようだ。でも王墓の形状でいえば、吉備だって全く異なるし、出雲よりデカかったりする(楯築遺跡)。

それに、AD200年頃に築造されたとされる、タニハの王墓「赤坂今井墳墓」からは山陰の土器も出土しているし、出雲に近い「伯耆」の「下張坪遺跡」からはタニハの土器が大量に出土していて、タニハからの集団移住も考えられるという。
(『弥生興亡 女王・卑弥呼の登場』石野博信/2010年)

———関さんが、読者に分かりやすく伝えるために、細部をカットして説明することは理解できるが、2C後半の西日本が戦国時代の「国」のような統一的な意思を持って動いていたとは、ぼくにはちょっと腑に落ちないこところだ。

赤坂今井墳墓の案内板
(赤坂今井墳墓 2021年夏見学)

それはそうと関さんの説に戻ると、まだ畿内に「ヤマト」は存在していなかった2C後半、北部九州はヤマトの成長を恐れ、東への「鉄」の流出をストップさせるべく出雲と吉備と手を組んで、明石海峡を封鎖したという。

この動きに反発したのがタニハで、「北部九州+出雲連合」に対抗すべく、「鉄」を欲していた「近江」「東海」と手を組んだという。当時のタニハは北部九州、出雲に次ぐ、鉄の保有量を誇っていた地域だ。

確かにこのときのタニハの動向には考古学の裏付けがあって、タニハの王が「日本海交易によって鉄素材を確保し、鉄器の生産と近畿南部や東海地方への流通を掌握(高野陽子)していたことは、多くの物証から確実視されているそうだ。
(『邪馬台国時代のクニグニ』2015年)

近江「伊勢遺跡」の案内板
(近江「伊勢遺跡」の案内板 2022年夏見学)

ただ、タニハが近江や東海に鉄を流し、その発展を支援した理由についての関さんの説明は、正直よく分からなかった。

関さんによれば、タニハは「北部九州+出雲連合の鼻を明かすために東の成長を促し、ヤマトに進出させることによって出雲や吉備をあわてさせるため」に近江や東海を支援したというわけだが、それらを成長させたところで、タニハには特にメリットはないような気がしないでもない。

でも、まぁ、とにかくそうして3C初頭には近江と東海が奈良盆地に入って「纒向(まきむく)遺跡」の建設を始めたそうだ。すると時を同じくして、タニハが「播磨」を圧迫して、明石海峡の制海権を確立したのだという。

そうして播磨と明石海峡の権益を失った「吉備」が纒向遺跡の建設に参加すると、「出雲」も折れて吉備とともに「ヤマト建国」に参画するようになっていったんだそうだ(この辺のロジックもよく分からず)

纒向の外来系の土器の比率
(出典『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』石野博信/2008年)

おそらく関さんの頭の中には、纒向遺跡の発掘を担当された考古学者・石野博信さんが作成した上の「図13」があるんだろうと思う。

確かに纒向遺跡からは各地の土器が出土していて、場所にもよるが15〜30%が外来系だとされている。「図13」をみれば、東海が49%、近江が5%と、関さんの説の通りの状況に見える。

だが、外来系が30%に達したのは「纒向3類」つまりAD250−270年頃だという事実も、図13の帯グラフからは読みとれる。一方、関さんが「ヤマト建国」のために近江や東海から人々が流入したという「纒向1類」(AD180−210年頃)だと外来系の割合は10%程度で、ほとんどは地元の奈良盆地の土器になる。

となると纒向遺跡に各地から人々が集まったのは、3C後半になってから、ということになるんじゃないだろうか。

最盛期の唐古・鍵ムラ
(出典『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』藤田三郎/2019年)

考古学者の坂靖さんによれば、関さんがヤマトが建国されたという3C前半の纒向遺跡は、まだ100haほどの規模だったそうだ。同じ頃の伊都国の王都「三雲・井原遺跡」の60haよりは大きいが、奴国「須玖遺跡群」の200haには劣る、そんなサイズだ。

それが、その時代の日本最大級、300haにまで拡大したのは、3世紀も終わり頃のことだという。繰り返しになるが、纒向遺跡に各地から人が集まったのは3C後半ということで、関さんの説よりずっと後の時代のことになるようだ。
(『ヤマト王権の古代学』2020年)

2世紀の奈良盆地には、700年続いた中心集落の「唐古・鍵遺跡」があって、こちらは纒向遺跡とはクロスフェードするように衰退していったという。フツーに考えれば、唐古・鍵遺跡の人たちこそが、ヤマトを建国したメインプレーヤーってことになる気がする。

纒向遺跡の「想定復元図」
(出典『ヤマトと伊都国』伊都国歴史博物館/2023年)

北部九州の孤立と奴国の裏切り

ヤマト建国に続いては、北部九州へのヤマトの侵攻について、関さんの要約から。

北部九州沿岸部はヤマトに靡(なび)いたが、筑後川左岸域の「反ヤマト・倭国連合」の女王卑弥呼は、朝鮮半島に進出してきたばかりの魏に使者を送り、「われわれがヤマト」と偽った。
そこでヤマトは、神功皇后らを派遣する

『邪馬台国とヤマト建国の謎』

関さんの本で繰り返し出てくるのが、3C初頭に纒向遺跡に集まった人々が「北部九州に流れ込んでいることが考古学的に分かっている」というフレーズ。繰り返されるんだから、このフレーズが関さんの説の「肝」に当たるんだろう。

それで、そうやって流れ込んだヤマトが押さえた場所が、大分県の「日田」と福岡市の「奴国」だという。

日田市 グーグルアース
(Google Earth)

日田という土地は、たしか魏の曹操の鉄鏡が出土したとかしないとかで、名前だけは聞いたことがあったものの、具体的にどこにあるのか全く知らないぼくだったが、Google Earthで表示してみた地形が上。

関さんは日田盆地をヤマトが押さえると、筑後平野の邪馬台国は背後をつかれる苦境におちいると言われるわけだが、軍事シロウトの目で見た印象では、平野と盆地が「狭路」「隘路」で繋がれてるおかげで大軍が通れず、邪馬台国にとってはむしろ守りやすい方面のような気もするが、よく知らない分野なので黙ることにする。

小迫辻原(おざこつじばる)遺跡の空撮
(出典 日田市公式サイト)

地形以外にも、日田で関さんが注目しているのが「小迫辻原(おざこつじばる)遺跡」。ここには「政治と宗教に特化した環濠集落」があって、畿内と山陰系の土器がみつかっているそうだ。

ただ、ぼくが日田市の公式サイトを見に行ったところ、日田に「特殊性の高い施設」がつくられたのは「3世紀中頃から4世紀にかけて」とのことで、関さんのいう時代より後の話らしい。

また「畿内系・山陰系・瀬戸内系の外来系土器」が出土したというのは、日田より北の山中にある田川郡赤村の「合田遺跡」のことのようで、土器の件では日田でヒットする記事は見当たらなかった。

奴国の推定範囲
(出典『奴国の王都・須玖遺跡群』井上義也/2024年)

それじゃ、3C前半に近畿や山陰の人々がなだれ込んだという「奴国」の方はどうかというと、関さんによれば、福岡市の「比恵・那珂遺跡」から外来系の土器が出土していたり、「初期型の前方後円墳が造営」されていたりすることなどが、ヤマトからの人口流入の根拠なのだという。

だが考古学者の石野博信さんによると、畿内の「庄内式(纒向式)土器」には大和で作られたものと、河内で作られたものの二種類があって、3C前半の段階で北部九州で出土するのは「河内型」なんだそうだ。

(略)同じ纒向式土器でも、大和でつくられたものと河内で作られたものとは違いがあります。

(略)これは、九州の福岡県で出てくる纒向式土器の中でも大半は纒向河内型であることが判ってきていますから、三世紀の近畿系土器の西に動いている主体は大和ではなく河内、大阪湾岸の人たちであるということであります。

(略)その後、纒向型土器の出土遺跡が増えてきますと圧倒的に河内型が多いということが判ってきて、今現在では、三世紀の近畿系の土器が西に動いている場合は河内型が中心であるということが判っております。

(『邪馬台国時代のクニグニ・南九州』2014年)

石野さんと一緒に纒向遺跡の発掘を担当された関川尚功さんも、纒向遺跡に北部九州の鉄器製作技術が伝わったのが「庄内式の終わり頃」である点などから、北部九州と纒向遺跡が繋がるのはAD270年以降のことだとされている。

この庄内式の終わり頃には、北部九州においても大和・河内の庄内式土器が他地域の土器と共にみられるように、ようやく近畿中部と北部九州との交流関係がうかがえるようになる。このような流れの中で、纒向遺跡では鉄器製作技術が受容され、その生産が始まったものといえよう。

この博多遺跡群について重要なことは、遺跡の所在するところが、『魏志』にいう「奴国」の領域にあたることである。これまで北部九州との接点が、ほとんどなかった纒向遺跡において、この時期に至り、かつての奴国より、ようやく鉄器生産技術が到来することになったわけである。

(『考古学から見た邪馬台国大和説』関川尚功/2020年)
那珂八幡古墳の空撮
(出典『奴国の王都・須玖遺跡群』井上義也/2024年)

また、関さんのいわれる「初期型の前方後円墳」は、博多区の「那珂八幡古墳」(75m)を指していると思われるが、九州の考古学者・久住猛雄氏によれば「比恵・那珂遺跡では、那珂八幡古墳が築かれる前後から畿内系の土器が主体になり、大和の土器の影響をリアルタイムに受けるようになる」のだという。
(出典『奴国の王都・須玖遺跡群』井上義也/2024年)

久住氏によれば、那珂八幡古墳は「纒向古墳群」のなかの一つ、「纒向勝山古墳」(115m)の4分の3の相似規格である可能性が高いそうで、だとしたらその築造は纒向勝山古墳と同じか、それ以降ということになるだろう。

それで纒向遺跡の発掘を担当された石野博信さんの本を開いてみれば、纒向勝山古墳の周濠からは「纒向4類」(AD270-290年頃)の土器が大量に出土していて、その築造年代は3C後葉とされているようだ(纒向1類の土器も出土しているものの、常識として新しい土器の年代が採用される)

那珂八幡古墳もおそらくはその頃の築造となると、ここでもやはり、纒向遺跡と北部九州がつながったのは3世紀後葉———ということになりそうだ。

なので関さんの説は、全体的に30〜40年ぐらい年代が前倒しにされているような印象がある。

纒向勝山古墳 写真AC
(纒向勝山古墳 写真AC)

もう一つ、奴国への東からの人口流入の根拠として、関さんは福岡市早良区の「西新町遺跡」から出土した土器のうち、ヤマト系が25&、出雲系が9%と外来系が多い点を挙げられている。

だが、地元の「福岡市博物館」のサイトによれば、西新町遺跡に各地の土器が搬入されたのは「4世紀頃になると」とある。

福岡市博物館 – 砂丘の遺跡 西新町・藤崎遺跡

同じく地元の「九州歴史資料館」のサイトでも、西新町遺跡に各地の人々が集まったのは「約1700年前」の4世紀初頭とされているし、畿内系の土器は(大和よりも)「河内のものと非常に近い作り」だと書いてある。

九州歴史資料館 – 土器が語る。多文化交流の町、西新町遺跡

神功皇后(台与)が邪馬台国の卑弥呼を倒す

つづいては邪馬台国の滅亡について。

ヤマトの王家の祖は神功皇后で、彼女は台与であり、ヤマトから北部九州に遣わされ、邪馬台国の卑弥呼を倒し、成り行き上倭国の女王として君臨した。しかし、ヤマトとの間に生まれた疑心暗鬼によって、 一触即発の事態を招いた。

『邪馬台国とヤマト建国の謎』

ここまで読んできてようやく、関さんが3C前半の奴国に近畿や山陰の人たちがなだれ込んでいた———と繰り返す理由が良くわかる。

つまり、ヤマトが邪馬台国を武力で滅ぼしたという関さんのストーリーにとって、3C前半の奴国に大量の人間がなだれ込んでいる必要があったというわけだ。魏志倭人伝には邪馬台国は「7万戸」とあるのに対し、奴国の「2万戸」では全然兵力が足りないのだった。

ただ、これまで見てきた通りでぼくの知る限り、3C前半の奴国に纒向のヤマトが兵を送ったという事実はなさそうだ。

ヤマトといえば気になるのが、「ヤマトは神功皇后らを派遣する」のくだり。一方で「ヤマトの王家の祖は神功皇后」だともいうわけで、関さんのいう「ヤマト」って何なんだ?

これはどうやら関さんの中では「ヤマト」は吉備、出雲、近江、東海からなる連合政権を指すようで、その中心は「吉備」らしい。吉備から出たのが大豪族の「物部氏」だそうで、日本書紀に出てくる「ニギハヤヒ」こそが「ヤマト」の初代王で、「崇神天皇のモデル」なのだという。

なんで物部氏が吉備出身かというと、物部氏が広く分布していた河内から、吉備の「特殊器台」が出土しているからだそうだ。ちなみに吉備の特殊器台は、出雲や奈良盆地からも出土しているが、それらと物部氏の関係については言及がなかった。

物部系の崇神天皇が裏切り、神功皇后は鹿児島へ逃走する

そして神功皇后はヤマトに見捨てられ、日向(当時の宮崎県+鹿児島県)に落ち延びていく。関さんの中で、神話の天孫降臨とリアル歴史がリンクしていく・・・。

瀬戸内海勢力と日本海勢力の主導権争いもからみ、瀬戸内海勢力は日本海+北部九州勢力をバックボーンとした神功皇后(台与)を裏切り、日本海勢力も没落した。

そして不意打ちを食らい敗れた神功皇后は、奴国の阿曇氏らの海人のネットワークを頼りに、九州島西岸を南下し、南部九州の野間岬に逃れ、隼人らの社会にまぎれこんだ……。

『邪馬台国とヤマト建国の謎』

崇神天皇が神武(応神)を畿内に呼び寄せる

このあと日本書紀にあるように、奈良盆地に「疫病」が蔓延する。この原因を神功皇后の「呪い」だと考えた崇神天皇が打った手が、神功皇后の末裔を奈良盆地に呼び寄せ、祭り上げることだった、と関さんはいう。

(略)崇神天皇は日本海勢力や北部九州で敗れた人たちの恨みを払うために、南部九州に逃れた神功皇后の末裔の鬼を、呼び寄せたのではないか。つまりそれが、神武天皇である。

第十代崇神天皇と初代神武天皇(=応神)は通説の言うような同一人物ではなく、同時代人だろう。そして、日本海勢力(大物主神)の崇りを恐れた崇神天皇は、南部九州から日向御子=神武天皇を呼び寄せ、祟る神を祀る祭司王に立てたのだろう。

これが権力を持たされない「天皇」の原型となった。

『邪馬台国とヤマト建国の謎』

著書が売れてるんだから、関さんが遊ぶパズルのような、パラレルワールド的な古代史には、かなりの需要があるんだろう。

ただ、ぼく個人が興味を持っているのは文献や考古学のFACTなので、あまりこういう本を読むことはない。もしも酒場あたりで目の前にいる関さんに「神功皇后が台与でさー」とか語りだされたら、思わず「そういえば山本五十六ってさー」とか言って、むりやり話題を変えてしまいそうな気がする。

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