景行天皇の即位 〜3世紀後半の日本〜

渋谷向山古墳 景行天皇
写真AC

「纒向」の完成へ

日本書紀によればAD71年、第12代景行天皇は「纒向日代宮」で即位した。長浜浩明さんの計算だと、それはAD290年のことで、そのとき景行天皇は24歳だった。

崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の三帝の皇居があったのが、いわゆる「纒向遺跡」。考古学者の坂靖(ばんやすし)さんによると、3世紀中葉の「庄内式期」までの纒向遺跡の範囲は約1平方キロ(100ha)ほどだったそうだ。

それが景行天皇が即位した3世紀末の「布留式期」になると、東西南北全ての方向に広がって、遺跡面積は約3平方キロ(300ha)に達したという。同時代では日本最大の集落になる。

「ヤマト王権の古代学」

纒向遺跡の中でもひときわ目を引くのが、全長280mの超巨大墳墓「箸墓古墳」だ。坂さんによれば、箸墓古墳の築造は「布留式のはじめ頃」とのことなので、AD270〜290年の間になるんだろうか。

その時点のヤマトが、すでに近隣諸国に強い影響を及ぼしていたことが分かるのが、箸墓古墳と「同一設計」で造られた古墳の分布だという。

箸墓古墳の1/2が吉備の「浦間茶臼山古墳」、1/3が山城の「元稲荷古墳」「五塚原古墳」で、他にも播磨、讃岐などに箸墓古墳の「相似形」が造られたのだという。

『考古学から見た邪馬台国大和説』関川尚功

3世紀中葉までの纒向には「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」や「奴国」との繋がりがなく、北部九州からの土器は見られなかったそうだ。

それが繋がったのも、やはり庄内式期の終わり頃で、当時の日本列島では圧倒的な鉄器生産力を誇った「博多遺跡」で使われていた「ふいごの羽口」が、纒向遺跡から出土しているという。3世紀の終わり頃、北部九州の先進文化が一気に奈良盆地にも流れ込んでいたようだ。

箸墓古墳
(箸墓古墳 写真AC)

といった感じで、景行天皇が即位した頃の纒向が全盛期を迎えていたことは間違いなさそうだとしても、それを実現させるには大勢の人間と相当な経済力が必要になることだろう。ヤマトはそれを、どうやって獲得したんだろうか。

纒向遺跡の「想定復元図」
(出典『ヤマトと伊都国』伊都国歴史博物館/2023年)

3世紀半ばに消えた集落

纒向が3倍化したのは半世紀にも満たない期間だったので、自然な出産のサイクルによる人口増だったとはチト考えにくい。どこからか、大量の人間が移住してきたと考えるのがフツーだろう。

すると、実は3世紀なかばの西日本では、それまで隆盛を誇った大集落が、ある日忽然と姿を消したケースがケッコーみられるのだという。

『弥生興亡 女王卑弥呼の登場』

出雲

まずは出雲で、考古学者の石野博信さんによると3世紀前半の出雲では、それまで流入していた吉備系の土器が見られなくなって、畿内系の土器が増えていったという。その流れは3世紀後半まで続いたそうだ。

日本書紀には、崇神天皇60年(長浜浩明さんの計算でAD237年頃)、および垂仁天皇26年(同AD254年頃)の二回、出雲がヤマトに「神宝」を奪われたという記録がある。古代に「神宝」を奪われることは、彼らの祀る神の祭祀権を奪われることを表していて、要するに部族の「降伏」を意味してるそうだ。

『出雲王と四隅突出型墳丘墓・西谷墳墓群』渡辺貞幸

出雲では2世紀の後半から、「四隅突出型墳丘墓」といわれるオリジナルの墳丘墓文化を花開かせていたが、その「四隅」の造営が終焉を迎えたのが3世紀半ばのこと。それ以後しばらくは、出雲平野では首長墓そのものが造営されなくなってしまう。

「神宝」だけでなく、出雲は独自に育てた葬送文化まで、ヤマトに取り上げられてしまったんだろうか。

『出雲国風土記と古代遺跡』

いや、それどころか、出雲平野からは大集落さえ姿を消しているという。

倭国乱の時期には全国的に多くの高地性集落がつくられる。しかし出雲では一時期おくれ、倭国乱がおさまる後期末(三世紀中ごろ)に多い。

この時期は西日本各地で領域を越えた人の交流が始まり、環壕集落や高地性集落は姿を消していくと考えられているが、出雲ではこの頃が対外的に緊張した時期のようである。

次の弥生最終末~古墳時代初頭頃を境に、古志本郷遺跡など出雲平野に営まれたそれまでの拠点集落が急に姿を消してしまうようだ。

(『出雲国風土記と古代遺跡』勝部昭/2002年)

阿波

阿波でも集落が消えている。

徳島市の「矢野遺跡」は遺跡面積100haと、初期の纒向に匹敵する県内最大の弥生集落。高さ97.8cmという巨大銅鐸の出土でも有名だ。

しかし古墳時代が始まる頃、矢野遺跡はすでに無人になっていたそうだ。自然災害の影響は見られないので「社会情勢の変化」だろうと、考古学者の氏家敏之さんは書かれている。

『徳島の土製仮面と巨大銅鐸のムラ 矢野遺跡』

吉野ヶ里遺跡

あの「吉野ヶ里遺跡」も、3世紀後半には消えてしまったようだ。環濠は埋没し、わずかな住居跡を残すだけの吉野ヶ里に出現したのは、ヤマト式の「前方後墳」だったそうだ。4基が相次いで造られていって、最後の一基は全長40mと、前方後方墳としては九州で最大規模だったそうだ。

三世紀後半になると、吉野ヶ里遺跡全体をとりかこんでいた外環壕や北内郭・南内郭の内壕はほぼ埋没する。
(中略)
弥生時代前期から終末期まで繁栄した弥生の大集落は、弥生時代の終わり、古墳時代の到来とともに姿を消したのである。

それと前後するかのように、南内郭付近の丘陵部に前方後方墳四基と方形周溝墓四基が相次いで造営される。

(『邪馬台国時代のクニの都・吉野ヶ里遺跡』七田忠昭/2017年)
『邪馬台国時代のクニの都・吉野ヶ里遺跡』七田忠昭/2017年

平塚川添遺跡

邪馬台国「九州説」の巨人・安本美典さんが卑弥呼の都だと主張されるのが、福岡県朝倉市の「平塚川添遺跡」だ。その遺跡自体は、吉野ヶ里の半分にも満たない20ha程度の集落跡に過ぎないが、地元の考古学者・片岡宏二さんによれば、実は巨大な「小田・平塚遺跡」の一部を成しているのだという。

その小田・平塚遺跡は、全体としては450haの規模が想定されるそうで、それは最大化した纒向遺跡の1.5倍に及ぶ。

『邪馬台国論争の新視点』

ところが、3世紀の後半に入るころ、小田・平塚遺跡の一部である「平塚山の上遺跡」から人間が消える現象が起こっていたのだという。

この住居跡の密集度がそのまま東の台地一帯に続くとなると空恐ろしい集落になってしまう。

時期別の住居の数を比較すると、時代が下るにつれその数を増し、最後の古墳時代前期初頭で最大になりながら突然消えてしまう

なにもここだけの現象ではなく、蒲原宏行が佐賀平野でも分析しているように、この段階で筑紫平野の集落は突然姿を消してしまう。

(『増補版 邪馬台国論争の新視点 – 遺跡が示す九州説 – 』2019年)

熊本

邪馬台国時代の熊本といえば、鉄器の出土量では日本一という独特の文化を築いていた。北部九州にも引けを取らない大集落が、いくつもあるような充実した地域だったようだ(狗奴国か)。

だがやはり、3世紀後半に入る頃には熊本の集落も収縮していたそうだ。

じつは、あれほど大量の鉄器が出土すると話をした熊本県域も、それは弥生時代後期後葉までのことであって、古墳墳時代前期になると鉄器をもつ集落がほとんどみられなくなります。

鉄器を潤沢に生産し、消費していたはずの熊本から大集落や鉄器がみられないという状況になるのです。

北部九州の縁辺ともなる熊本県北部の集落ではまだわずかにそういった集落が点々とみられますが、昨日お話ししました阿蘇とか緑川流域ではそういう集落がみられなくなります。

(『邪馬台国時代のクニグニ – 南九州』2014年)
『邪馬台国時代のクニグニ・南九州』

———まぁ、以上はぼくの知り得た地域に限った話になるんだが、一方で纒向遺跡の規模が3倍になり、その一方で人口が激減した地域があると聞けば、大勢の人間の移動を考えたくなるのは、あながち妄想とも言い切れない事態のような気がする。

ただ残念ながら、纒向遺跡に北部九州や熊本の土器が溢れかえったというFACTはない。移住してきた側が畿内の「土師器」を選択した・・・という可能性はあるかも知れないが、立証はできなさそうだ。

駒形大塚古墳
(駒形大塚古墳 2022年春見学)

ヤマトの拡大

3世紀後半から末にかけて、ヤマトが各地に勢力を広げていったことが分かるのも、やはり前方後円墳や前方後方墳の分布になる。

東は会津の「杵が森古墳」、那須の「駒形大塚古墳」、常陸太田の「梵天山古墳」、千葉県市原の「神門5号墳」、沼津の「高尾山古墳」なんかが、その時期に造営された古墳だとされている。

神門5号墳
(神門5号墳 2022年春見学)

西に目を向けると、岡山の「浦間茶臼山古墳」、博多の「那珂八幡古墳」、福岡県苅田町の「豊前石塚山古墳」なんてのが。3世紀後半の築造だそうだ。

ま、この辺の話題は日本書紀と連動している気がするので、細い話は追々、この「景行天皇カテゴリ」で取り上げていきたいところだ。

三輪山 写真AC
(三輪山 写真AC)

ヤマトの財源は「朱」

古事記によると第9代開化天皇は、旦波の大縣主「由碁理(ゆごり)」の娘「竹野比売」を妃に娶ったという。常識的に考えれば、それはユゴリが支配する丹後の港湾(ラグーン)を共有するための、政略結婚だろう。

開化天皇の在位は、長浜さんの計算だとAD177-207年頃。考古学者の石野博信さんによれば、纒向遺跡の造営が始まったのはAD180年代というから、ちょうど開化天皇の御世にあたる。

しかし開化天皇の皇居は「春日(奈良市)」にあったし、それ以前の天皇が「纒向」のある桜井市に皇居を営んだことはなかった。

開化天皇は、何を思って三輪山麓に進出したんだろうか。

『邪馬台国は「朱の王国」だった』

古代史研究家の蒲池明弘さんによると、奈良盆地が唯一「日本一」を誇った産物が、「」だという。

「朱」は水銀と硫黄の化合物(硫化水銀)で、赤色の塗料としてはもちろん、薬品の素材や防腐剤、防虫剤としても珍重されたのだという。

かつて「魏」が邪馬台国との交易を求めた背景には、中国の「朱」の鉱床が南方の内陸部が中心だったせいで、入手が困難だった面もあるようだ。「倭」は交易品として輸出できるほどに、「朱」が採れたという。

朱産地の四大鉱床群
(出典『邪馬台国は朱の王国だった』蒲池明弘/2018年)

日本列島の「朱」の四大鉱床は上の「図1」で、九州は小さな鉱床が面的に広がっていたらしい。一方「大和鉱床群」では、「朱」は一点に集中して埋まっていたんだそうだ。

んで日本最大の産出地といわれるその一点が、奈良県の「宇陀」の一帯。要は三輪山麓で、纒向の「裏庭」にあたる地域だ。

開化天皇の突然の三輪山麓への進出は、その地に眠っている「朱」の独占的な採掘が目的だったんじゃないだろうか。

辰砂
(「辰砂」東京サイエンス

はじめのうちは、纒向の裏庭で採掘された「朱」は、旦波の大県主「ユゴリ」の船で朝鮮半島に持ち込まれ、鉄器や青銅器などと交換されたのだろう。

しかしそれもやがて、開化天皇の息子・第10代崇神天皇が派遣した四道将軍、「丹波道主」によってヤマトの直営に切り替えられて、皇室に莫大な富をもたらしたんじゃないだろうか。

ぼくは蒲池さんの「朱」を知ることで、貧弱だった奈良盆地でヤマトが急成長を遂げていった原動力が、ようやく分かったような気がしている。

ところで蒲池さんによれば、日本で最初に国内の「朱」の存在に気が付いたのは、「伊都国」の人たちだったんじゃないかとのこと。彼らは長崎県の鉱床から採掘された「朱」を交易に使って、大陸から先進の文物を入手していたのだろうと。

ところが九州では小さな鉱床が面的に広がっていたので、その地の「朱」はすぐに枯渇してしまった。それで九州から「朱」を求めて人間の東への移動が始まった———というような考察が、ご著書の中で行われている。

岩波文庫『魏志倭人伝』

んで、それを聞いてぼくがピンときたのが、伊都国の「人口」の件だ。

260年頃に成立して、陳寿の倭人伝のネタ元になったといわれる史書が『魏略』。そこでは伊都国の人口は「万余戸」とされている。ところがそれから20年ほど後に成立した『三国志』では、伊都国の人口は「有千余戸」、なんと10分の1に減っていたというわけだ。

だが伊都国の王都とされる、糸島市の「三雲・井原遺跡」は60haはある大集落で、対馬と同じ1000戸というのはチト考えにくい。といって陳寿が嘘をつく理由もないので、おそらく陳寿の手元には1万戸だという報告書と、千戸だという報告書の両方があって、陳寿は新しい方を採用したんじゃないだろうか。

となると伊都国の人たちは、その大半が歴史上のどこかで、他の場所に移っていったことになると思われるが・・・。

景行天皇(2)につづく

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