(5)ヤマトタケルと成務天皇は同一人物か 〜倭武天皇と市辺天皇〜

吉田神社(水戸市) 景行天皇

常陸国風土記の「倭武天皇」

日本書紀と同時代の、721年に成立したとされる地誌が「常陸国風土記」だ。そこでは、皇太子にも指名されないまま、30歳で病没したヤマトタケルが「倭武天皇」の名で12回も登場し、「橘皇后」と幸せな人生を送っている。

というか「常陸」という国名自体、倭武天皇が新しく掘らせた井戸で手を洗い、衣の袖が泉に垂れて濡れたから「衣袖をひたす」が転じて「ヒタチ」となった———と、冒頭の「総記」に書いてある。

それほど古代常陸とヤマトタケルは、密接な関係だったようだ。

ヤマトタケルを祀る「吉田神社」2022年春参詣
(ヤマトタケルを祀る水戸市の「吉田神社」2022年春参詣)

ただ、そうした常陸に残る「倭武天皇」像を、その悲劇的な死に同情した茨城県民が創作した説話だろう———と考えるのは「真実から遠い」といわれるのが、上代文学を専門とされる三浦佑之さんだ。

713年に常陸国風土記の編纂が始められた段階では、まだ日本書紀は完成しておらず、現在ぼくらが知るような皇統譜は完全に確定したわけじゃなかった。地方ではまだ「中央の歴史とは別の歴史認識が存在した」と三浦さんは書かれている。

常陸国風土記は中央官僚である国司層が撰録したと考えられ、朝廷に提出される公文書である。そこに、中央の歴史とは違う伝承を載せることができるのかどうか。

一、二の事例なら気付かなかったという説明も可能だろうが、ほぼ全域に十数例が載せられているというのは、撰録した国司層においても、「倭武」なる人物は天皇として認識されていたと見なしたほうが納得しやすいのではないか。

(『風土記の世界』三浦佑之/2016年)
吉田神社の「腰掛石」
(吉田神社の「日本武尊腰掛石」)

記紀にも「倭武天皇」の痕跡は残されていて、ヤマトタケルについては妃と子女の系譜と、その後裔氏族が載せられている。天皇でもないのにそのような厚遇を受けた皇子は、第9代開化天皇の皇子「彦坐王」とヤマトタケルだけだそうだ。

※ぼくは個人的に、彦坐王は近江王国に君臨した”もうひとりの天皇”だと思っていて、その件については(↓)こちらの記事を。

ヤマトタケルは即位したか

ヤマトタケルが天皇だったかどうかには、昔から専門家による検討が加えられてきたようだ。手元の吉井巌著『ヤマトタケル』(1977年)でも詳細に論じられているので、折角なのであえて要約はせず、長々と引用してみる。

ヤマトタケルの身分がもと天皇であったことについて、もっとも精しく論証されたのは福田良輔氏(「倭建の命は天皇か」『古代語文ノート』所収)である。

氏は、『古事記』の表記上の次のような諸例を挙げて、ヤマトタケル天皇説の論拠とした。

○皇孫は、ヒコヒトノ太子の系譜記述を例外として、子と記して御子と書かないのに、ヤマトタケルの子女には原則として御子と御の字を加える。
○皇子以下の皇族の妻は后と記さないのに、ヤマトタケルの妻には弟橘媛その他に后の字を用いる。
○ヤマトタケルの妻の弟橘媛については、御櫛、御陵などと御の字を添えるが、これは皇子の妻について他に例がない。
○ヤマトタケルの行為、所持物および所属の事物は、御合而、御刀、御葬などと御をつけて書くのが原則だが、これは皇子女にはきわめて稀な表記である。
○地の文で、動詞「マス」を表記する坐、助動詞「マス」を表記する坐は、天皇、大后、后に用いるものだが、ヤマトタケルにも用いられている。
○ヤマトタケルには、天皇、大后、后に用いられる敬語動詞イデマス(幸)が用いられる。
〇五瀬命、宇遅能和紀郎子以外には皇子に用いられない崩の字でヤマトタケルの死が述べられている。
○書紀では神功皇后以外の皇后の死にさえ用いられない「崩」でヤマトタケルの死が述べられている。
○「仕奉」「大御食」のように、天皇、大后、后に限り用いられる「奉」「大」の字がヤマトタケルに用いられて
いる。
○天皇、大后、后以外には特別な皇子女にしか用いられない「詔」の字がヤマトタケルに対して用いられている。

(『ヤマトタケル』吉井巌/1977年)

もちろん、吉井さんご本人も「ヤマトタケル天皇説」の根拠を挙げられていて、それが日本書紀の天皇系譜。

そこには一つの基本方針があるそうで、いずれも后妃と子女までに記述が限定されていて、皇孫以下が言及されることはないという。だが唯一の例外が景行天皇で、ヤマトタケルを通して孫までの名前が網羅されている。

吉井さんは、この例外は二人の天皇系譜を合体させた結果だと考察されていて、ゆえにヤマトタケルは天皇だったといわれるわけだ。

『ヤマトタケル』吉井巌1977年

なお、皇孫までの系譜が載る古事記でも、ヒコイマスの系譜は父の開化天皇の系譜の一部として記述されているのに対し、ヤマトタケルは景行天皇の系譜からは離れて、独立した記述がなされている。古事記ではヤマトタケルの”特別感”が、より一層に極まっている印象がある。

『日本神話の謎がよくわかる本』松前健

神話学者の松前健さんは、ヤマトタケルの行動が「国造」の任命など「天皇の大権」と結びついている点に注目して、ヤマトタケル天皇説を支持されている。三種の神器「草薙剣」を授けられたことも、「天皇の親征」そのものであることを表しているという。

また、ヤマトタケルの死を悼んで唄われた歌が、その後「天皇の御大葬の歌」になったことも、この人物が一介の皇子の身分ではなかったことを示唆しているのだという。
(『日本神話の謎がよくわかる本』1994年)

大津市の「高穴穂宮趾碑」2022年夏見学
(大津市の「高穴穂宮趾碑」2022年夏見学)

ヤマトタケルは成務天皇か

ヤマトタケルが30歳で病没したため、景行天皇51年長浜浩明さんの計算で315年頃)に皇太子に立てられ、その9年後に第13代として即位したのが「成務天皇」だ。

その在位は、日本書紀では60年間という長きに及び、父の景行天皇と遜色がない。

だが成務天皇には、武内宿禰を大臣に任命したことと、国境と国造(と稲置)の制定をしたこと以外に、事績がない。日本書紀の文字数では450字ほどで、7800字近い景行天皇に比べると、6%程度の分量しかない。

(高穴穂神社)

何より驚くべきは、成務天皇には皇后も后妃もおらず、その結果として子どもがいないこと。それで仕方なく、兄のヤマトタケルの遺児である、甥の「足仲彦尊(仲哀天皇)」を皇太子に立てたという。

・・・あ、いちおう古事記の方には「穂積臣らの祖先の建忍山垂根の娘の弟財郎女」と結婚して、御子に「和訶奴気王」がいると書いてあるが、そんなら何故、ワカヌケ王は次の天皇にならなかったんだろうか。

それに「弟財郎女(おとたからのいらつめ)」は、ヤマトタケルの妃・オトタチバナの姉妹だという説もあるそうだが、その父「建忍山垂根(たけおしやまたりね)」は伊勢地方の「物部氏」に過ぎず、皇室がそのクラスの豪族から皇后を迎える段階は、とっくに終わっているとぼくは思う。

一方、ヤマトタケルの正妻は、垂仁天皇の娘(両道入姫命)という最上位プリンセスだ。

高穴穂神社「拝殿」
(高穴穂神社「拝殿」)

そういうわけで、日本書紀には「おおむね」本当のことが書いてあるという立場のぼくでさえ、成務天皇の記述はそのまま受け取るのが難しい。うまく言えないが、中身を抜かれた抜け殻のような天皇———という印象がある。

それに、ぼくらが日本書紀の「羅針盤」にしている長浜浩明さんの計算だと、ヤマトタケルが仲哀天皇の父親だというのは、有りえない話になる。仲哀天皇が産まれたのは、ヤマトタケルが「崩御」した17年後になるからだ。

282年 ヤマトタケル誕生
297年 成務天皇誕生
312年 ヤマトタケル崩御(30才)
320年 成務天皇 即位
329年 仲哀天皇誕生
350年 成務天皇崩御(53才)

この矛盾を解消するには、仲哀天皇は実は成務天皇の皇子だったとするのが、話が早い。でも景行天皇ファミリー全体の矛盾を一気にクリアにしようと思えば、いっそヤマトタケルと成務天皇を同一人物だとする手もあると思う。

つまり、成務天皇は「殻」で、ヤマトタケルがその中身だ。

ヤマトタケルは30歳では病没せず、景行天皇の跡を継いで320年頃に38歳で即位した。仲哀天皇が産まれたのは47歳のときで、その21年後に68歳で崩御した———そんな計算だ。

高穴穂神社「舞殿」
(高穴穂神社「舞殿」)

ヤマトタケルを分離させたのは誰か

さて、ここまでの話は個人サイト「ぼくらの日本書紀」にも書いたこと。でもこのブログは日本書紀を読む二巡目なので、これまで保留してきた数々の「謎」に、ぼくなりに仮説を立てていくターンだと思っている。

今回の記事でいえば、仮にヤマトタケルが成務天皇から分離された人格だとして、そのような皇統譜の操作を行ったのは誰なのか———だろう。

『六国史』

歴史学者・遠藤慶太さんの『六国史』(2016年)によると、実名とは別に、「諡号」が確認できる最初の天皇は第27代安閑天皇だという。このことから、天皇の系譜が記録される「帝紀」がまとめられたのは、6世紀の前半だというのは「定説」とされているそうだ。

てことは、中央の皇統譜が固まったのは6世紀前半あたりということで、それを聞いてぼくにピンと来たのが次の系譜だ。

天火明命の皇統譜

記紀の「天孫降臨」を読んだ時、なんでそんなに優遇されているのか、と不思議に思ったのが「尾張氏」だ。尾張氏の祖神を「天火明命(ほあかり)」というが、この神は古事記によれば、皇室の祖・天孫ニニギの兄だという。

すると実際に尾張氏の系統が、今上天皇の兄であった時代が確かにあって、それが第26代継体天皇が尾張氏の「目子媛」との間にもうけた、第27代安閑天皇と第28代宣化天皇。

おそらくは、この時期の尾張氏の立ち位置を表すのが「天火明命」の優遇で、欽明天皇の時代につくられた皇統譜が、そのまま後世に残っているのが上のような系譜なんだろうと、ぼくは思っている。

天火明命を祀る尾張国一の宮「真清田神社」2021年春参詣
(天火明命を祀る尾張国一の宮「真清田神社」2021年春参詣)

播磨国風土記の「市辺天皇」

といった感じで、継体天皇の息子たちの時代には皇統譜はおおむね固まっていたとすると、ヤマトタケルが成務天皇から分離したのは、それより前の時代ということになりそうだ。

んじゃ、そんな操作をして何かメリットがある人の条件はというと、まず考えられるのは、父親が天皇ではない天皇じゃないだろうか。ヤマトタケルが成務天皇から分離したことにより、そういう天皇(仲哀天皇)が誕生したからだ。

5世紀頃の天皇系譜
(出典『検証!河内政権論』堺市/2017年)

んで、系図を見れば瞬時にわかるように、仲哀天皇より後に父が天皇ではない天皇といえば、第23代顕宗天皇と第24代仁賢天皇の兄弟がいることが分かる。

この二帝の父親は、第17代履中天皇の第一皇子「市辺押磐皇子(いちのへのおしわのみこ)」という人で、実は第20代の安康天皇は、大政奉還のつもりか、皇位を市辺皇子に譲るつもりでいたらしい。

【関連記事】安康天皇の謎(市辺天皇・佐紀古墳群・世子)

しかしそれを恨んだ(のちの)雄略天皇は、兄の安康天皇が皇后の連れ子「眉輪王」に暗殺されると、市辺皇子を近江での巻狩りに誘い出し、不意をついて射殺してしまうのだった。

父の死を知った(のちの)仁賢天皇と顕宗天皇は雄略天皇を恐れて逃亡し、播磨の山中(縮見山の石室)に身を隠したと日本書紀は書く。

「志染の石室」兵庫県歴史博物館
(「志染の石室」出典:兵庫県歴史博物館

やがて雄略天皇が崩御して、その後を実子の清寧天皇が継いだものの、この天皇はタネがなかったのか、子どもができずに困っていた。

そんな折に「発見」されたのが、(のちの)仁賢天皇と顕宗天皇の兄弟で、ヤマトの使者に対して(のちの)顕宗天皇は、自分たちは「市辺宮に天下治しし、天万国万押磐尊の御裔」だと名乗りをあげている。

二帝にとっては、父の市辺皇子は天皇だったということだろう。ちなみに「播磨国風土記」には、もろに「市辺天皇命」と記されている。

【関連記事】記紀の「飯豊天皇」と、清寧・顕宗・仁賢の時代

風土記・上 角川ソフィア文庫

ただ、そうして相次いで即位した市辺皇子の息子たちではあったが、さすがに政権の内部において、直近の皇統譜に手を加えることは難しかったのかも知れない。それで、父の市辺皇子は即位せず、皇子のまま薨去した事実はそのままに、自分たちの立場を良くする方法はないかと考えたのかも知れない。

それで至った結論が、父が天皇でない天皇を「前例」として創出すること。しかもその「前例」の父を、皇室にとっては感謝しかない空前の大英雄に仕立てること。そしてその英雄に、報われなかった自分たちの父をオーバーラップさせること・・・。

———まぁ、自分で書いてて何の根拠もない想像で恥ずかしくなるが、仮にヤマトタケルが成務天皇から分離した人格だと考えた時、そこに何らかのメリットがある人物はといえば、仁賢天皇と顕宗天皇の兄弟しか思い当たらなかったので。

それに、父が天皇ではないといえば継体天皇も同じなわけで、そんな操作をされた皇統譜を知った時、これはメリットあり!として次の代に引き継がせた可能性も、なくはないような気もしたので。

景行天皇(6)につづく

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