熊襲はいつ降伏したのか
日本書紀によると、第12代景行天皇の九州親征が始められたのは、その12年8月のこと。長浜浩明さんの計算によるなら、西暦296年頃のことになる。
景行天皇が親征を決意した理由について、日本書紀は「熊襲が叛いて朝貢しなかった」と書くが、この一文には違和感がある。というのも、熊襲がいつヤマトの冊封に入ったのか、日本書紀には何の記述もないからだ。

そもそも、自分たちが朝貢を拒否したからヤマトが攻めてくるという割には、熊襲は何の対策も準備もしていない。天皇に誘われた熊襲の姫たちが、ホイホイと軍営にやってくる警戒心のなさも不自然だ。
これ、素直に読めば、熊襲はヤマトとは何の関係もなく、むろん朝貢したこともないのだろう。
だがもしも、熊襲からの朝貢の実績がゼロだったなら、景行天皇がそのサボタージュに怒って軍を動かすことはなかったはずだ。誰かが熊襲を名乗って朝貢していたが、今回それを意図的にやめた。そして天皇に、熊襲に叛心ありと吹き込んだ———ぼくにはそんなストーリーが浮かんでくるのだった。

日本書紀によると、熊襲梟帥(くまそたける)を倒して福岡県の八女県を行幸する天皇の傍らには、「水沼(みぬま)縣主」の猿大海がいて、道案内をつとめていた。神代紀には、「筑紫の水沼君」は「道主貴(ちぬしのむち)」、すなわち宗像三女神を祭るとあるので、宗像氏に近い血筋なのだろう。
また「肥前国風土記」の松浦郡の記事では、「阿曇の連・百足(ももたり)」が皇軍の威力偵察をつとめている。阿曇氏の本拠地の志賀島から、「漢委奴国王」の金印が出土したことから、阿曇氏を魏志倭人伝の「奴国」の王家だとする説もあるようだ。
というわけで、ぼくは宗像氏や安曇氏ら、玄界灘沿岸の諸国がヤマトを九州に呼び込むために、一芝居打ったのが熊襲の朝貢とその拒否の真相かもな、と考えている。
目的はもちろん、邪馬台国滅亡後の九州をヤマトの版図に組み込むことで、ヤマトの集団安全保障の傘下に入ることだろう。

265年に司馬炎が「魏」を滅ぼすと、邪馬台国の女王「台与(壱与)」は盟主国を「西晋」に切り替えて、朝貢を行ったという。この外交の結果については不明だ。
さらに280年には「呉」が滅亡すると、100年続いた三国時代は終わり、中国大陸は西晋に統一されている。もしも西晋が拡大主義をとれば、その矛先は朝鮮半島に、そして九州に向かうだろう。
列島では最も大陸に近い北部九州からしてみれば、矢も盾もたまらずヤマトを後ろ盾にすべく、古くからの地縁もある「物部氏」などを通じて、景行天皇の九州巡幸を目論んだ———なんて歴史秘話を考えてみた。
いかんせん、残念ながら日本書紀は「皇室の歴史」しか書いてないので、天皇と直接は関係ないところで起こった九州の政変などには言及がない。ぼくは呉が滅んだ280年頃までには、北部九州諸国の手で台与(壱与)は蟄居または殺害され、邪馬台国は解体された———と思ってるんだが、文献にその根拠を探すのは、まぁ無理だ。

豊前国の景行天皇
日本書紀に話を戻すと、「周芳の娑麼(防府市佐波か)」に至った景行天皇は、向こう岸の豊前国に煙がのぼっているのを目撃し、まずは配下の三将を渡らせたという。
その内訳は、多氏の「武諸木」、国前臣の「菟名手」、物部氏の「夏花」で、彼らは現地の女酋「神夏磯(かむなつそ)媛」からヤマトに敵意を示す4人の族長の情報を集め、それらを謀略で皆殺しにしている。
それから天皇が渡ってきて、行宮(かりみや)を建てたとされるのが、今の福岡県行橋市あたり。3世紀末の丁度そのころ、豊前国に造営されたとされるのが、全長130mの前方後円墳「豊前石塚山古墳」(苅田町)だ。

こちらの古墳、九州では歴代8位となる大きさで、墳丘の全面に「葺石」が貼られている。後円部は三段築成で、箸墓古墳以降の「定型化」された前方後円墳のひとつだ。
埋葬施設には、九州伝統の「箱式石棺」ではなく「竪穴式石室」を採用。さらにはヤマトのシンボルである「三角縁神獣鏡」を7面も副葬———と、どこからどう見ても、完全なるヤマト式のお墓だという。

その被葬者だが、残念ながら地元の女酋「神夏磯媛」ではなさそうだ。
「豊後国風土記」によれば、景行天皇は「豊国の直(あたい)」に「菟名手(うなで)」を指名したという。
また「先代旧事本紀」の「国造本紀」には、豊国造は成務朝の時代に「宇那足尼(うなのすくね)」なる人物が任命されたとある。このウナノスクネは、千葉県の「伊甚(いじみ)国造」と同族だというから、先祖をさかのぼれば出雲国造家の祖神「天穂日(あめのほひ)命」にたどりつく。
武蔵国造や相模国造、安房国造なども同族だというこのウナノスクネは、日本書紀や風土記のウナデと同一人物だと考えられているそうだ。フツーに考えれば、この初代・豊国造の「寿陵(生前墓)」が、石塚山古墳ということになるんだろう。

興味深いことには、石塚山古墳に副葬されていた7枚の三角縁神獣鏡のうち、6枚が「同笵鏡」だったそうだ。同時期の畿内の「椿井大塚山古墳」や「黒塚古墳」などから、同じ鋳型でつくられた兄弟鏡が出土しているという。
椿井大塚山古墳(175m)といえば、30面以上の三角縁神獣鏡が出土していて、昭和の頃は三角縁神獣鏡の「配布元」のお墓だといわれていたそうだ。ただその後、黒塚古墳(130m)からも33面の三角縁神獣鏡が出土してしまったので、今はどっちの被葬者も天皇から三角縁神獣鏡を下賜された上級国民———あたりに落ち着いているようだ。

まぁ「配布元」からすれば、自分には必要ないからバラまいているわけで、個人的には天皇陵である「箸墓古墳」や「西殿塚古墳」などには、三角縁神獣鏡は副葬されてないと思っている。
天皇陵にはおそらく、卑弥呼が魏の皇帝から下賜された「銅鏡百枚」のうち、卑弥呼の墓には副葬されなかった漢鏡や魏鏡が眠っていると想像するが、これはまぁ別の話。

宇佐の景行天皇
かつて、大和に上る神武天皇は立ち寄ったのに、大和から下ってきた景行天皇のときは言及がないのが、宇佐だ。長浜浩明さんの計算だと350年ほどの昔、宇佐に寄港した神武天皇は、土地の豪族「菟狭津彦」「菟狭津媛」の歓待を受けたという。
このような男女のキョウダイがペアになって政祭を司る古い体制を「ヒメヒコ制」というそうで、代表格としては邪馬台国があげられる。たぶん、さっき話題に出た「神夏磯媛」も、ヒメヒコ制の片っぽだったとぼくは思う。

ただ、神武天皇はヒメヒコ制を打破すべき因習だと考えていたのか、宇佐ではウサツヒメを配下の「天種子命」に娶せて、ヒメヒコ制を引き裂いてしまっている。天種子命の子孫が「中臣氏」なので、ウサツヒメは奈良盆地に付いていったのだろう。
そして残されたウサツヒコはヤマトの「国造」となって、その子孫が宇佐の地を代々治めてきたようだ。景行天皇が立ち寄るのは当たり前のことなので、今さら何の言及もないってことか。
神武天皇といえば、東征の中で「名草戸畔」「丹敷戸畔」「新城戸畔」など、やたらと女酋を叩いているが、双系社会といわれたヒメヒコ制から、安定した男系社会への変革を推進したのが、神武天皇だったのかも知れない。

3世紀後半の宇佐に築造された、九州で最古級の前方後円墳が「赤塚古墳」(58m)だ。ただ、先のヤマト式の石塚山古墳と違って、赤塚古墳には葺石もないし、埋葬施設も九州古来の「箱式石棺」を使っている。ヤマトと地元の折衷ってかんじだろうか。
ちなみに石塚山古墳はヤマトからの「落下傘」国造の墓なので、その後100年は古墳の空白地になったそうだが、宇佐では赤塚古墳のあとも、免ヶ平、車坂、角房、福勝寺と100年間に4基の首長墓が続いたんだそうだ。
ただ、宇佐ではいずれも「段築・埴輪・葺石などの外部表飾」をもたず、「遠くから見ればただの土饅頭にすぎない」古墳を作り続けたということで、一口に「国造」といっても、その立場や役割はいろいろだったようだ。
(『前方後円墳の世界』広瀬和雄/2010年)

赤塚古墳の築造は3世紀後半ということなので、景行天皇の巡幸の頃にはすでに完成していたと思われる。ただこちらからも石塚山古墳と同じく、5面出土した三角縁神獣鏡がいずれも「椿井大塚山古墳」や「桜井茶臼山古墳」など、畿内の前方後円墳の副葬品との「同笵鏡」だったという。
石塚山古墳のウナデの場合は、主君である景行天皇から直々に下賜された可能性が高そうだが、赤塚古墳の被葬者の場合は、自ら奈良盆地の「纒向(まきむく)」まで赴いて、先代の垂仁天皇から与えられた形になるんだろうか。
んでも、宇佐の58mの古墳の主でさえ、5面もの三角縁神獣鏡がもらえるんだから、天皇からみて三角縁神獣鏡に大した値打ちがなかったのは、間違いなさそうな印象だ。

なお、上の方にお借りした赤塚古墳の写真を見ると、前方後円墳の近くに大小の「方形周溝墓」が配置されている様子がみてとれる。
考古学者の広瀬和雄さんによれば、方形周溝墓は「九州地方の一般的な弥生墓制ではない」そうで、それらはヤマトから「階層をもって同時にもちこまれた」ものなんだそうだ。
つまりは宇佐国造に仕えた中小の首長のお墓が方形周溝墓だというわけで、ヤマトの重層的な地方統治の様子が目で見て分かる、絶好の一例ということのようだ。

豊後国の景行天皇
つづいて景行天皇が立ち寄ったのは無論、大分市で、その当時は「碩田(おおきた)国」といったそうだ。んで、そこもやはり女性の首長が治める国で、女酋の「速津媛」から反ヤマトの「土蜘蛛」の情報を得た天皇はアジトを急襲、苦戦を重ねながらも、賊を皆殺しにしたのだった。

3世紀末の大分市近辺に築かれた前方後円墳といえば、別府湾の対岸にあたる杵築市の「小熊山古墳」だ。墳丘長は116.5mで、後円部は三段築成、葺石と埴輪も備える完全なるヤマト式の首長墓だ。
埋葬施設の発掘は行われていないみたいだが、おそらく三角縁神獣鏡が5面やそこら、副葬されてると思われる。もちろん、地元の「速津媛」のお墓ではないだろう。
「国造本紀」によれば、このあたりを支配した「国前(くにさき)国造」は「吉備臣」と同族なのだという。「国造本紀」には載ってないが、「天孫本紀」の尾張氏の系譜に出てくる「高屋大分国造」と併せて、豊前のウナデのように落下傘的に天下ってきた国造なんだろう。

三角縁神獣鏡はどこから来たか
ここからは余談。
昭和の頃は、卑弥呼が下賜された「銅鏡百枚」だといわれた三角縁神獣鏡は、今では日本中から600面近くが出土しているうえ、肝心の中国大陸からは確実な出土品が見当たらないということで、今ぼくが説得力を感じている説明は、ヤマトが量産した葬式用の道具———というもの。
※詳しくは(↓)以下に。
ただ、下の「図26」から分かるように、3世紀前半の畿内には鏡を副葬する文化はなく、それは北部九州のものだった。それがいつの間にか、石塚山古墳や赤塚古墳ではヤマトから鏡を「逆輸入」するような状況になっていた。
これは不思議だ。

それで、そもそも三角縁神獣鏡はどこで生まれた鏡なのかが気になって本棚を漁ったところ、「周旋」の件では大変お世話になった、伊藤雅文著『魏志倭人伝の全文を読み解く』(2023年)に、三角縁神獣鏡の作者は魏の鏡職人の「陳是(ちんぜ)」で、製作地は日本(邪馬台国)だという説が出ていた。
伊藤さんが目をつけたのは、卑弥呼の時代の魏の年号が刻まれている「紀年銘鏡」と呼ばれる4面の三角縁神獣鏡で、それらには景初三年(239年)と正始元年(240年)という、卑弥呼が魏に朝貢した年号と、「陳是」という作者の名前が記されていた。
ところがこの陳是は、景初三年に魏帝が没して正始元年に改元されたので、存在しなかった「景初四年」の鏡(斜縁盤龍鏡)も作ってしまっているのだった。
てことはそのとき陳是は魏にはいなかったわけで、だったら彼の作った紀年銘鏡のある日本にいた可能性が高いんじゃないか———というわけだ。

それを聞いてぼくが思い当たったのが、藤本昇さんという方が『卑弥呼の鏡』(2016年)という本で展開された、「鉛同位体比4軸チャート」を使った銅鏡の比較検討。
要は、銅鏡に含まれる原材料「鉛」からのアプローチで、例えば同時期に同じ材料からつくられた銅鏡は、下の「図表25」のように大体似たようなチャートを描くという。

ところが、昭和の頃はそれこそが「卑弥呼の鏡」の根拠だ!!とされた紀年銘入りの三角縁神獣鏡を比較してみると、その原材料はバラバラで「同時に同じ場所で作ったものがこんなにばらけるはずはない」という状態だと分かった。

どうやら陳是は、新しい材料から紀年銘鏡を量産できるような態勢にはなくて、既製の銅製品(銅矛や銅戈?)などを潰して鋳直したりの苦労の末、卑弥呼が求める「記念品」を作っていった———のかも知れないのだった。
ただそんな大切な紀年銘鏡が、どうして地方の小さなお墓からしか出土していないのか・・・はよく分からない。
ところで上の「景行天皇(1)」の記事でみたように、3世紀後半は纒向が100haから300haに規模を3倍化させた一方で、日本各地の大集落から人口が減っていく現象が起こっていた時期だという。
これを素直に受け取れば、3世紀後半に地方から纒向への人間の移動があったように、ぼくには感じられる。
それで上述の伊藤雅文さんは邪馬台国「熊本説」なので、西暦250年頃の陳是は熊本に住んでいたことになると思われるが、実は熊本でも人口の流出は起こっていたようだ。もしかしたら、陳是もその流れに乗る形で、はるばる奈良盆地まで流れていったのかも知れない。
それで垂仁天皇(長浜さんの計算で在位241−290年頃)に紀年銘鏡の三角縁神獣鏡を献上したところ、天皇がそれをいたく気に入って、上級国民の葬儀の際に「辟邪(魔除け)」を目的に副葬する道具として、三角縁神獣鏡の大量生産を命じた———なんて想像をしてみた。
垂仁天皇は卑弥呼の紀年銘鏡になんて興味がないので、それは陳是の手から欲しがる誰かの手に渡り、最終的には島根県、群馬県、兵庫県、山口県の小領主のお墓に眠ることになった。
ヤマトで食い扶持を得た陳是はせっせと三角縁神獣鏡をつくり続け、それは現時点で600枚近くが出土している、ごくありふれた鏡になった。
・・・まぁ全部、ただの想像ですが。
景行天皇(7)につづく




