生目古墳群の被葬者は
日本書紀によると、朝貢を拒否した熊襲を討つべく、第12代景行天皇が日向に「高屋宮」を建てたのは12年11月のこと。長浜浩明さんの計算だと、西暦296年頃のことになる。
天皇は高屋宮で軍議を開き、「熊襲梟帥(たける)」の娘を寝返らせて、父親を暗殺させる謀略で熊襲を倒す決定をする。
ただ、このとき熊襲の側には皇軍に対する警戒がゼロの様子を見ると、熊襲が約束した朝貢を拒否したというのは、おそらく作り話だとぼくは思う。クマソタケルの二人の姫さまも、景行天皇に陣営に誘われると喜んで参上して、その寵愛を受けている。

んで結局この謀略は成功し、景行天皇に通じた実の娘(市乾鹿文)に大量の酒を飲まされたクマソタケルは泥酔し、裏切り者の従兵の手で殺害されてしまうのだった。天皇は自分に寝返った姉の「市乾鹿文」を親不孝だといって殺害し、妹の「市鹿文」を火国造に取り立てたという。
そして翌13年5月には「ことごとく襲国を平定」したと日本書紀は書いていて、ここまでに要した時間は約10か月(長浜さんの計算だと5か月ほど)」。
だが、すでに目的を達成したはずの天皇は、一向に日向を立ち去ろうとしなかった。
高屋宮を発して熊本方面に向かったのは18年3月のことで、日本書紀で5年5か月、長浜式で296〜299年の3年間、天皇は日向に滞在し続けていた。
これ、常識的に考えれば、日向の平定こそが景行天皇の主目的だったと思われる。あるいは熊襲の討伐は、日向サイドがヤマトへの帰順に際し、天皇に要望した条件だったのかも知れない。

景行天皇が日向に滞在中、日本書紀に実名が出てくる唯一の成人が「御刀媛(みはかしひめ)」なる美女。この人に天皇が産ませた子が「豊国別皇子」で、長じて「日向国造の始祖」になったという。
ただ、実際に日向国に国造が置かれたのは第15代応神天皇の御世(長浜式で在位381〜410年頃)で、「国造本紀」には豊国別皇子の三世孫、すなわちひ孫の「老男(おいお)」が初代国造に任命されたとある。

上は、宮崎県における前方後円墳の編年を表した図。
弥生時代の宮崎県では、円形や方形の周溝墓と土壙墓で構成された「集団墓」が各地に見られたものの、「王墓」「首長墓」といえるクラスはまだ存在せず、せいぜい「木棺」のあるなしで階層が表される程度の社会だったようだ。
(柳沢一男「南九州の出現期古墳」『邪馬台国時代のクニグニ・南九州』2014年)
それが景行天皇が滞在した3世紀末頃から、ヤマト式の前方後円墳をメインにした古墳群が各地に造営されるようになって、そのうち最古とされるのが「西都原古墳群」の「81号墳」。
53.7mの前方後円墳で、埋葬施設は木棺直葬。出土した土器はほとんどが在地系で、一部に畿内系も含まれていたようだ。
興味深いことには、この81号墳の墳形は、奈良盆地でも最も古い「纒向石塚古墳」と相似形だという指摘があるそうだ。纒向石塚古墳は早ければAD210年頃の築造という説(石野博信)もあって、それを採れば90年ぶりに宮崎県に現れた相似形だということになる。「初物」はこれ!みたいな意味でもあったんだろうか。

つづいて、宮崎県で初めて100mを超える首長墓が造営されたのが、宮崎市の「生目(いきめ)古墳群」。
一昔前は136mの「生目1号墳」が最古と考えられていたそうだが、現在は4世紀前半に築造された137mの「生目3号墳」が先で、「1号墳」は4C後半に下げられているようだ。「3号墳」「1号墳」とも、3段築成、全面葺石の完全なヤマト式。
ちと不思議なのが、墳形に世代的なねじれが見られることで、生目で古い方の「3号墳」は、纒向では新しい「渋谷向山古墳」(300m)と相似形。生目で新しい方の「1号墳」が、纒向では古い「箸墓古墳」(280m)と相似形なのだという。
箸墓古墳から渋谷向山古墳では、ざっと70年以上の月日が流れたとされている。単に新しいものが優れているということではなく、それぞれに別の意味が込められていたんだろうか。ちなみにぼく個人は、箸墓古墳は第10代崇神天皇、渋谷向山古墳は第13代成務天皇のお墓だと思っている。

なお、4世紀の宮崎県の中心地は生目にあったようだが、西都原にも79mの「72号墳」や「13号墳」が造営されていて、いずれも三段築成、全面葺石のヤマト式。13号墳からは、三角縁神獣鏡も出土している。
面白いのは、この二基の墳形が「柄鏡形」であること。
奈良盆地の柄鏡形というと「桜井茶臼山古墳」(207m)と「メスリ山古墳」(224m)が有名で、これらは「政権ナンバー2」のお墓だという説がある(広瀬和雄)。となると4C前半の宮崎には、生目がナンバーワン、西都原がナンバーツー・・・みたいな力関係が存在したんだろうか。
ただそれは4世紀の間だけで、5世紀になると西都原の方に九州最大の前方後円墳と帆立貝形古墳が造営されているのも、面白いところ。

景行天皇に話を戻すと、日向で唯一名前の出ている「御刀(みはかし)媛」は、豊前・豊後の前例から考えると、ヒメヒコ制のヒメ(男王の姉か妹)だったんじゃないか、とぼくは思っている。
簡単に言えば、邪馬台国の卑弥呼に相当する日向の「女王」で、景行天皇はそんな女性をお妃にして豊国別皇子を授かったわけで、その求婚に掛かった時間こそが、2年半に及ぶ日向滞在だったんじゃないだろうかと。
景行天皇としては、皇室の「祖地」とされる日向には、何としても強い影響力を保持しておきたかったのかも知れない。こうして日向とヤマトは結婚したのだった。めでたしめでたし。

という感じで、ぼくは個人的に、日向に造営された最初の100m級(137m)前方後円墳「生目3号墳」は、景行妃の御刀媛のお墓かなーと思っている。
5世紀前半の西都原には、「女狭穂塚(めさほづか)古墳」という九州最大(176m)の前方後円墳が築かれていて、地元の考古学者・北郷泰道さんによれば、日向から第16代仁徳天皇に嫁いだ「髪長姫」のお墓である可能性があるそうだ。
当時は「帰葬」といって、薨去した后妃が出身地の巨大古墳に葬られたケースが考えられるそうで、つまりは仁徳天皇を顕彰するために、日向にその妃の巨大古墳が造られたというわけ。ヤマトの経済力や技術力の誇示でもある。
ぼくはその嚆矢が137mの生目3号墳だと思っていて、むろん景行天皇の滞在中に、その現地妻のために築造が始められた「寿陵(生前墓)」だろう。んで、つづく130mの1号墳が、豊国別皇子のお墓かなと。
【関連記事】日向「西都原古墳群」の「女狭穂塚/男狭穂塚」は誰の墓か

熊襲の討伐は行き掛けの駄賃か
熊襲/隼人に詳しい歴史学者・中村明蔵さんによると、かつての熊襲の拠点は、現在の霧島市にあったそうだ。国分・隼人・霧島にはソ(襲・曽)の地名が見出されるし、霧島山は8世紀には「曽乃峯」と呼ばれていたと『続日本紀』などにあるそうだ。
(『隼人の実像』2014年)
繰り返しになるが、熊襲はヤマトへの朝貢を一方的に拒否してきた!という割には、その報復に対する準備をしてないし、警戒心もない。熊襲の姫さまも、都会から来た若きエンペラー(当時30歳)に首ったけだ。
そしてクマソタケルを滅ぼした後も、景行天皇が2年半も日向に滞在したことから考えても、この天皇親征の主目的は日向にあって、熊襲征伐はその行き掛けの駄賃という印象がぼくにはある。

そもそも当時の大隅・薩摩は墓制からまるで違っていて、宮崎平野とは距離以上に遠い世界だったようだ。
そこでは弥生時代には「立石土壙墓」、古墳時代の前期には「板石積石棺墓」という、他ではお目にかかれない不思議なお墓が造られていて、宮崎県の円形や方形の周溝墓とは似ても似つかないものらしい(詳しくはwikiへのリンクを)。
そんな「異国」である熊襲が、はるばるヤマトの冊封に入って朝貢をするなんて、まだ時代が早すぎる感が、ぼくにはある。

ところが、大隅半島でも太平洋側は早くからヤマトの文化が到達していて、肝付郡の「塚崎11号墳」は、3世紀の終わり頃に造営された、56mの「纒向型」前方後円墳だという。
「纒向型」というのは方と円の比率が1:2で、箸墓古墳で1:1に「定型化」される以前の古い墳丘設計だとされるもの。
塚崎11号墳の墳形の類例には、福岡県筑紫野市「原口古墳」と長崎県雲仙市「守山大塚古墳」があって、原口古墳からは「豊前石塚山古墳」や「宇佐赤塚古墳」とは「同笵鏡」となる三角縁神獣鏡が出土している。

また守山大塚古墳は島原半島では唯一の前方後円墳で、ちなみに日向を発った景行天皇は、島原半島(高来県)にも立ち寄っている。
ザックリ言って、筑紫平野を除く中南部九州の前方後円墳の展開は、3世紀末の景行天皇の巡幸とリンクしているような印象がぼくにはある。天皇の行った先に、前方後円墳がつくられ、三角縁神獣鏡が配布されていった———とぼくには思えている。

狗奴国はどこに?
熊襲を平定して、御刀媛との婚礼も無事に済ませた天皇は18年3月(長浜式で299年)、ついに日向を後にすると、夷守(小林市)で石瀬川(岩瀬川)をながめ、熊県(人吉市)では従わない熊津彦のうち弟の方をぶっ殺し、球磨川から火国(八代市)に出たという。

そこから不知火海(八代海)に出て、高来県(島原半島)に渡り、再び戻って玉杵名邑(玉名郡)で土蜘蛛を征伐、阿蘇に進んで阿蘇都彦・阿蘇都媛の霊(?)に対面したという。

———で、ここまで読んでぼくが気になったのが、3世紀半ばの熊本平野にあったと思われる「狗奴国」がどこにもないこと。
魏志倭人伝によれば、女王国の「北」には伊都国(一大率)があって、女王国の「南」には狗奴国があったという。
伊都国が通説通りに糸島市あたりだとすると、女王国はその南方にある筑紫平野、狗奴国はそのさらに南方の熊本平野のどこかである可能性があるが、景行天皇の巡幸にはどちらの国も登場しない。

いったい狗奴国はどこに行ってしまったのか。
シンプルな結論としては、狗奴国はあのあと邪馬台国に滅ぼされた———が考えられると思う。ぼくもその説に一票で、その根拠として挙げたいのが下の「地図10」。
邪馬台国「九州説」の巨人・安本美典さんが作成された、邪馬台国時代の「箱式石棺」の分布だ。
「箱式石棺」は甕棺墓に代わって北部九州で大流行した墓制で、赤塚古墳(宇佐)や光正寺古墳(宇美)などは、前方後円墳でありながら箱式石棺を採用している。
それが見ての通りで、玉名平野や熊本平野では、ほとんど造られていなかった。

ところがその後、古墳時代の前期(250〜400年頃)になると、熊本でも各地に箱式石棺が見られるようになった、というのが下の「図18」。
安本さんも、この変化は「邪馬台国勢力が、狗奴国勢力を圧倒し、狗奴国地域へ、邪馬台国文化が進出したことを意味するか」と書かれていて、まったくの同感だ。

おそらく、3世紀後半のどこかで、熊本の狗奴国は筑紫平野の邪馬台国に滅ぼされたのだろう。それで北部九州の文化が一気に熊本に流れ込んだ。
しかし勝者の邪馬台国もお家騒動によって実権を失い、北部九州は女王不在の合議制の連合体に戻っていた。彼らは(諸事情から)盟主を欲していて、やがて求められる形で景行天皇が九州巡幸にやってきた———そんな展開をぼくはイメージしている。

なお昭和の頃は、狗奴国と熊襲の語音がなんとなく似ていることから、狗奴国の残党が熊襲だという意見もあったようだ。
だが、その場合は狗奴国の位置は熊本平野になると思うが、そこは弥生時代には甕棺墓や土壙墓をつくり、古墳時代に入ると方形区画の低墳丘墓をつくったということで、熊襲の「板石積石棺墓」とは墓制が全く違っている。民族的な継続性があったとは、チト考えにくいと思う。

狗奴国は基本的には北部九州と「おおむね」同じ文化圏に属していて、邪馬台国との抗争は、その内部での主導権争いに過ぎなかったと、ぼくは思う。
箱式石棺の浸透からは、トップは男王「卑弥弓呼」から女王「台与(壱与)」に代わったものの、住んでる人間はそのまんまで、ただ北部九州の文化を受け入れていった———というような印象を受ける。
※邪馬台国時代の熊本・阿蘇については(↓)こちらの記事を。
箱式石棺は東遷したか
・・・ところで安本美典さんといえば、3世紀後半(末?)に九州の邪馬台国が畿内に移動したという「邪馬台国東遷説」を主張されていたと思うが、その場合「箱式石棺」の移動については、どう説明されているんだろう。
つまり邪馬台国の墓制は「箱式石棺」なのに、畿内にその文化は東遷していない点。
一方、3世紀末頃に福岡県刈田町に築造された前方後円墳「石塚山古墳」には箱式石棺ではなく、畿内の「竪穴式石室」が採用されている。同時期につくられた宇佐の「赤塚古墳」は箱式石棺なので、竪穴式石室は箱式石棺を上書きした関係になると思われる。
この、畿内から九州に伝わった竪穴式石室は、邪馬台国の東遷とは矛盾した存在になってしまうような気がするんだが・・・。
景行天皇(8)につづく

