先代旧事本紀のアメノミチネ
神武天皇に、初代の「紀伊国造」に任命されたという「天道根命」の活躍は、日本書紀には出てこない。出てくるのは、平安初期に物部氏の末裔が撰録したとされる史書『先代旧事本紀』の中でだ。
先代旧事本紀「天神本紀」では、神武天皇の東征に先立って、物部氏の祖「饒速日(ニギハヤヒ)命」がタカミムスビの命によって、河内に天下りしたとされている。そのときニギハヤヒに従って降臨した32将の一人が、天道根命だ。
そして即位した神武天皇の論功行賞で、天道根命が紀伊国造に任命された———という二点が、先代旧事本紀の天道根命への言及だが、その間を埋めることは可能だ。

「天孫本紀」によれば、せっかく降臨したニギハヤヒだったが、地上でナガスネヒコの「娘」(日本書紀では妹だが、代合わせか)との間に「ウマシマジ(宇摩志麻治命)」を儲けると、あっけなく死んでしまったのだった。
その後、ウマジマジはナガスネヒコに「君」と仰がれていたが、神武天皇の東征軍に抵抗するナガスネヒコを殺害すると、全軍あげて天皇に帰順した。天皇はウマシマジに霊剣「ふつのみたま」を与え、ウマシマジは物部氏の神宝「天璽瑞宝十種(十種の神宝)」を献上した。
それからウマシマジは「天物部」を率いると、天皇に逆らうものを片っ端から平定していったという———が、おそらくこの時、ニギハヤヒ32将の一人として、天道根命が紀伊方面の攻略で軍功を上げたのだろう。

この天道根命の子孫が、紀伊国造として代々祀って現在に至る古社が、和歌山市の「日前神宮・國懸神宮(ひのくまじんぐう・くにかかすじんぐう)」だ。
一つの社地に、ふたつの「神宮」が鎮座する珍しい神社で、紀伊国一の宮にして名神大社、官幣大社という最高クラスの社格を誇る。奈良時代には全国で8つしかない「神郡」が設置され、伊勢神宮と同じ皇祖アマテラスの「鏡」を祭ることから「神階」がない(与える側だから)。
持統天皇が行った2回の国家的奉幣は「伊勢・大倭・住吉・紀伊」と「伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足」が対象だったので、とにかく皇室から特別な高待遇を受けた一社だったということだ。

日前神宮・國懸神宮の祭神については、なんと!正史の日本書紀にその由来が書かれている(第7段第一の一書)。
そこで天照大神は素戔嗚尊に、「おまえはやっぱり邪心があるようだ。もうおまえとは会いたくない」と仰せられて天石窟に入られて磐戸をしめてしまわれた。このため天の下は常闇になって昼夜の別もなくなった。
そこで八十万の神を天高市に会して、対策を相談された。すると高皇産霊の子の思兼神という知謀に長けた神が、謀をつぎのように申し上げた。
「天照大神のみかたちを作ってさそい出し奉りましょう」そこで石凝姥を鍛冶として、天香山の金をとってきて日矛を作らせた。また真名鹿の皮を全剥(まるはぎ)にして、天羽鞴(ふいご)を作らせた。これを用いて作らせた神は、紀伊国に鎮座しておられる日前神である。
(『日本書紀(上)』中公文庫)
平安初期に撰述された忌部氏の神道書『古語拾遺』には異論がのっていて、オモイカネの提案でイシコリドメが「日の像の鏡」を作ったものの、はじめに鋳たものは「いささか意に合わず」これが紀伊国の「日前神」となり、次に鋳たのは「そのかたち美麗」だったので「伊勢大神」になったという。
「日矛」と「日像鏡」が出てきて混乱するが、本居宣長の頃には日前神宮が「鏡」で國懸神宮が「矛」、ということで落ち着いていたようだ。
文化人類学者の大林太良さんは「鏡は祭祀、日矛は軍事を象徴」していて、「支配者としての紀伊国造にふさわしい対」だと書かれている。これは分かりやすい。
(『私の一の宮巡詣記』2001年)

なお天道根命は、ニギハヤではなくニニギとともに降臨し、その後、神武東征に従って紀伊まで神宝を持ってきた———という神社側の説もあるので、参考までに下に引用しときます。
ただ、文中の「豊鍬入姫命」の巡幸は、鎌倉時代に編纂された『倭姫命世紀』(「神道五部書」)が元ネタらしいので、説話としてはそんなに古いものではないらしい(『倭姫命世紀』には、トヨスキイリ姫は丹波、大和、紀伊、吉備と回ったのち、ヤマト姫にバトンタッチしたとある)。
日前神宮に伝わる古記録『日前国懸両大神宮本紀大略』によると、ホノニニギの天孫降臨のとき、右の二つの神宝を紀伊国造の祖天道根命に託して日向の高千穂宮にまつらせたが、それらは神武東征のみぎりに再び天道根命に託され、天道根命は天皇の軍とともに難波に到ったとき、これと別れて紀伊国名草郡加太浦に到った。
そして加太浦から木本に移り、さらに名草郡毛見郷に到り、琴浦の海中の岩上に日前・国縣の神として二つの神宝を奉祭した。ところが、崇神天皇51年に豊鋤入姫命が天照大神の御霊を奉じて名草浜宮に遷幸して三年間滞溜したとき、日前・国懸の両大神も琴浦の岩から名草浜宮に遷り、さらに垂仁天皇16年に浜宮から万代宮に遷座した。これが今の宮地であるという。
(『日本の神々 神社と聖地 6 伊勢・志摩・伊賀・紀伊』)

紀国造(紀直)と武内宿禰
一介の地方豪族だった紀伊国造家(紀直)が、ヤマトで重要な地位を占めるようになったのは、第12代景行天皇(長浜浩明さんの計算で在位290−320年頃)の時代から。
日本書紀によれば、景行天皇はその三年、紀伊で天神地祇への祭祀を計画したが、これは中止になる。代わりに「屋主忍男武雄心(やぬしおしおたけおごころ)命」なる長い名前の皇族を派遣したところ、これが紀直(国造)の「莵道彦(うじひこ)」の娘「影媛」と結婚し、できた子どもが有名な「武内宿禰」だ。
当然、武内宿禰と紀伊とのつながりは深く、「大臣」として仕えた仲哀天皇が起こした熊襲討伐の水軍は紀伊(徳勒津宮)から出発しているし、忍熊王の謀反から(赤ちゃんだった)応神天皇を守るために向かった場所も紀伊(紀伊水門)だった。
さらには、忍熊王との天下分け目の大決戦の総大将として、軍を編成した場所も紀伊だったし、筑紫への出張中に弟の「甘美内宿禰」に讒言されて、応神天皇に刺客をさし向けられたときも、まずは紀伊まで逃げてきている。

武内宿禰が活躍した4世紀後半〜5世紀初頭のヤマトは、朝鮮側の記録にあるように、頻繁に半島への遠征を行っていたようだ。
ヤマトの本拠地は奈良盆地南部になるので、人員や物資は吉野川から紀ノ川をくだって、河口付近で川に適した「平底」から外洋航行用の「V字型船底」の船に積み替えることになる。その際、その一帯を支配していて、林業・造船業に強い紀伊国造の協力は必須になるわけで、紀伊国造の地位もあがれば、日前・國懸神宮の地位があがるのも当然の流れ。
というわけで、「宗像」や皇祖化する前の「伊勢」と同じように、「出征兵士たちを見送る神社」として機能していた日前宮だったが、やがてヤマトの外征基地が淀川河口に移っていくと、その地位も「住吉」に移っていったんだそうだ(アマテラスの鏡という霊威は別の問題)。
(『古代史講義【氏族篇】』2021年)

紀伊のスサノオとイタケル
ところで、そんな紀伊国造だからこそ持てた神があって、それがスサノオの子とされる「五十猛神(イタケル)」だ。
日本書紀(第8段第四の一書)によれば、高天原を追放されたスサノオは、その子イタケルを連れて新羅の「曽尸茂梨(そしもり)」に降臨したが、「おれはこの地にはいたくない」と言い捨てると、さっさと出雲に渡ってしまった。その後、スサノオは出雲で大蛇を退治したりしているが、イタケルの行動はこう。
はじめ五十猛神が天降られたとき、多くの樹の種子をもって下られた。しかし韓の地にはうえないで、全部もって帰られた。そして筑紫からはじめて、大八洲国全体にまきふやしていってとうとう国全体を青山にしてしまわれた。
(『日本書紀(上)』中公文庫)
だから五十猛命を有功(いさおし)の神というのである。これが紀伊国に鎮座しておられる大神である。
また、同第五の一書では、スサノオは「わが子の治める国」から「韓郷(からくに)」に渡って金銀をとる(盗る?)ための船が必要だ、といって、体毛から杉や樟木を生成している。イタケルと二人の妹は、「食料としての木の実」を植えよというスサノオの命に従って樹木の種を撒き、紀伊に鎮座したという。

朝鮮と紀伊を往復して「木」に関わる氏族といえば、朝鮮遠征の水軍を出して「木国」を治めた紀伊国造なわけで、イタケルの神話は紀伊の林業・造船関係者がもつ神話をヤマトが取り込んだもの———というのが定説のようだ。
だがその父、スサノオはどうなんだろう。子どもたちが鎮座する紀伊とは無関係なんだろうか。
「スサノオ」という名の神は『出雲国風土記』に実際に登場していて、出雲に古来、「スサノオ」への信仰があったことは確かなことらしい。ただ、出雲のスサノオはハッキリ言って「小領主」といった風情で、日本書紀のスサノオとは別人だ。

日本書紀(本文)のスサノオは「残忍な性格」で「いつも泣きわめくのが仕事」で「このために国内の人民は多く早死」してしまい「青山は枯山に変わってしまった」というモンスター。イザナギ・イザナミの両神も呆れ果て、「根の国」への退去を命じている。
姉のアマテラスに「暇乞い」をしたいと高天原に昇るときも「その影響で大海原はとどろき荒れくるい、山も岳もために鳴り呴えた」とあって、ここの表現からスサノオには”太陽に挑む暴風雨(台風)”を表している―――なんて説もあったようだ。
でも海が荒れ、山が吠えるような破壊的なイメージが出雲にあるかといえば、それはチト違うような気がする(関東人の印象)。それに、出雲でのスサノオ信仰の中心地といわれる式内社の「須佐神社」はホントに山奥で、大海原とは何の縁もなさそうだ。

すると実は、延喜式神名帳にはもう一社「須佐神社」が載っていて、それが毎年のように台風が直撃している和歌山県有田市でスサノオを祀る「須佐神社」だ。
なんでも出雲の須佐神社は、神階も授けられない「小社」に過ぎなかったが、紀伊の須佐神社は堂々たる「名神大社」で朝廷から幣帛を預かり、859年には従五位上に昇っている。
しかも紀伊の須佐神社は、イタケル祭祀の総本山「伊太祁曽(いたきそ)神社」と祭儀的に深く結びついていて、「船舶の航海を守る神」として近隣の海人の崇敬を集めているのだという。つまり、祀られているのは大海原の支配者ということだ。
そんなわけで神話学者の松前健さんは、「スサノオ崇拝の真の源郷」を「紀伊の須佐」だと断言されている。
(『日本の神々』1974年)

ところで日本書紀のスサノオの物語を一言で言えば、父母に命じられて「根の国」に行く、そんだけ。道中の高天原と出雲で大暴れしたからそっちが目立つが、スサノオの終着地は「根の国」だ。
この「根の国」には、古事記で腐乱したイザナミが住んでいた「黄泉の国」の暗く陰鬱なイメージが付きまとうが、そんなところに好き好んでいく人はいない。スサノオもそうだろう。
それで高名な民俗学者の柳田國男は、「ネ」という語は「生命の根源という意味」で「あらゆる生命の源泉地」「海のかなたにあると信じられた他界」を意味し、すなわち沖縄の「ニライカナイ」のような海上楽土が「根の国」だと論じているそうだ。
これまた紀伊半島の東の海にあるという「常世」を思い出さざるをえない・・・。

もちろん、出雲にも『風土記』に出てくる牧歌的なスサノオはいた。
だがそれに、普段は「根の国」に住んでいるが、時折人間界に現れては破壊の限りを尽くす———という紀伊の海洋民が持っていたスサノオのキャラクターが被せられて、出雲の王オオクニヌシの父(日本書紀)という役回りを与えられた———というような経緯が、おそらく記紀編纂の過程にあったんだろう(風土記ではスサノオとオオクニヌシの間に血縁関係はない)。
古事記のオオクニヌシはスサノオに次々と試練を与えられるが、元を辿れば海人の少年が成年式の通過儀礼で与えられた苦行を表していると、松前さんは書かれている。
(12)へつづく