媛蹈鞴五十鈴媛と「東奈良遺跡」
神武天皇の即位は、長浜浩明さんの計算によればBC70年頃のこと。その前年の9月、天皇は「事代主神」の娘「ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)」を正妃に迎えたと日本書紀に書いてある。
ヒメタタライスズヒメの母親は、「三嶋溝橛(みぞくい)耳神」の娘、「玉櫛媛(たまくしひめ)」。
神代の一書(参考文)には、事代主神は「八尋熊鰐(やひろわに)」に化身して三嶋の「溝樴(みぞくい)姬」または「玉櫛姬」と結婚したとあるが、これはあくまで「神話」においての話。神武天皇だって、ワニを岳父にはしないだろう。

ここに出てくる「三嶋」ってのは、摂津国の「島上郡」「島下郡」「豊島郡」を合わせた一帯のことで、いまの茨木市、吹田市、豊中市、箕面市あたりを指すらしい(土地勘なし)。
その茨木市では、弥生時代の環壕集落「東奈良遺跡」が見つかっている。有名なのは36点も出土した「銅鐸」の鋳型片で、おとなり奈良県の「唐古・鍵遺跡」と肩を並べる銅製品の生産地として知られているそうだ。
産経新聞出版の『神武天皇はたしかに実在した』(2016年)には、ヒメタタライスズヒメの「タタラ」は、金属精錬で使う足踏みフイゴや炉を意味する「たたら」から来ているのだろうと書いてある。
初代「皇后」の母方の実家(三嶋溝橛耳神)は、摂津の金属王だった可能性があるという話。

事代主神と「中西遺跡」
じゃー、ヒメタタライスズヒメの父、事代主神はどんな人物だったのか。
上掲の本では、コトシロヌシを「出雲の神」だと書いているが、出雲には古来、コトシロヌシへの信仰はない。いま出雲でコトシロヌシを祭っている「美保神社」の祭神は、出雲国風土記によれば「御穂須須美命(みほすすみ)」という神で、コトシロヌシではなかった(ミホススミを祀るから美保神社だと明記してある)。
神話学者の松前健さんがいわれるように、コトシロヌシは大和葛城の「鴨氏」の神で、そこでは名神大社の「鴨都波(かもつば)神社」などに、事代主神への信仰が残されている。「託宣の神」として宮中でも祀られたし、壬申の乱のときも奈良県に現れている。
そんなコトシロヌシが、記紀でオオクニヌシの子で出雲の神とされたのは、国譲りの判断が「神託」による決定で、誰にも逆らえないことを強調するための表現———という話で、コトシロヌシはあくまでも中央の神だった。
神武天皇は、橿原の南西に勢力を張る鴨氏の「総帥」の娘を正妃に迎えたわけで、むろん土着勢力との政略結婚だろう。しかもそのヒメの母方の実家は、摂津の金属王だった可能性があるわけで、神武天皇は二重の政略結婚に成功した、ってことになるんだろうか。

コトシロヌシが率いる鴨氏の本拠地は、「鴨都波神社」や「高鴨神社」がある奈良県御所市と考えられているようだが、そこからは弥生時代前期(2400年前)としては、日本最大となる水田跡「中西遺跡」が見つかっている。
現在までに43000㎡が検出されていて、地形から考えると100,000㎡(10ha)を越えていても不思議ではないのだという(詳細は「中西遺跡第31次調査現地説明会資料」にて)。
いかんせん、弥生前期末に中西ムラを襲った洪水によって、20〜30cmもの土砂に埋め尽くされた水田は、一旦は廃絶してしまう。中期には、その土砂の上に新たな水田が作られたものの、大半が後世の削平を受けてしまっていて、状況把握が難しいんだそうだ。

なので、神武天皇が事代主神の娘を正妃に迎えたという、弥生時代中期後半の中西遺跡の規模については、残念ながら詳細不明。
ただ、中西遺跡からは古墳時代前期(AD250〜400)の「祭殿」らしき大型建物や、82軒分の竪穴建物が見つかっているので、祭祀を中心にした人々の営みが続けられていたことは確かなようだ。
また、鴨都波神社自体、南北500m、東西450mという弥生時代の拠点集落「鴨都波遺跡」の上に鎮座していて、鴨氏は少なく見積もっても、こちらの遺跡程度の勢力は保持していたようだ。

ところで日本書紀には「三輪君」と「鴨君」は同族だとあるが、大和盆地で「君」姓はこの二氏だけ。
歴史学者の岡田精司さんは「君姓の氏族は、かつては大王家またはそれに準ずる権威をもった家柄」だと書かれていて、地方だと上毛野君や宗像君など、ヤマトからやや独立した感じの大勢力が「君」カバネ。
おそらく三輪氏と鴨氏も、神武天皇が東征してくる前から奈良盆地南部でブイブイ言わせていた、土着の独立勢力だったんだろう。
日本書紀によれば、神武天皇に続いて、第2代綏靖天皇、第3代安寧天皇も鴨氏の娘を皇后に立てているわけで、事績がなくて「欠史八代」とか言われても、鴨氏とのしつこい縁組から見えてくるドラマはあると思う。

日本書紀の大物主と事代主神
日本書紀の神話に、オオモノヌシとコトシロヌシが同時に登場する神話がひとつある(神代第8段第2の一書)。そこでは三輪と鴨の神は、天孫降臨に先立つ「国譲り」のあとも、天つ神(高天原)に抵抗する国つ神の「首魁」だとされている。
はじめは国譲りを受け入れなかった大己貴神(オオクニヌシ)だったが、タカミムスビが提案する至れり尽くせりの好待遇に納得し、葦原中国の案内役に「岐神(ふなとのかみ)」を残すと、自分は幽界へと去っていく。
その後の展開がこうだ。
そこで経津主神は、岐神を先導として、国内をめぐりめぐって平定された。命に逆らう者があるとみな斬り伏せられた。反対に帰順する者にはみな褒美をあたえた。このとき帰順した首魁は大物主神と事代主神とである。
二はしらの神は八十万の神を天高市に集めて、この神々をひきいて天にのぼり、彼らの忠誠を申し述べられた。
時に高皇産霊尊は大物主神に、
(『日本書紀(上)』中公文庫)
「もしおまえが国神(くにつかみ)を妻としたら、余はおまえにはなお余を疎んずる心があると思うだろう。そこで、いま余は余の女(むすめ)の三穂津姫をおまえにめあわせよう。だからおまえは八十万の神をひきいて永久に皇孫をまもり奉るがよいぞ」と仰せられて、地上に還り降らせられた
タカミムスビは、オオモノヌシに皇孫を守れ!と言っているが、実はこの時点ではまだ天孫降臨は行われておらず、オオモノヌシが日向に降臨したという話も聞いたことがない。
ならばオオモノヌシが守るべき「皇孫」とは、やがて大和に東征してくる神武天皇のことを指すんだろう。フツヌシによる地上平定は、その露払いとして物部氏(ニギハヤヒ)が三輪氏と鴨氏を降伏させたことを、意味しているんじゃないか?

大物主と大国主は「同一神」か
三輪氏と鴨氏の降伏(帰順)については、全く出どころの違う文献のなかにも残っている。それが、奈良・平安の出雲国造が、代替わりの際に上京して天皇に奏上した祝詞『出雲国造神賀詞(かんよごと)』だ。
ここで出雲国造は、幽冥界への隠遁を決意したオオナモチ(大国主)の言葉として、次のようなことを述べている。
すなはち大なもちの命の申したまはく、「皇御孫の命の静まりまさむ大倭の国」と申して、己命の和塊を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和(おおみわ)の神なびに坐せ、己命の御子あぢすき高ひこねの命の御魂を、葛木の鴨の神なびに坐せ、事代主の命の御魂をうなてに坐せ、かやなるみの命の御魂を飛鳥の神なびに坐せて、皇孫の命の近き守神と貢り置きて、八百丹杵築の宮に静まりましき。
(出典『神社の古代史』岡田精司)
ここでオオナモチは、自分の「和魂(にぎみたま)」を「八咫の鏡」に取り付けたものを「倭の大物主くしみかたまの命」だと言っていて、その和魂は大三輪の神なび(三輪山の大神神社)に鎮座しているのだと・・・。つまりはオオナモチ=大物主(なお、自分自身は出雲の杵築の宮に鎮座)。
だが、歴史学者の岡田精司さんは、出雲国造の服属儀礼であるはずの『出雲国造神賀詞』のこの部分は、「本来は出雲国造が誓うことではない」「変な言葉」だといわれる。この部分をカットしたほうが、『神賀詞』は前後がスムースに繋がるのだという。

じゃあカットすべき「この部分」とは何なのか。
そこで言ってることは、三輪のオオモノヌシと、葛木のアジスキタカヒコネと、宇奈提のコトシロヌシと、飛鳥のカヤナルミが皇居(藤原宮)を囲んで天皇を守護します———ということで、岡田さんは実際にはこれは、「三輪氏の氏上が宮廷で奏上した」服属儀礼だろうと書かれている。
それがどういう過程を経たのかは不明だが、「別系統の誓いを、出雲国造の誓いのことばにはめ込んだ」のが「この部分」だろうということのようだ。
なるほど三輪氏の服属儀礼であれば、祖神であるオオモノヌシや、同族の鴨氏が祀るコトシロヌシやアジスキタカヒコネが出てきても、何も不思議ではないわけだ(カヤナルミは謎の神だが)。

それにしても、なぜ出雲国造はオオクニヌシとオオモノヌシを「同一神」だと言い出したのか。
というのも『古事記』は両者を同一神だとは言っていないから。大国主神の「別名」にオオモノヌシは含まれていないし、海を照らした御諸山の神も、大国主神とは別の神として描かれている。
また、上の方で引用した日本書紀の「神代第8段第2の一書」でも、大己貴神(オオクニヌシ)が幽界に隠遁したあとに、オオモノヌシがフツヌシに降伏してるんだから、これは明らかに別の神だ。
じゃー誰が「同一神」にしてるかというと「神代第8段第6の一書」で、これは第8段のなかでも一番最後に付けられた一書(参考文、異伝)だ。
日本書紀の中でそこだけが、「大国主神」の別名に「大物主神」を加え、海を照らす三諸山の神が大己貴神の「幸魂奇魂」、すなわち同じ神の別の現れ方だと書いているというわけだ。
しかし古事記や他の一書では別の神だといっているのに、なぜ同一神の一書だけが絶対的真実のように扱われているのか、ぼくにはチト違和感がある。日本書紀の本文(正伝)以外は、みな等価値(等距離)に扱うべきものなんじゃないのか?
・・・ん?
なるほど、平安時代の氏族名鑑『新撰姓氏録』だと、「大神(おおみわ)朝臣」も「賀茂朝臣」も、「大国主神」の後裔と書いてあるのか。その時代にはオオクニヌシとオオモノヌシは、フツーに同一神と見られていたというわけか。
・・・でもぼくは、古いものの方に真実があると、個人的には思うところだ。100年も中央集権の律令国家をやってれば、氏族の事情もいろいろ変わってくるだろうし。
(2)へつづく