尾張氏の出身地は葛城か
日本書紀によると、第5代孝昭天皇は、尾張連の遠祖「瀛津世襲(おきつよそ)」の妹、「世襲足媛(よそたらしひめ)」を皇后に立てたという(磯城県主の娘も娶っている)。それは孝昭天皇29年のことというから、長浜浩明さんの計算だとAD31年頃のことになる。
この「尾張連」の本貫(出身地)は、本居宣長の昔から大和の「葛城」だとされていたそうだ。
日本書紀には、神武天皇が「土蜘蛛(縄文系弥生人)」を誅殺した「高尾張(たかおはり)邑」という地名が出てくるが、そこはその後「葛城」と呼ばれるようになったともあり、一方で尾張氏の初期の系図には「葛城」の名が頻繁に出てくる。それが尾張氏の葛城出身説の根拠だ。

ただその系図については、5世紀に尾張氏が葛城地方に「出先機関」を持っていたことが日本書紀(允恭天皇5年)に載るので、その時代に「架上(書き足し)」されたもの、という疑いが強いんだそうだ。
また尾張氏の本貫が葛城地方だった場合、いつ、どんな理由で、中央の豪族が一族郎党全てを引き連れて東海地方に移っていったのか、その説明が難しい。
なので最近では、昭和40年代に愛知県の歴史学者・新井喜久夫さんが提唱した、尾張氏は尾張の土着民———説が通説になっているらしい。
もともと尾張氏は伊勢湾の有力な「海人族」で、ヤマトとは魚介類の納品をしながら関係を深め、5世紀には葛城地方に居留地をもち、継体天皇に皇妃(目子媛)を入れて「外戚(安閑・宣化)」の地位にまで昇ったが、その後は中央政界からは離れ、東海最強の豪族として幅を利かせていた———ってあたりが尾張氏の概史になるか。

尾張氏の祖神「天火明命」と皇室
尾張氏といえば、忘れちゃいけないのが、その祖神「天火明(あめのほあかり)命」が『古事記』では天孫ニニギの「兄」だとされていること。これはハンパない優遇だ。
よく知られるように、尾張氏の血統が天皇の「兄」になったことが歴史上一度だけあって、それが第26代継体天皇が、即位前に娶った「目子媛(めのこひめ)」が産んだ、二人の男子。
のちの第27代安閑天皇と、第28代宣化天皇だ(目子媛は尾張連「草香」の娘)。

継体天皇は、皇統としては応神天皇の5世孫と、チト血が遠いネックがあったので、第24代仁賢天皇の娘「手白香皇女(たしらかのひめみこ)」を皇后に迎えることで、血の強化を図る必要があったそうだ。手白香皇女なら仁徳天皇4×4のインブリードで、申し分のない血の濃さだ。
そして産まれたのが、皇室の”中興の祖”といわれる第29代欽明天皇で、この天皇は尾張の目子媛が産んだ二帝の「弟」にあたるというわけだ。
歴史学者の遠藤慶太さんによれば、実名とは別に「諡号」が確認される最初が第27代安閑天皇とのことで、6世紀の欽明天皇の時代に記紀の元になった「帝紀」の編纂が始まったとみることは、歴史学の「定説」なのだという(『六国史』2016)。
なので欽明朝の頃に作られた神統譜が後世に受け継がれ、尾張氏と皇室の祖神が「兄」と「弟」の関係だと『古事記』に収録されてしまったとしても、不思議はないというわけか。

朝日遺跡と尾張氏
ところで、第5代孝昭天皇が尾張の「世襲足媛(よそたらしひめ)」を皇后に迎えたAD31年頃、濃尾平野にあった最大の弥生ムラが、西区/清須市の「朝日遺跡」だ。
東西1.4km、南北0.8km。推定面積80万㎡は、奈良盆地の「唐古・鍵遺跡」の2倍近いデカさだ。
発掘を担当された考古学者・原田幹さんによると、朝日遺跡が巨大な理由は「複数の弥生集落に相当する集団が集まって営まれた」からのようで、例えば朝日遺跡には「通常の農作業には従事せず、貝類の採取や漁労にたずさわる人びとも多く居住していた」ことが、ムラの内部につくられた「貝層(貝塚)」の存在から分かるのだという。
上の「図17」の通りで、弥生時代の朝日ムラの南には「遠浅の干潟」が広がっていた。そこで漁労に励んでいた人たちが、のちに伊勢湾の海人族のリーダー、「尾張氏」に成長していった可能性は大いにあるということだろう。

弥生時代の「戦争と平和」
朝日遺跡で有名なのが、「多重防御施設」と見なされている「逆茂木」と「乱杭」の存在だ。
これらの発見が、登呂遺跡に代表される平和で牧歌的な弥生時代———のイメージを覆し、「魏志倭人伝」などが記す「倭国大乱」のヒャッハーな世界を裏付けることになったそうだ。
ただ、朝日遺跡の「逆茂木」「乱杭」が設置されたのは弥生時代中期のことで、「倭国大乱」よりも200年以上は昔の話だし、「多重防御施設」という割りには、それらは北と南の居住区の間にある「谷」に作られていて、ムラ全体を守ってるとは言い難い印象があったりする。
下の図の③が逆茂木、④が乱杭だ。

なので発掘担当者の一人、赤塚次郎さんは、逆茂木や乱杭は「基本的には洪水・水害対策用に設置されたもの」という説を唱えられている。
この件については、九州の考古学者・武末純一さんも「吉野ヶ里遺跡」などの弥生環溝が、土を溝の外側に積んだ「外土手」で作られていて、それでは攻め込む側に有利な「盾」になるだけで防御力に欠けることから、弥生「後期後半」になってから福岡市「野方中原遺跡」や大分市「多武尾遺跡」などに設置された「内土手」の環溝こそが「倭国大乱」への対応策だろう、と書かれている。
(『弥生の村』武末純一/2010年)
つまりは朝日遺跡に弥生「中期」に設置された「逆茂木」と「乱杭」は戦乱対策ではない、という結論になりそうだが、原田幹さんは、それらが設置された谷は「集落の内側というよりは、集落のメインゲート」だったから、「強固な防御施設を築く必要があった」というお考え。
でもぼくとしては、赤塚説に一票!というのが下のイラスト(図9)。原田さんの本が出典なので監修済みと思われるが、「逆茂木」「乱杭」はムラの防御には役立っていない印象が、ぼくにはある。

神武東征と朝日遺跡
長浜浩明さんの計算によれば、神武天皇の即位はBC70年頃のこと。原田さんによれば、それまで計画的に運営されてきた朝日遺跡は、そのBC70年を含む中期後葉になると、集落のあり方が一変してしまったのだという。
◯まず、「凹線文系土器」なる西日本の土器が流入し、西からの人の移動が確認できる。
◯居住域の外郭を定めてきた「環濠」が廃絶され、区画が曖昧になる。
◯南居住区に大型の「掘立柱建物」が配置され、それまでなかった「特別な祭祀空間」が作り出される。
◯継続して営まれてきた「墓域」の連続性が途絶え、方形周溝墓のかたちも多様化する。
———原田さんは、このような朝日遺跡の変化を「まったく別の集落といっても過言ではない」と書かれていて、近隣の稲沢市「一色青海遺跡」や、四日市市「兎上遺跡」でも同様に、大型掘立建物を広場の中心に置いた祭祀空間が構築されたのだという。
ただ、朝日遺跡界隈の大変化は神武天皇とは別に関係なくてw、凹線文系土器は「近畿北部から琵琶湖周辺を経てもたらされたもの」で、しかも中期末(紀元元年頃)にはあっけなく衰退して、後期(AD1〜2世紀)には継続しなかったそうだ。
この、近畿北部から東海にやってきて、環濠を廃止して祭祀空間を作った人たち・・・がその後どうなったのかは、原田さんの本では特に言及がなかったので、丸っきり分からないことなんだろう。

尾張氏、朝日ムラを去る
弥生中期には「大規模な貝層が形成され、沿岸性の漁労も営まれていた」朝日遺跡では、孝昭天皇が尾張のヒメを迎えた弥生後期に入るころ、すでに漁労は衰退して「小規模な水田とそれに付随する淡水漁労」にシフトして、「むしろ農村的なイメージに近づいた」という。
その原因になったのが「洪水の頻発」だ。
紀元後すぐ、長らく「やや寒冷」だった気候は「弥生中期以降の再海進」の進行で「温暖」に転じ、沿岸部での「洪水多発」を引き起こしたのだという。
(『海人たちの世界』2008年)
愛知県の考古学者・大下武さんによると、そうした気候変動の結果として「河口付近の低地に営まれていた集落が放棄され、一部は名古屋南部の台地の方へ移っていった」のだという。おそらくその人達が、名古屋市の「熱田台地」を拠点とした伊勢湾の海人族のリーダー、「尾張氏」につながる集団なんだろう。

朝日ムラの終焉と、関東への移住
弥生時代後期末、すなわち邪馬台国の女王・卑弥呼が没して「倭国」に内乱が起こり、1000余人が死んだという西暦250年頃、そんな戦乱には関係ねーとばかりに朝日遺跡の環濠は埋め立てられ、住居や遺物は消えていったという。
海で生きる海人族以外の人間は、水没して湿地化していく朝日ムラを捨てると各地に分散していったようで、その物証となるのが「S字甕」といわれる東海系土器の分散。
上の「図62」にあるように、群馬県の南部からもS字甕は出土していて、その地を開拓したのは東海出身の人たちだと、群馬県の考古学者が書いている。
(『東国から読み解く古墳時代』若狭徹/2015年)
一方、熱田台地に残った「尾張氏」もしばらくは漁労に励む以外なかったようで、上の方の「図17」に見える濃尾平野の湿地状態は古墳時代になっても続いていて、岐阜県の大垣市まで海が迫っていたことがボーリング調査で分かっているんだそうだ。
(『継体大王と尾張の目子媛』1994年)

結局、尾張氏が(次第に乾燥して増えてきた陸地で)農耕生産性を向上させて、濃尾平野を制したのは5世紀も終わりごろ。その頃になって、ようやく地域内でバラバラだった「円筒埴輪の形や大きさが規格化し、製法技術の種類や組合せが画一的」になったのだという。
それは当然、「それを可能にする地域統合、統治集団の存在」が想定されるわけで、その少し後の6世紀前半に、愛知県では最大規模となる前方後円墳「断夫山古墳」が熱田に築造されたことから見ても、時期に大きなズレは考えにくい。
(「尾張氏とは何者か」『古代豪族』藤井康隆/2015)
目子媛が継体天皇に嫁いだのもその頃で、断夫山古墳の被葬者にはその父、尾張連「草香」を考える専門家が多いようだ。
(4)につづく