(5)五斗長垣内遺跡/舟木遺跡とヤマトの鉄 〜邪馬台国時代の鉄鏃と銅鏃〜

五斗長垣内遺跡 欠史八代

淡路島の五斗長垣内遺跡

弥生時代後期のAD50~200年頃に、鉄器生産に特化した集落として営まれたのが、淡路島の「五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)」。

2007年から始まった発掘では、東西500x南北100mのムラに竪穴式建物23棟が見つかり、うち製鉄の「炉」の跡を残すものが12棟あったそうだ。出土した鉄器は130点にのぼる。

鉄器生産のムラとしては日本最大規模らしいが、12棟の鉄器工房が同時に乱立していたわけじゃなくて、運営された約150年を5期にわけると、それぞれに1〜3棟が稼働していたと考えられているようだ。

弥生時代の鉄器に詳しい考古学者の村上恭通さんによれば、「淡路の北部、北淡の弥生人がここに交換物資をもってくれば、鉄器を作ってもらえる」というイメージのムラだそうだ。
(『邪馬台国時代のクニグニ』2015年)

淡路島「舟木遺跡」の鍛冶工房跡
(「舟木遺跡鍛冶工房」淡路市教育委員会のPDF)

淡路島の舟木遺跡

五斗長垣内遺跡につづいて、2017年に発見された淡路島の弥生集落が「舟木遺跡(ふなきいせき)」。

こちらは東西500x南北800m、面積40haは奈良県の「唐古・鍵遺跡」に匹敵する大集落で、検出された20棟の竪穴建物のうち、4棟が鍛冶工房だという。ただ五斗長垣内遺跡と違って武器は少なく、ヤスや釣り針を中心に170点の鉄器が出土しているそうだ。

2世紀末には廃村した五斗長垣内よりは長続きした舟木ムラだが、それでも古墳時代を迎える頃には終焉を迎えたという話だ。

詳しくはこちらのPDFを「舟木遺跡1 ―B・D地区の調査― ダウンロード」。

舟木遺跡出土の鉄器
(「舟木遺跡出土の鉄器」淡路市教育委員会のPDF)

卑弥呼の時代の畿内と九州

五斗長垣内遺跡の発見で盛り上がったのが、邪馬台国論争。

「倭国大乱」から卑弥呼の擁立で「倭国」が安定したという2世紀末に、五斗長垣内遺跡が終焉していることから、要は大乱が終わって武器が不用になったから捨てられたムラ———というストーリーが描けるし、さらにはそのタイミングで、五斗長垣内の鉄器職人が邪馬台国の都、奈良県の「纒向(まきむく)遺跡」に移住した———にまで話を広げることができるというわけだ。

五斗長垣内遺跡の鉄器工房内部
(五斗長垣内遺跡の「鉄器工房」内部)

・・・が、残念ながら、五斗長垣内の鉄器が畿内に運ばれたという証拠は見つかっていないらしい。

邪馬台国「畿内説」の論者のお一人、考古学者の石野博信さんによると、卑弥呼の時代を含むAD100〜250年の鉄器の出土をみると、北部九州(福岡・佐賀・熊本)4002点に対して、近畿南部(兵庫南部・大阪・京都南部)は10分の一にもならない308点。

奈良県だけでみれば50点にも満たない状況で、そこから更に「纒向」に絞ると、出土した鉄器はわずかに10点余・・・。

これでは五斗長垣内が纒向、というか畿内への鉄器の一大供給源として機能したとは、とてもじゃないが考えにくい。
(『弥生興亡 女王・卑弥呼の登場』石野博信/2010年)

県別 弥生時代の鉄鏃の数
(出典『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』安本美典/2019年)

倭人は「鉄の鏃(やじり)」を使う

邪馬台国が登場する「魏志倭人伝」には、「竹箭或鐵鏃或骨鏃」つまり「倭人」は竹の矢には鉄の鏃(やじり)か、骨の鏃を使うと明記してある。

それで邪馬台国九州説の古代史家、安本美典さんが比較のために作成した「県別 弥生時代の鉄鏃の数」のグラフが上の「図5」で、福岡398、熊本339に対して、大阪40、奈良4はあまりにもお粗末だ。

兵庫と京都は一見すると多いが、ここには当時の先進地域だった「但馬」や「丹後」が含まれる。つまり「畿内」から鉄鏃の出土は大したことがない。

となると素直に考えれば、中国人が「倭人」といったのは「鉄鏃」を使う北部九州の人のことで、畿内は「倭人」には含まれないのでは??という話になりそうなもんだが、いやいや、2000年までのデータでは五斗長垣内遺跡や舟木遺跡が含まれてないぞ!という声も聞こえてくる。

だが残念ながら、五斗長垣内遺跡から出土した鉄族は11点、舟木遺跡が4点と、足したところで大した変化はないし、足されるのは兵庫県であって奈良・大阪ではない・・・。

庄内式並行期の鏡出土地
(出典『卑弥呼の鏡が解き明かす 邪馬台国とヤマト王権』藤田憲司/2016年)

ついでなので、卑弥呼の時代の「鏡」の出土状況を見ておくと、上の「図26」。

「庄内式並行期」は3世紀前半(210−250)のことで、卑弥呼が魏の皇帝から「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡100枚などを下賜された年代を含んでいる。

んでまぁパッと見ただけで、北部九州が圧倒的なのは明らか。内訳は福岡県からの鏡の出土が20例58面(うち墳墓13、集落7)で、一基から40面も出土した糸島市の「平原一号墓」を除けば、他は一例一面の副葬だそうだ。

一方、大阪は5例5面(墳墓2、集落3)で、奈良は築年代に諸説ある「ホケノ山古墳」をこの期間に加えれば、その1例3面だけ(しかも2面は破片)で、加えなければ0例0面という惨状だ。
(『卑弥呼の鏡が解き明かす 邪馬台国とヤマト王権』藤田憲司/2016年)

『卑弥呼の鏡が解き明かす 邪馬台国とヤマト王権』藤田憲司

———なんて話を聞くと、当時の畿内がいかにも後進国のようにも聞こえるが、実は畿内や東海では鉄ではなく銅のやじり「銅鏃」をメインに使っていたというFACTがある。

しかし、青銅の鏃、すなわち銅鏃は、奈良盆地も含めて近畿には実にたくさんあります。近畿と東海の銅鏃の数を足せば、九州の銅鏃の数をはるかに凌駕します。

(略)「西(九州)の鉄鏃、東(瀬戸内東部、近畿、東海)の銅鏃」といった構図が見えてきます。

(出典「3世紀の武器とキビ」『邪馬台国時代のクニグニ』松木武彦)

考古学者の松木武彦さんによれば、「銅鏃は断面が菱形で分厚く、比較的精悍で、いずれかといえば対人用」であるのに対し、鉄族は「広くて薄い」ものが多く含まれていて、それらは「動物に向けて射る狩猟具」だと考えられるのだという。

なるほど、戦争には鉄鏃より銅鏃が向いていると・・・。
ただそうだとしても、中国人が見た「倭人」は、「鉄族」を使う———と魏志倭人伝に書いてあるわけで、邪馬台国が畿内にあったことへの説明にはなっていない。

ホケノ山古墳の空撮
(ホケノ山古墳 写真AC)

倭国大乱は鉄の争奪戦か

この畿内の鉄の少なさは、昔から多くの専門家を悩ませてきたようだ。

昭和の頃は「倭国大乱」の原因を、朝鮮半島の「鉄利権」をめぐる北部九州 vs 吉備・畿内連合の争いと捉え、勝った後者が卑弥呼を女王に、纒向を邪馬台国の都にして、古墳時代の政治権力の中心になっていった———なんてストーリーが普通に考えられていたのだという。

ところが待てど暮らせど、畿内からは鉄が普及していたことを裏付けるFACTが出てこない。いつまで経っても、弥生の列島の物質的中心地は北部九州のままだった。

それで、畿内には存在しない鉄器を「見えざる鉄器」なんて呼んで、鉄器は再利用したから出土しない「リサイクル説」や、埋蔵中に腐ってなくなったから出土しない「銹化説」なども飛び出してきたものの、現在ではすべて否定されているそうだ。
(『弥生時代の歴史』藤尾慎一郎/2015年)

『弥生時代の歴史』藤尾慎一郎/2015年

近年、歴博教授の藤尾慎一郎さんが主張されるのが、鉄を争って「倭国大乱」が起きたのではなくて、「倭国大乱」の結果、鉄が列島規模で拡散されるようになったという学説。

倭国乱の原因自体は「後漢の衰退という東アジア情勢の変化にともなう倭国内の部族間抗争」によるもので、それによって「倭人世界」のパワーバランスが「再編成」された。

女王に推戴された卑弥呼は、伊都国(糸島市)に「一大率(いちだいそつ)」という監視機関を置いて、鉄を含めた「稀少物質」を一元的かつ公平に分配した。

そのおかげで九州での鉄資源の流通はそのままに、畿内から東にも鉄資源が行き渡るようになった———というような流れが、ぼくが藤尾さんの本から読んだこと。

糸島市「平原一号墓」
(九州の王墓「平原一号墓」)

なお、藤尾さんは畿内で古墳時代になってから副葬された「銅鏡」は、実は紀元前後には国内に渡ってきていたものが、200年以上「伝世(要は保管)」されてから使われたもの———と書かれていて、つまり銅鏡などの「威信財」は、鉄素材のような「必需材」に先行するかたちで畿内以東にもたらされていたといわれる。

北部九州は「鉄」を求め、畿内は「鏡」を求めた、という図式だ。

んでそんな嗜好の違いがあったから「列島における祭祀・政治の中心と、生産・経済の中心は依然としてズレていた」と説明は続いていくわけだが・・・。

奈良県「箸墓古墳」
(ヤマトの王墓「箸墓古墳」Googleマップ)

個人的には正直、スーッと腑に落ちていく感覚がなくて、何となくモヤモヤが残る学説かなぁーという印象がある。なにより話がややこしい。

そもそも九州と畿内という、全く異なる二つの文化圏を「倭国」という一つのワクで括るのは、けっこー無理があるんじゃないだろうか。それらは別々のブロックで、中国人が「倭人」といったのは「鉄族」を使う九州だけ。「銅鏃」を使う畿内・吉備は、「魏志倭人伝」がいう、海の東の「倭種」だったんじゃないだろうか。

そうやって「倭国」を二つに分けて考えれば、「倭国大乱」の殺し合いの舞台は北部九州だけで、出雲・吉備から東にはそれぞれの「墳丘墓祭祀」で結束したクニグニがあって、それらはやがて「前方後円墳」をシンボルに、平和的に統合されていった———というシンプルなストーリーが浮かんでくる。

その後、紛争地域の大陸に近いことを嫌った北部九州からの移住をヤマトが受け入れたか、あるいは北部九州が東遷してヤマトを乗っ取ったかは措くとしても、3世紀前半段階の日本列島に、女王の「鬼道」でもって意思決定を行うような、独裁的統一国家があったとは、ぼくにはどうにもピンと来ないのだった。

(6)につづく

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