瀧音能之『ヤマト建国の真相』〜朝日遺跡と唐古・鍵遺跡は戦ったのか〜

『ヤマト建国の真相』表紙の抜粋 邪馬台国

邪馬台国の「方位」と「距離」

邪馬台国関連の読書感想文シリーズ、その3回目は『最新考古学が解き明かす ヤマト建国の真相』(2025年)だ。前回読んだ『発掘された日本神話』の半年前に、同じ宝島社新書から出た本で、内容から見て姉妹書だと思われる。

んで『発掘された日本神話』には「監修 瀧音能之」とあるものの、実際に執筆した人の名前がなかったので、便宜上、駒澤大学名誉教授の瀧音さんの著書として扱った。

が、今回の『ヤマト建国の真相』は、何箇所かプロの歴史学者が関与したとは思えない記述があったので、出版社の名前からとって「宝島さん」を著者と考えることにする。

『ヤマト建国の真相』表紙

さて、毎度同じ出だしになるが、ぼくが邪馬台国関連の本でまず確認するのが、邪馬台国の「方位」と邪馬台国までの「距離」、それと邪馬台国ならではの「遺物」が、どう説明されているか。

これら三点は、ぼくら「九州説」の連中には苦もなく説明できる事柄だが、それ以外を邪馬台国の所在地とする場合には、相当な根拠をあげる必要がある(とぼくは思っている)。

んじゃ「大和説」をとる宝島さんがそれらをどう説明しているかというと、まず魏志倭人伝では伊都国(糸島市)の「南」で狗奴国の「北」だとされる邪馬台国への「方位」については「魏志をはじめとする中国の歴史書における周辺国の位置についての記述は距離や方位の誤りが多い」という。

つまり中国史書には「誤記」が多いから、不弥国〜投馬国〜邪馬台国〜狗奴国の方位「南」の全てを「東」に読み変えることは許される———ってことのようだ。

ただぼくが調べた範囲では、『三國志』の「魏志韓伝」から「倭人伝」の不弥国までの間には、方位の間違いは特にないようだ。なので、なぜ不弥国から先に限っては連続して方位を間違えたのか———には、多少でも説明が欲しいところだ。

つづいて、帯方郡から不弥国までは10700里、帯方郡から邪馬台国までは12000里なので、邪馬台国が九州を出ることはない———という「距離」の問題はどうかというと、宝島さんは「倭人伝の記述通りだと邪馬台国の位置は九州南方の海上にあることになる」と書かれている。

つまり宝島さんは、倭人伝に明記されている「距離」の方は完全に無視して、「水行二十日」という「日数」の方を重視しているようだ。だが魏の使者や「張政」は実際に邪馬台国まで行っているんだから、彼らは「距離」だって分かっていたはず。あえて「日数」を書くのは、何らかの理由があったことにはならないか。

ホケノ山古墳の「画文帯神獣鏡」
(出典『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』石野博信/2008年)

「画文帯神獣鏡」は卑弥呼の威信財か

三点目の、邪馬台国なら出土するはずの「遺物」については、「大和説」を主張する本にしては公平に扱われている、とぼくには読めた。引用されている、安本美典さんが作成した下の表をみれば、奈良県が魏志倭人伝の舞台とは考えにくいことが一目瞭然だからだ。

魏志倭人伝に記載されているものに関する遺物
(出典『ヤマト建国の真相』)

ただ宝島さんが、3世紀に入ってから流通したとされる「画文帯神獣鏡」を、しきりに卑弥呼の「威信財」だと強調する点は気になるところだ。というのも、卑弥呼が生きていた3C前半の畿内の遺跡からは、ほとんど銅鏡が出土していないというFACTがあるからだ。

『ヤマト建国の真相』では、3人の「大和説」の先生方がインタビューを受けている。そのお一人の考古学者・寺沢薫さんが作成した「庄内式期」の鏡出土数が、下の「図6」だ。

寺沢薫氏の資料による県別・庄内期の鏡の出土数
(出典『データサイエンスが解く邪馬台国』安本美典/2021年)

見ての通りで、卑弥呼が生きていた時代の奈良県からは、「ホケノ山古墳」の「画文帯神獣鏡」3面しか鏡の出土がない。しかも研究者によってはホケノ山古墳を3C後半の築造だと考える人もいて、その場合は奈良県からの出土は「0面」になる。

『データサイエンスが解く邪馬台国』表紙

3C前半には、奈良県にはごく僅かしか存在していなかった鏡がどうして「威信財」になるのかは不思議だが、おそらく宝島さんは昭和の頃に信じられた「伝世鏡説」の影響化にあるんだろう。

「伝世鏡」ってのは、邪馬台国は畿内にあったはずなのに卑弥呼の「銅鏡百枚」が出土しない理由として、当時の畿内に鏡はあったのだが、まだ古墳に副葬する文化がなかったため、入手した3C前半より50年も100年もあとの古墳からしか出土しないのだ———という古い「仮説」。

この説に基づけば、畿内の首長層は3C前半に卑弥呼から威信財の「画文帯神獣鏡」をもらっていたものの、なぜか4C近くになってから一斉に副葬を始めたということで、古代史に興味がない人が聞けば「ご都合主義」に聞こえるかも知れない。
(伝世鏡については↓の記事を)

弥生時代に「統一政権」はあったのか

「九州説」と「大和説」の違いとしては、「大和説」では邪馬台国の時代に早くも日本列島には「統一政権」があったと考える点がある。

つまり、「親魏倭王」に封じられた卑弥呼の政権は、日本を治める統一政権ではなく、あくまでも北部九州の1つの地方政権に過ぎないということになる。

(『ヤマト建国の真相』)

聞くところによれば、かの新井白石は卑弥呼を九州の「女酋長」といったそうだが、「九州説」ではまだ朝鮮半島に「百済」も「新羅」も成立していないような段階に、それよりも辺境にある日本列島にだけ統一政権があった———というような思い上がった?考えはとらないようだ。

例えば「九州説」の歴史学者の平野邦雄さんは、日本列島において統一政権への動きが出てくるのは、AD313年に「楽浪郡」が滅亡してからだろうと主張されている。百済や新羅の国家形成と連動して、日本社会も国家統一に動き出した、ってことだ。
(『邪馬台国の原像』2002年)

長浜浩明さんの計算だと、AD313年頃というと、日本書紀では「日本武尊(ヤマトタケル)」が活躍していた時代に当たる。

邪馬台国時代の日本社会が、少なくとも二つの文化圏に分かれていたことを表すのが、下の「図17」。

箱式石棺」というのは、いわゆる「倭国大乱」のあとに北部九州で広まった墓制だそうだが、その分布は北部九州から山口県、広島県あたりまで。そこから東には「箱式石棺」を使う文化はなかった。

県別 弥生時代後期箱式の出土数
(出典『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』安本美典/2019年)

この二つの文化圏は、大昔に信じられていた九州=銅矛、近畿=銅鐸の対比が参考になるし、倭人伝が「倭人」がお墓に作らないと記した「槨(棺の外箱)」が、島根県と岡山県より東では採用されている点も参考になると思う。

というわけなので、宝島さんの以下の記述も、ぼくにはちょっと腑に落ちない。

畿内の王権に対して、北部九州は魏と独自の外交を展開し、倭国連合の王が「親魏倭王」の称号を得たことになる。これは畿内の王権に対して、決定的とまではいわないまでも敵対行為にあたる。

ところが、卑弥呼政権中頃までの間に、畿内と北部九州との間に対立は見られず、むしろ協力的な関係を築いている。

(『ヤマト建国の真相』)

宝島さんは、仮に北部九州にあった邪馬台国が「親魏倭王」の称号を得た場合は、「畿内の王権」に対する敵対行為になるというが、邪馬台国ではない「畿内の王権」って何のことだろう。

「九州説」ではその頃の畿内には、後に「ヤマト政権(今の皇室)」に育っていく人間集団があったとは考えるが、それを中国王朝に朝貢して地位や身分を保証してもらうような「王権」だったとは考えないようだ。

実際のところ、「ヤマト政権」は4世紀はじめに成立したという見解が多いようだが、ヤマトが中国と関係を持ったのは5世紀に入ってからのことだ。初期のヤマトは中国王朝になんか、まるで興味がなかったってことだろう。

また、宝島さんは3Cの九州と畿内の間に「協力的な関係」があったと言われるが、実態はこうだ。

纒向の外来系土器の比率
(出典『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』石野博信/2008年)

上の「図13」を作成したのは「大和説」の論者で、纒向遺跡の発掘を担当された石野博信さん。纒向遺跡と北部九州の糸島平野、福岡平野、筑紫平野に大した交流がなかったことが、一発で理解できる図だと思う。

で、まぁぶっちゃけ、ぼくには宝島さんの本には「ストーリー」の存在を感じざるを得ない印象がある。

宝島さんは「卑弥呼政権」誕生までのいきさつを、「倭国大乱」を収束させるべく吉備と畿内が「連合」して、北部九州の「伊都国」から女王卑弥呼を奈良盆地に招聘して、そこに「統一王権」を打ち立てた———というわけだが、ぼくの知る限り、2C後半に北部九州から畿内へのヒトとモノの移動をあらわす物証はなかったように思う。

それが起こった可能性があるとしたら卑弥呼が死んだ後の3C後半で、佐賀県「吉野ヶ里遺跡」や福岡県「平塚山の上遺跡」では、3C後半に人口が消失したというFACTがある。

その一方で、纒向遺跡が100haから300haに巨大化したのもAD250〜AD300のことらしいので、この時期に北部九州の人間が畿内に移動した可能性は考えられると思う。

三世紀後半になると、吉野ヶ里遺跡全体をとりかこんでいた外環壕や北内郭・南内郭の内壕はほぼ埋没する。
(中略)
弥生時代前期から終末期まで繁栄した弥生の大集落は、弥生時代の終わり、古墳時代の到来とともに姿を消したのである。

それと前後するかのように、南内郭付近の丘陵部に前方後方墳四基と方形周溝墓四基が相次いで造営される。

(『邪馬台国時代のクニの都・吉野ヶ里遺跡』七田忠昭/2017年)
内行花文鏡
(『倭人伝に記された伊都国の実像・三雲・井原遺跡』2024年)

この本に感じる「ストーリー」をもう一点挙げてみると、宝島さんが伊都国の「平原王墓」を「卑弥呼政権より前の2世紀の遺跡である」と書いている点。

だが平原王墓の築造年代については、北部九州の土器編年からは3C初頭の築造、「割竹形木棺」を使っている点からは3C半ばの築造、と二説あるのは知っていたが、2世紀という話は聞いたことがない。

おそらく、卑弥呼が魏帝から下賜された「銅鏡百枚」は、平原王墓から出土した漢鏡40面と容易に結びついてしまうので、平原王墓が卑弥呼と関係しないように、その築造年代を古くしたいんじゃないか———なんて想像をしてしまった。

逆茂木と乱杭
(出典『あいち朝日遺跡ミュージアム常設展示案内』)

「朝日遺跡」は狗奴国か

卑弥呼が戦ったという狗奴国。

「九州説」なら、筑紫平野のどこかにあった邪馬台国が、その当時としては日本最大の鉄器を保有していた熊本平野の勢力と、貴重な「ベンガラ」あたりを巡って戦った———なんてシンプルに考えることが可能なことを、「大和説」では奈良盆地の「南」にはそもそも大きな平地さえないのでこれを「東」に読み変えて、狗奴国を東海地方だと主張することから始めなければならないようだ。

それで宝島さんが「狗奴国・東海説」の根拠として持ち出してきたのが、愛知県の巨大弥生集落「朝日遺跡」に残された遺物で、「逆茂木」と「乱杭」といわれるものだ。

尾張と大和の間には山地があるが、距離的には近い。そのため、濃尾平野の遺跡からはほかの地域には見られない強固な防御施設が見つかっている。

愛知県清須市の朝日遺跡からは、環濠に加えて土で築かれた防壁が備えられていた。その周りを、溝に枝つきの枯れ木を植えた逆茂木と呼ばれる防御施設が二重に囲んだ。
(中略)
当時のクニでこれほどの守りを固めた遺跡は例がない

(『ヤマト建国の真相』)

だが、朝日遺跡の発掘を担当した考古学者・原田幹さんによると、朝日遺跡の「逆茂木」と「乱杭」がつくられたのは、弥生中期後半(BC100〜AD50頃)のことで、卑弥呼の時代より200年は昔の話になる。

朝日遺跡発掘マップ
(出典『あいち朝日遺跡ミュージアム常設展示案内』

しかも、それらが設置された場所は集落の外側ではなく中心部で、北と南の居住域の間にある低地部にあたる。上の図では、③が逆茂木で、④が乱杭。フツーに考えれば、これらは外敵に備えた「防御施設」ではない。

なので「狗奴国・東海説」の提唱者である考古学者・赤塚次郎さんでさえ、これらの用途は「洪水・水害対策」だと言っている。

東海系土器の拡散
(出典『東西弥生文化の結節点・朝日遺跡』原田幹/2013年)

また、宝島さんは、上の「図62」に見られるような「東海系土器の拡散」を、畿内勢力に対抗した「東海連合」への成長———なんて書かれているが、それも「ストーリー」だとぼくは思う。

「狗奴国・東海説」を提唱する赤塚次郎さんによれば、AD100年頃の東海地方では、相次ぐ巨大地震や大洪水といった災害に見舞われたことが、地質の検査などから分かっているそうだ。

それで例えば、神奈川県綾瀬市にある「神崎遺跡」が、後期後葉(AD50〜100年頃)に「東三河」の人たちがムラごと移住してきて成立したことが分かっているように、寒冷化で湿地化していく故郷を後にして、多くの東海人が関東に脱出してきた時期があるんだそうだ。

神崎遺跡
(神崎遺跡)

また上の「図62」では、遠く群馬県にまで東海系の土器が広がっているが、その時期は3C後半のことで邪馬台国時代より後の話になる。そういった300年ほどかけて続けられた東海から関東への脱出を、邪馬台国時代の「東海連合」だと捉えるのは、結論ありきの「ストーリー」だとぼくには思えるわけだ。

最盛期の唐古・鍵ムラのジオラマ
(出典『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』藤田三郎/2019年)

「唐古・鍵遺跡」は尾張と敵対したのか

宝島さんが「狗奴国」だという「朝日遺跡」は、赤塚次郎さんによれば「邪馬台国時代にはすでに消滅」していたのだという。(『邪馬台国時代の関東』2015年)

それじゃーAD180年以降に造営された「纒向遺跡」と戦うことはできないからか、宝島さんが狗奴国と「敵対」していたというのが、同じ奈良盆地の「唐古・鍵遺跡」。

こちらは纒向遺跡以前としては奈良盆地最大の弥生集落で、上の「図16」のような「多重環濠」が集落全体を囲んでいたという。環濠の幅は7〜8mもあり、その深さは2m。総延長は1540mにも及んだんだそうだ。

んで宝島さんは、唐古・鍵ムラは「敵対する尾張と隣接しているため」、このような大規模な環濠を必要としたというわけだ。

唐古・鍵遺跡の大環濠
(出典『日本の古代遺跡』別冊宝島/2015年)

だが、それもぼくには「ストーリー」に思えるのが、この唐古・鍵遺跡の大環濠は中期末(AD50年頃)に大量の「洪水砂」によって埋没してしまった事実があること。

その後、頑張って再掘削してみたものの規模は小さく、邪馬台国時代に入る2C後葉には完全に埋まり、放棄されているんだそうだ。
(『ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡』藤田三郎/2019年)

つまりは、邪馬台国が狗奴国と戦っていた頃、すでに唐古・鍵遺跡の大環濠は存在してなかったというわけで、そもそも尾張と大和が戦っていたという点からして、かなり怪しい話なんじゃないかという気さえしてくる。

富雄丸山古墳 写真AC
(富雄丸山古墳 写真AC)

ナガスネヒコ登場

最後に、ぼくが宝島社新書『ヤマト建国の真相』には、駒澤大学名誉教授・瀧音能之さんの監修はなかったと確信した点を紹介しときたい。

宝島さんは、「蛇行剣」や「盾形銅鏡」といった珍しい副葬品が出土した4C後半の円墳「富雄丸山古墳」は、それが「前方後円墳ではなく、一段ランクが下がる円墳」であることから、その被葬者を卑弥呼時代の邪馬台国の長官「伊支馬(いこま)」の子孫だというんだが、なんとその先祖は神武天皇と戦って、ニギハヤヒに殺害された「ナガスネヒコ」だともいう。

ここからは推測となるが、富雄丸山古墳の被葬者は、卑弥呼政権以前に大和を治めていたナガスネヒコのモデルとなった大和の王を祖先とし、その後、大和(邪馬台国)の長官になったイコマの後裔だったのではないだろうか。

(『ヤマト建国の真相』)

推測だとはいうものの、これはさすがに話が飛躍しすぎなわけで、この一文でぼくにもようやく、宝島さんが対象としている読者層が理解できたのだった。

【追記】『歴史人』という雑誌の2025年10月号をパラパラみていたら、瀧音能之さんのお立場は「どちらかといえば北部九州説」とのことだった。畿内説では邪馬台国連合の範囲が広すぎるように思う、とのことで、その点には完全に同意できる。

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