邪馬台国は丹後(京丹後市)〜『古代史の謎は「海路」で解ける』長野正孝〜

『古代史の謎は「海路」で解ける』表紙の抜粋 邪馬台国

倭国の中心は丹後

邪馬台国関連の読書感想文シリーズ、その12回目は邪馬台国「丹後説」を唱える『[決定版]古代史の謎は「海路」で解ける』(2021年)。

著者は国土交通省で港湾や運河の計画・建設に携わったという、元官僚の長野正孝さんだ。現在は「水辺観光アドバイザー」をされているそうだ。

『[決定版]古代史の謎は「海路」で解ける』表紙

そんな海や川の専門家からみると、邪馬台国時代の移動は「海路」が主要ルートで、ただし当時の瀬戸内海はまだ「航路」が開かれていない段階で航行が難しく、縄文時代からの往来が認められる日本海こそが物流の中心だったという。

そして、当時の日本海航路のセンターに位置するのが、北近畿の「丹後」———ということで、長野さんは邪馬台国「丹後説」を提唱されているというわけだ。

日本海にあった鉄の路とヒスイの路
(出典『古代史の謎は「海路」で解ける』)

ただ、長野さんの「丹後説」はあくまで当時の「海路」の状況から導かれた仮説で、基本的に「魏志倭人伝」との整合性は無視されている。

倭人伝がいう、帯方郡から邪馬台国まで12000里、狗邪韓国から邪馬台国まで周旋(=移動距離で)5000里はスルーされているし、北から南に伊都国ー邪馬台国ー狗奴国と並ぶ位置関係などにも言及なし。

それに、「海路」をもとに「丹後説」を唱えているのに、魏使の一行が下関で上陸して日本海沿岸を30日陸行した———なんてのも、あまり真剣に検討したとは思えない説明で、長野さんが本当に邪馬台国や倭人伝に関心があったのかは、正直、疑わしいようにぼくには思えている。

もしかしたら、長野さんはストレートに「海路」から見た古代史を書きたかったところに、出版社からの希望(要請?)で、売れ筋の「邪馬台国」を絡める必要が出てきた・・・とか?

京丹後市「大宮売神社」のグーグルアース
(Google Earth)

なお長野さんは、邪馬台国時代の前後数百年間は、丹後より大きな「国際貿易市場」は国内に存在しなかった、といわれるが、その根拠は丹後から「新」王朝の「貨泉」や「青龍三年」銘の「方格規矩鏡」が出土していること。

だが、丹後がそういった交易の拠点であったことは万人が認めるにしても、やはり当時の「国際貿易市場」の規模は、伊都国や奴国のある北部九州の方が上だったんじゃないだろうか。

当時、朝鮮半島の土器が一番多く出土した集落は、博多湾に面した「西新町遺跡」だったと記憶する。しかも朝鮮から来た人は交易で終わらずに、そのまま西新町に住んでいたというから国際的だ。

また長野さんは、どういうわけか北部九州の実力を低くみている印象で、九州説は「鉄の経済圏、マーケットの大きさから、答えを求めることは無理」だと、よくわからない否定をされている。

でも、たしか3世紀後半の鉄器生産量は「博多遺跡」が群を抜いて圧倒的だったと、ぼくは聞いている。大量に作るからには、そこに大きなマーケットがあったんじゃないだろうか。

来島海峡
(来島海峡 写真AC)

瀬戸内海ルートの否定=大和説の否定

というかんじで、「九州説」については歯切れの悪い否定をする長野さんだったが、「大和説」の否定はご専門を活かしてシンプルなもの。要は、瀬戸内海を渡る航海は、当時の技術や設備では難しい、の一点に尽きるようだ。

まず当時の瀬戸内海は、今より海面が数mから10m近く高かったという。今は港がある広島や岡山の平地はほとんどが海の中で、寄港できるような集落も少なかったそうだ。

瀬戸内の代表的な「瀬戸」の干満差は3m以上で、時速20キロの激しい流れが随所にあり、岩礁も多数。しかも一日2回ずつ、東西に強い流れも発生するというから大変だ。

鳴門海峡
(鳴門海峡 写真AC)

そんな難所つづきの海を、時速5キロ程度の手漕ぎの刳り船で、中国から来た使節団が航海するのは難しい。長野さんによれば、そのとき考えなければならないことは、最低でも5点あるという。

①大勢の乗船員の水と食料をどう確保するのか。瀬戸内海には川が少なく、水のない無人島も多い。

②瀬戸内海の難所を進むには、優秀な「漕ぎ手」と地元の協力が必要。それらをどうやって確保したのか。

③一ヶ月以上かかる航海で、必要な食料や水の対価をどうやって支払ったのか。

④魏使は、対馬海峡では大型の準構造船を使っただろうが、瀬戸内海では手漕ぎの刳り船を使わざるを得ない。狭い船内のどこに「銅鏡百枚」などの下賜品を積み込んだのか。

⑤瀬戸内海の難所をどうやって越えたのか。関門海峡は時速17.4キロ、来島海峡は時速19.1キロ、鳴門海峡は時速19.4キロに及び、手漕ぎの刳り船で突っ込めば、船団はばらばらになってしまうだろう。

岩礁
(岩礁 写真AC)

というかんじで、天然のラグーン(潟湖)を含む寄港地が整備されている日本海側と違って、上陸可能な平地が少なく集落が離れている瀬戸内海を、一ヶ月にわたって魏使の船団が通行するのは無理だ———というのが、海と川の専門家である長野さんの結論になる。

ただ、そうやって否定されるのは邪馬台国「大和説」であって、末廬国で上陸してからは内陸と河川を進む「九州説」には何の関係もない話。

上の方に現在の丹後の地形の航空写真(Google Earth)を貼っておいたが、長野さんが卑弥呼の宮殿だといわれる「大宮賣(おおみやめ)神社」が鎮座する京丹後市の平地は、あまりにも狭い。

魏志倭人伝によれば、福岡平野にあったとされる「奴国」の人口は「二万余戸」。その中心集落の「須玖遺跡群」の規模は、200ha以上だったという。

果たして当時の丹後に、それを超える「七万余戸」の人口を擁する「邪馬台国」が存在できたものなんだろうか。

それに北部九州には「須玖遺跡群」の他にも、糸島市の「三雲・井原遺跡」や博多区の「比恵・那珂遺跡」、朝倉市「平塚川添遺跡」、佐賀県「吉野ヶ里遺跡」、熊本県「方保田東原遺跡」など、大規模な集落がネットワークで繋がれて、広がっていた。

そんな地域を「鉄の経済圏」や「マーケット」が小さいといわれて、納得できる人は多くはない予感がする。

『北近畿の弥生王墓・大風呂南墳墓』肥後弘幸

邪馬台国時代の丹後

長野さんは「あとがき」で、特にお世話になった人の筆頭に、考古学者の肥後弘幸さんの名前を挙げている。幸いぼくの本棚に肥後さんの著書『北近畿の弥生王墓・大風呂南墳墓』(2016年)があったので、それを出典に、弥生時代の丹後の歴史を少し紹介したい。

三坂神社墳墓群測量図
(出典『北近畿の弥生王墓・大風呂南墳墓』)

丹後の弥生時代中期(BC200〜AD50年頃)の拠点集落として知られるのが、京丹後市の「奈具・奈具岡遺跡群」。ここには最先端の玉作り工房があって、生産された「水晶製小玉」は奈良盆地の拠点集落「唐古・鍵遺跡」からも出土しているそうだ。

そんな先進地域の丹後に「王墓」ができたのは、弥生時代後期に入った頃。

丹後では独自に「台状墓」といって、丘陵に階段状に埋葬する墓制を発展させていて、そのうちの「三坂神社墳墓群」で一番デカい「三号墓」から、大量の宝石や鉄製の武器、工具などが出土しているのだという。

明らかな「富の独占」がみられ、初代の丹後王が被葬者だと考えられているようだ。

大風呂南一号墓の調査風景
(出典『北近畿の弥生王墓・大風呂南墳墓』)

その次の丹後王の王墓は、2世紀中頃〜後半に築造された「大風呂南1号墓」で、ライトブルーに輝く「ガラス釧(腕輪)」が有名だ。他にも豪華な副葬品が出土していて、貴重だった「鉄剣」は11本を数え、北部九州の王墓にも引けを取らないレベルだという。

ただ、この段階の丹後の王墓からは「鏡」が出土しておらず、後に畿内を席巻する銅鏡の文化は、やはり北部九州から来たものらしい。

墓壙内破砕土器供献をおこなっている墳墓の分布
(出典『北近畿の弥生王墓・大風呂南墳墓』)

丹後のお葬式で独特なのが、土器を割ってバラまく「墓壙内破砕土器供献」という作法。その分布が上の「図57」で、フツーに考えれば、図の「北近畿の勢力範囲」の円の中が、いわゆる「丹後王国」の範囲ということになるんだろう。

巨大な赤坂今井墳丘墓
(出典『北近畿の弥生王墓・大風呂南墳墓』)

そしてAD200年頃、ついに丹後にも築かれた単独の「墳丘墓」が、「赤坂今井墳墓」だ。墳丘長は南北39m、東西36m、高さ3.5m。墳丘裾部を含めた墓域だと、南北51m、東西45m。

さらに中心埋葬施設は14mx10.5m、深さ2mと、弥生王墓としては日本最大。ここに長さ7m、幅2mの船底状木棺が納められていたそうだ。

墓壙上からは、北陸、東海、山陰、河内(または讃岐)の土器が出土していて、丹後王の交友関係の広さがうかがえるという。

※ぼくは個人的に、赤坂今井墳墓の被葬者は「古事記」にのる旦波の大県主「由碁理(ゆごり)」だと思っているが、それは別記事にて(↓)。

ところが!!どういうわけか、丹後の王墓はAD200年頃の赤坂今井墳墓を最後に収縮してしまう。

赤坂今井墳墓につづいて3世紀中頃、つまり卑弥呼が死んだ頃につくられた「大田南2号墳」は22mx18mの方墳(または前方後方墳)だし、もう一基の「大田南5号墳」も19mx12mの方墳と、チト寂しいお姿だ。

長野さんは「大田南5号墳」から「青龍三年(235年)」の紀年銘鏡(方格規矩鏡)が出土したことをもって「卑弥呼=丹後説の有力な証拠の一つ」と主張されるが、鏡一枚の他に出土したものといえば鉄刀一本だけで、3世紀中頃の丹後に往年の勢いがないことは明らかだ。

長野さんがお世話になったという考古学者の肥後さんも、3世紀の丹後については、こんなふうにまとめられている。

弥生時代後期に朝鮮半島や大陸との交易を通じて誕生し、発展した北近畿の王は、大田南古墳群の時代になってようやく後漢や魏の首都洛陽まで赴き銅鏡を手に入れることができた。

また、墳丘上には王一人のみが埋葬され、すでに大和王権を支える一人の首長となっている。以降、丹後半島には、王墓や盟主墳と呼べるものはみあたらない

このことは、大和王権が、瀬戸内・九州北部も勢力圏に納めるなかで、丹後を経由しない大陸への交易路を開いたことにより、北近畿の地理的優位性が低下したものと考えられている。

(出典『北近畿の弥生王墓・大風呂南墳墓』)
大宮売神社「古代祭祀之地」2021年夏見学
(大宮売神社「古代祭祀之地」2021年夏見学)

また長野さんは、京丹後市の式内社「大宮売神社」の境内から祭祀に使われた遺物が多数出土していることから、「まさに卑弥呼の館である」と断言されているが、考古学者の向井祐介氏によると、この地の祭祀遺物は古墳時代のもので、最も古いものでも5世紀初頭だという。

古墳時代前期(AD250-400年頃)の遺物はほとんど出土していないようで、それは3世紀の丹後の王墓の歴史ともシンクロしていると、ぼくは思う。卑弥呼の時代、丹後はすでに衰退期に入っていたと思われる(4世紀末に復活する)。

PDF – 大宮売神社所蔵の境内祭祀遺物(向井祐介)

『丹後王国物語』表紙

卑弥呼は丹後にいた!?

「あとがき」で長野さんが二番目に謝意を捧げているのが、古代史研究家の伴とし子さん。お名前には聞き覚えがあったので本棚を漁ってみたところ、いつ買ったか忘れたが『丹後王国物語』(2013年)というムックを発掘した。

この本で伴さんは「丹後王国物語」のマンガの原作を書かれていて、そこからエッセンスともいえる2コマを紹介する。

丹後の海人族が開拓した大和
(出典『丹後王国物語』丹後建国1300年記念事業実行委員会)

伴さんが「丹後王国」こそが畿内ヤマトを建国したと主張される根拠は、丹後国一宮「籠(この)神社」に伝わる『海部氏勘注系図』のなかに、「倭宿祢命は大和の国に遷座の時、白雲別神の女、豊水富命を娶り、笠水彦命を生む」という一文があるから。

海部氏四代目のヤマトスクネが丹後から大和に入って、畿内を含む「大丹波王国」を築いたというのが、伴さんの主張のようだ。

「大丹波王国」の範囲
(出典『丹後王国物語』丹後建国1300年記念事業実行委員会)

ただ、弥生時代後期の奈良盆地には「唐古・鍵遺跡」という大集落があったし、大阪平野にも「中田遺跡群」が広がっていて、丹後とは全く異なる文化を花開かせていた。

それに奈良盆地では、弥生時代の前期(BC300-BC200年頃)から水田稲作が行われていたようで、御所市の「中西遺跡」では4.3ヘクタールの水田跡がみつかっている(想定10ha)。

今さら丹後の「海人族」に、開拓を指導していただく必要なんて、なかったんじゃないだろうか。


くり返しになるが、長野さんが書きたかったのは古代の「海路」についてであって、邪馬台国だの卑弥呼だのは、商売上やむなくインサートされたもののような印象がある。

本題の「海路」についてのプロのご意見は貴重なので、ヤマトが外洋に出ていく神功皇后の時代に進んだら、またこのブログでも取り上げたいと思う。

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