邪馬台国は出雲族が「唐古・鍵遺跡」に建てた〜『出雲と大和』村井康彦〜

『出雲と大和』表紙の抜粋 邪馬台国

出雲族が建てた邪馬台国

邪馬台国関連の読書感想文シリーズ、その17回目は『出雲と大和——古代国家の原像をたずねて』(2013年)。著者の村井康彦さんは、平安王朝や茶の湯の研究で知られる歴史学者だ。

岩波新書というと、隅々まで編集者が目を光らせて「岩波」のワクをはみ出ないように、細心のコントロールをしているイメージがあったが、村井さんの本は扶桑社新書なみの自由さで、ちょっと驚かされた。

『出雲と大和』表紙

結論からいくと、村井さんによれば邪馬台国は「出雲族」がつくった国で、その中心地は奈良県田原本町の「唐古・鍵遺跡」だという。

ん? それ「纒向(まきむく)遺跡」の間違いでは?という声は分かる。唐古・鍵は700年に渡って奈良盆地の中心集落だったが、2世紀後半には環濠を放棄して解体に向かい、5km東南の纒向に移転した———というのが通説だ。

纒向遺跡の造営が、卑弥呼が女王に「共立」されたAD180年代に始まった石野博信ことから、卑弥呼の都だと言われることが多いわけだが、村井さんは纒向は「山に近く」「環濠も見つかっていない」ことから候補から外して、平野の真ん中で立派な環濠のある、唐古・鍵を推すそうだ。

纒向遺跡とその周辺
(出典『邪馬台国の候補地・纒向遺跡』石野博信/2008年)

というかんじで、邪馬台国「大和説」の変わりダネ、といったあたりが村井説のポジションかと思われるが、じゃあ魏志倭人伝の地理観との整合性はというと、残念ながら根拠のない「誤記」説だった。帯方郡から12000里という総距離についても、特に言及はなかった。

その不弥国から邪馬台国へ行くのに要する日数は、合わせて「水行一か月+陸行一か月」というものであるが、この記載通りとすれば、さしずめ豊後水道を南下し、九州の南方遥か彼方に邪馬台国はあったことになろう。

記載のどこかに誤りがあるとしか思えないが、あるとすれば二度出てくる「南」という方角指示の個所にちがいない。ことの性質上、これが北でも西でもありえないから、残るのは東であり、つまり「南」を「東」に改めるべきであろう。

(『出雲と大和』)

さて、村井説の核心部分は、邪馬台国を建てたのは「出雲族」だという点だが、実はその根拠は「神話」だったりする。

日本書紀「神代」の第8段、第6の「一書」(参考文)にだけ載っている、大己貴神(大国主神)が自分の「幸魂奇魂」だと名乗る神を、奈良盆地の三輪山に祀った———という神話から、村井さんは出雲族の奈良盆地への移住を読み取ったんだそうだ。

(出典『ヤマト王権誕生の礎となったムラ・唐古・鍵遺跡』から抜粋 藤田三郎/2019年)

出雲と大和の考古学

神話の話は後回しにして、先に考古学からみていくと、まず村井さんが卑弥呼の都だという唐古・鍵遺跡には、出雲の土器は来ていなかったようだ。考古学者の藤田三郎さんによれば、弥生中期前半までは東海系の土器、中期後半から後期では吉備や播磨の土器が目立つという。

んでこういう場合、考古学では、弥生時代には出雲から大和への人々の流れはなかった、という結論になるんじゃないかと思う。

出雲の土器が奈良盆地に現れるのは3世紀の終わり頃から4世紀の初頭で、纒向学研究センターの橋本輝彦氏によると、そのころの纒向遺跡の外来系土器の割合は、多いところで30%。そのうちの8〜10%が山陰系の土器だったという。

ただAD300年前後というと、卑弥呼が死んでから50年近く経ってからの話になる。

また、外来系土器のバリエーションの多さからは、それは「新天地を求めた移住や文化伝播の結果ではなさそうだ」と考えられるんだそうだ。
(『出雲を源郷とする人たち』岡本雅享/2016年)

※ぼく自身は、出雲族はAD250〜300年前後にかけて、ヤマトによって奈良盆地や東国に強制的に移住(屯田)させられたと思っていて、こちら(↓)。
【関連記事】ヤマトタケルの建部と出雲族の東

出雲の弥生墳丘墓の変遷
(出典『出雲王と四隅突出型墳丘墓・西谷墳墓群』渡辺貞幸/2018年)

また、出雲では2世紀後半から、オリジナルの弥生墳墓「四隅突出型墳丘墓」の造営が始められているが、奈良盆地にそれは存在しない。というか、3世紀も中葉にならないと、奈良盆地には「王墓」らしきものは造られない。

これは村井さんの説とはマッチしない現象で、「出雲族」の卑弥呼が女王に共立されたというAD180年代から、当の出雲ではセッセと自分たちの「王墓」をつくっていて、しかもそのお墓の形状は奈良盆地には見られないものだった・・・。

こいつら本当に同族なんか?という話。

権現山古墳地形測量図
(出典『出雲と大和』)

なお、出雲の王墓「四隅突出型墳丘墓」は、山陰から北陸にかけて広がっているのに、途中の「丹後」では台状墓や大型方形墓ばかりで「四隅」がない。

これはおかしい、と村井さんが自ら丹後に出かけて発見したというのが、京丹後市の「権現山古墳」だ。村井さんは本の中で「まぎれもなく四隅突出墓」だとコーフンされているが、こちらはそもそも築造年代がAD400年前後で、応神天皇なんかの時代。

さすがに、弥生時代の墓制である「四隅突出型墳丘墓」だと考える人はいないようだ。詳しくは以下の論文を。

PDF「丹後地域前期古墳の規模・墳形に見る階層性と副葬品」福島孝行

四隅突出型墳丘墓の広がり
(出典『出雲王と四隅突出型墳丘墓・西谷墳墓群』渡辺貞幸/2018年)

神武東征と邪馬台国の滅亡

村井さんは『記紀』に邪馬台国や卑弥呼の名前が出てこないことから、邪馬台国と大和朝廷の「非連続性」を唱えられている。卑弥呼は「大和朝廷の祖先ではない、無縁の存在」とのことで、ぼく個人としては全面的に大同意だ。

村井さんによれば、AD265年にかつて卑弥呼が後ろ盾にしていた「魏」が滅亡すると、狗奴国を始めとする諸勢力が、邪馬台国打倒の動きに出たのだという。なぜ打倒しなければいけないのかには言及がないものの、このとき、九州地方の力を結集して攻め上がってきたのが「神武勢力」だったんだそうだ。

生駒山 写真AC
(生駒山 写真AC)

んで、この先はおおむね日本書紀に書かれた通りの展開になるわけだが、ぼくが岩波新書なのに自由だと感じたのは、ここから。

村井さんが、唐古・鍵遺跡を邪馬台国の中心地だという根拠は魏志倭人伝の中にあって、それが邪馬台国の「四官」。倭人伝には卑弥呼の下に4つの「官」が記載されていて、これが奈良盆地の4つの勢力と対応しているのだという。

例えば筆頭の「伊支馬」はイコマと読めるから「生駒」で、その音は第12代垂仁天皇の和風諡号「活目(いくめ)入彦」に通じる。その垂仁天皇のお墓があるのは「菅原(奈良市)」なので、「伊支馬」は奈良市から生駒市あたりを基盤にした邪馬台国の長官で、のちに生駒市や天理市を拠点にした「物部氏」だ———というのが、村井さんの説明になる。

奈良市 写真AC
(奈良市 写真AC)

んー、でも、大変失礼ながら、当時の中国語で「伊支馬」をどう読んだかは分からない以上、語呂合わせと伝言ゲームの域を出てない印象があるな、ぼくには。

倭人伝は邪馬台国の4番目の「官」を「奴佳鞮」と記しているけど、村井さんに言わせれば、これは「ナカト」と読めるので「中処」なのだという。んで「中処」は「中央部」を意味するのだという。

そして、この「奴佳鞮」が「中央部」だという「事実」から、邪馬台国の都は「奴佳鞮」の中にあると分かり、それは奈良盆地の中央にある唐古・鍵遺跡だといえるんだそうだ。

なお纒向遺跡はというと、「彌馬獲支」すなわち「ミマキ」すなわち「御間城入彦」すなわち「崇神天皇」のお墓がある奈良盆地の東部、桜井市の「官」に統括されているので、チト東に寄り過ぎているのだとか。

邪馬台国の四官
(出典『出雲と大和』)

・・・ううむ、正直、純粋な読書だったら、ここで本を閉じていたなー。

だって邪馬台国は「出雲族」の国で、神武天皇の皇軍に降伏したのに、なんで神武天皇の子孫である崇神天皇や垂仁天皇のお墓が、邪馬台国の「四官」に関係するのか・・・時系列が逆のような気がするんだが。

村井さんは、出雲族の物部氏がイコマ、同・三輪氏がミマキ、同・鴨氏がミマスの子孫だと主張されてるんだから、その三氏族との語呂合わせを見つけたほうが、読者にアピールできたんじゃないだろうか。

ちなみに崇神紀、垂仁紀で本家(?)島根県の「出雲族」の神宝を奪って降伏させたのは、村井さんが出雲族のイコマの子孫だという、物部氏だ。

三輪山 写真AC
(三輪山 写真AC)

大物主は出雲の神か

繰り返しになるが、村井さんが邪馬台国は「出雲族」が建てた国だとする根拠は、日本書紀の「一書」(参考文)にある。

その第8段の第6の一書では、まず大国主神の別名に「大物主神」があると述べた後、大己貴神が、自分こそが大己貴神の「幸魂奇魂」だという、海から現れた神を三輪山に祀り、この神の子が鴨氏、三輪氏だという説明が付けられている。

この「一書(あるふみ)」ってのは本文につづく参考文(異伝、別伝)で、その出所には、691年に18氏の豪族が提出させられた「その祖らの墓記」が含まれている、という説がある。

このときの18氏の内訳は「大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穗積・阿曇」で、筆頭に持統天皇の側近だった「大三輪氏」の名前がみえる。

大物主神を祀る「大神神社」2020年冬参詣
(大物主神を祀る「大神神社」2020年冬参詣)

ただ、大物主が出てくる「一書」は他にもあって、それが第9段の第2の一書。

そこでは、まず大己貴神が幽界に退去したあと、経津主命(ふつぬし)による地上の掃討戦が行われ、そのとき帰順してきた首魁の二神というのが、大物主事代主だった。明らかに、大国主神と大物主は別の神だ。

主役を張るフツヌシは、物部氏の祖神とされているので、691年に「石上(いそのかみ)氏」か「穂積氏」が提出した物部氏の「家記」が、ネタ元だったかも知れない(個人の想像)。

ぼくは神武東征に帰順したニギハヤヒが、奈良土着の三輪氏(大物主)と鴨氏(事代主)を武力で従えた史実(?)が神話に反映したものだと思っているが、これも個人の想像だ。

事代主神を祀る「鴨都波神社」2023年春参詣
(事代主神を祀る「鴨都波神社」2023年春参詣)

ま、ぼくの想像は置くとして、つまり日本書紀には大物主と大国主が「同一神」だという一書と、「別の神」だという一書が一本ずつあって、引き分けだということだ。

こうなると判定は『古事記』にまかせるしかない。んで古事記を開いてみれば、海を照らして現れた神は、自分を御諸山に祀ってくれたら「あなたと一緒によく国を作り成しましょう」といったと書いてある(『角川ソフィア文庫』)

大国主が二重人格でないなら、この二神は「別の神」になると思う。なので総合判定も、2対1で「別の神」に軍配が上がる。

というわけで、日本書紀の一書(異伝、別伝)の一本だけを根拠にした大物主=大国主から、出雲族の大和進出を読み取るのは、さすがに無理があるというのが、ぼくの印象。

ちなみに当の大神神社でも、大物主と大国主の祭祀は分けて行われていて、大国主については「摂末社の御待遇と大差ない」と、昭和25〜58年まで宮司を勤められた中山和敬氏が書かれている。
(『大神神社』学生社/1971年)

別雷神を祀る「上賀茂神社」2023年春参詣
(別雷神を祀る「上賀茂神社」2023年春参詣)

籠神社「社伝」の出雲系

もう一点、村井さんが論拠に持ち出してるのが、丹後国一の宮「籠(この)神社」に残る「社伝」だ。

それによると、籠神社の主祭神「彦火明(ほあかり)命」は、京都の山城国一の宮「上賀茂神社」の主祭神「賀茂別雷大神」とは「異名同神」だとあるんだそうだ。まぁ、それを籠神社が主張するのは自由だと思う。

だがプロの歴史学者である村井さんが、山城の「賀茂氏」と同族である大和の「鴨氏」が祀る「味耜高彦根神(アジスキタカヒコネ)」が大国主の子、つまり「出雲系の神」だから、山城賀茂氏の「別雷神」も「出雲系の神」だと結びつけ、さらには海部氏の「彦火明」も「出雲系」だと広げていくのは、あまり学問的な態度とはいえないような印象がある。

さらに、籠神社に残る「海部氏系図」「勘注系図」には、「天火明」のまたの名として「天照国照彦天火明櫛玉饒速日命」とあることから、「天火明」=「饒速日命」で、ニギハヤヒも「出雲系の神」とくれば、この「友達の輪」はどこまでも続いていくのでは?と心配になってくる。

平安時代の9世紀後半に成立した「海部氏系図」「勘注系図」より、150年は古い日本書紀には「天火明」と「饒速日」は別の神として登場してるんだから、新しい方が改変したと考えるのがフツーだと、ぼくは思う(日本書紀のお披露目には石上氏、穂積氏も参加しているそうだ)。

味耜高彦根神を祀る「高鴨神社」2023年春参詣
(味耜高彦根神を祀る「高鴨神社」2023年春参詣)

村井さんが「もっとも正統的な出雲系の神」だといわれる「味耜高彦根神」は、通説では大和の葛城地方の神だとされている。というのも、出雲には味耜高彦根神を大きく祀ってきた神社がないから。

一方、葛城には「名神大社」という高位で味耜高彦根神を祀ってきた「高鴨神社」がある。出雲の「阿須伎神社」にはぼくもお参りしてきたが、延喜式では「小社」に過ぎず、佇まいも「村の鎮守」といった印象だった。

確かに『出雲国風土記』には「大穴持命」の子としてアジスキタカヒコネが登場する。だがそれは子供時代の話ばかりで、成人してからの活動が全くない。「子」として大国主に結びつけられてはいるものの、実体を感じさせない。

味耜高彦根神を祀る「阿須伎神社」2022年秋参詣
(味耜高彦根神を祀る「阿須伎神社」2022年秋参詣)

歴史学者の平林章仁さんは、4世紀後半から大豪族「葛城氏」の元で金属精錬に従事した「渡来系工人集団」が信奉した金属神がアジスキタカヒコネで、葛城氏の配下にあった鴨氏がその祭儀を担ったのが「高鴨神社」だろうと考察されている。
(『謎の古代豪族・葛城氏』2013年)

アジスキタカヒコネを祀る「一の宮」は陸奥国(白河)と土佐にあるが、それらは鴨氏の地方拡大と歩調を合わせたもので、例えば出雲にも「高鴨神社」の「神戸」が28戸あった。

村井さんが「正統的」と断言するほど、アジスキタカヒコネが「出雲系」で間違いないかといえば、疑問も大きいと思う。(すいません!詳しくは関連記事を!)

【関連記事】
「阿須伎神社」のアジスキタカヒコネは出雲の神か
鴨・葛城の神社と出雲のオオクニヌシ
大物主と大国主は同一神か

彦火明命を祀る「籠神社」2021年夏参詣
(彦火明命を祀る「籠神社」2021年夏参詣)

籠神社に残る系図が、江戸時代に製作された現物であることは疑いがないようだ。でも、そこに書かれている系図が「事実」がどうかは別の問題だろう。

正直、日本書紀の一書(参考文、別伝)と、一氏族の系図だけを根拠にした村井さんの説は、ぼくにはあまり説得力が感じられなかった。せめて考古学の裏付けがあれば良かったが、出雲と大和では文化が違いすぎて・・・。

すみません!こちらも似たような話題になります(↓)。

【関連記事】梅原猛『葬られた王朝』〜出雲と大和の戦い〜

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